今日の言葉
◎「すべては仮説にはじまり、仮説に終わる」(竹内 薫)
上記はベストセラー『99.9%は仮説』竹内薫著・光文社新書のエピローグの表題である。
この本の主旨は副題にある。→「思い込みで判断しないための考え方」
世の中の「真理」「常識」「正しい答え」と思っている事象・事柄もみんな一つの仮説に過ぎない、としているこの本は「ものの見方・考え方」を身に付ける上で一読に値する。
少々、本の内容を紹介。
ガリレオがイタリアでは始めてとなる「望遠鏡」を自作し、24人の大学教授を集めて披露した時の事。
最初は地上の景色を覗いて驚嘆し口々に賞賛していた学者たちだったのですが、ガリレオが次に天上の「月」を覗かせた時、学者たちは全員口々に「こんなのはデタラメだ」と言いました。
教授たちの中に有名な天文学者ケプラーの弟子、ホーキーもいて次の様に語っています。
「それ(ガリレオの望遠鏡)は、下界においては見事に働くが、天上にあってはわれわれを欺く」(ガリレオが作った約33倍の倍率の望遠鏡は地上を見る分には問題なく作動するが、天に向けるとうまく働かない代物だ)
教養高い学者たちのこの反応は当時の「常識」(=天上界は神が棲む世界であり、完全な法則に支配された完璧な世界との常識)によるもので、地上からみた青白い神秘に満ちた神の棲む天上界の「月」がガリレオの望遠鏡で覗くとクレーターで凸凹だらけ(不完全)に見えたからです。「デタラメだ(間違っている)!!」
即ち、当時の世の中には「天上界(神の棲む世界=完全な世界)と地上界(人間の住む世界=不完全な世界)は別々の法則に支配されている」といった常識が蔓延っていたからです。
ここで本の内容と離れますが、今、フト思いついたことを書いておきます。
ピッタリとはいえませんが、それは「この教授達と今の『改憲して正式に軍隊を持ち戦争も辞せず』と考えている人達は似ているな。」と思ったのです。
前に載せたブログ「当時のアメリカに、GHQに押し付けられた憲法とはいえ、平和主義は素晴らしい考えだと思う。
それを守れという主張も正しい。戦争をやっちゃいかんというのもまったくその通り。
でも現実を見れば、国家の体をなしている以上、軍というものが存在しているわけで、国際紛争の最終解決手段として戦争という手段がある。護憲派は剣道大会に素手で参加するようなものだ。云々」で分かる通り、戦争するのが世の中の現実(=「常識」)と考え、ガリレオならぬ護憲派を「間違っている!」と決め付けているわけです。
横道に逸れましたが、本の内容を続けます。
竹内氏は「マイナスイオンは体にいい仮説」は正しいか?として次の様にいっています。
マイナスイオンは体にいいとして、ヘアドライヤー・空気清浄機等の様々な製品でマイナスイオン効果を謳っていますが、実はマイナスイオンが体にいいという仮説は専門家の間では白い仮説として認められていません。科学・医学専門誌にキチンとしたデータとともに発表された論文はないのです。実際海外ではマイナスイオンが体にいいと言う話はあまり耳にしません。更に「マイナスイオン」の実態も不明なのです。科学関係の人が集まる場で笑い話として出る話が、世間で根拠のない広まり方をしている(ブームになる)ことが怖いくらいです。
無風の注:昔からマスメディア・業者が集団心理を利用して報道・PRすることによりハヤリ(流行)を作り出す、と言われているが、この竹内氏が「怖いくらい」に感じる事象は毎日の報道に感じている。
また本の内容から離れますが、今回の自民党総裁選の報道の仕方を見ても「怖く」なります。
最近の報道が「行政の府」国会の一政治政党の党首を選ぶ報道一色で塗りつぶされ、候補者の略歴やら「人となり」を紹介、両氏の街頭演説を放映して「両氏の対決」を興味本位に解説している。
この報道の仕方ではそればかり見せられている国民は、「自民党の」どちらを選ぶか、どちらを応援するかの二者択一を迫られているかの感覚になる。しかしこの党首選びは、国民(有権者)の全員が関与する選挙ではなく、国会の自民党議員と国民の中の自民党員によって決められることである。
確かにいままで自民党党首が「行政の府」内閣の総理大臣になっているため国民が興味を持つのは当り前であるが、この報道の仕方により、自民党政権によって行なわれてきた「権力の集中長期化により起こっている腐敗」・悪政等様々な問題を隠蔽し恩赦を与える結果となっている。(安倍総理の突然の辞任・テロ特別対策法延長問題及びイラク戦争への違法給油問題・年金・佐藤議員発言・安倍氏の脱税問題・等々大きく取り上げなければならない問題から国民の目を背けさせている。)
岸内閣が反対世論の盛り上がりによって総辞職の危機にあった時、マスメディアを総動員した「皇太子ご成婚」の報道により、国民の目を逸らしたやり方(このご成婚報道一色にする情報操作により岸内閣は生き延びた)によく似ている。
下の記事は、おとなしい書き方であるが、参考までに載せておく。
発信箱
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/hassinbako/news/20070917ddm002070088000c.html
(引用)
発信箱:作戦に乗ってなるものか=与良正男
私たちメディアはどうしても先に先にと関心が向かいがちになる。自民党総裁選が正式に始まる前から福田康夫元官房長官が圧勝だとか。さらには、では「福田内閣」になったらその顔ぶれはとか……。そうこうしているうちに安倍晋三首相の突然の辞任表明が随分と過去の話のようになっていく。
それが自民党の作戦だということは忘れてはいけない。「次の首相」に世間の関心を引き付けることで、あの無責任な退陣劇を忘れてもらおうとしているのである。
そもそも昨秋、党内が雪崩を打って安倍さん支持に傾いて、未熟な内閣を作ったのは誰だったのか。先の参院選で大敗し、国民がノーと言ったのは明らかだったのに、安倍さんの続投を許したのは誰だったのか。あるいは「11月1日に期限が来る。インド洋での自衛隊活動が中断しては国益を損なう」と大騒ぎしていたテロ対策特別措置法の延長問題はどこへ行ってしまったのか。新総裁が決まるまでは国会は開店休業。いつの間にか期限切れが前提になっている。…中略…7月末から今まで時間を浪費した揚げ句に勝手に首相が辞めて、勝手に代わるという自民党の都合だけの話と言い換えてもいい。
早く政治を国民の手に取り戻そう。それには、首相交代後、一定の国会論戦を終え、速やかに衆院を解散して、有権者の審判を仰いでもらうしかない。私はしつこく解散・総選挙を求めていくつもりだ。(論説室)
毎日新聞 2007年9月17日 東京朝刊…以上引用終り
さて「99.9%は仮説」(竹内薫氏著)に戻ります。…引用開始
アイツはそういうやつなんだよ!
哲学の分野に「役割理論」という有名な理論があります。
たとえば、仲の良い親友がいるとします。すると、アイツはこういうやつなんだというように、われわれは無意識にその人間の人格をひとつに決めつける傾向がありますよね。
よく引合いに出されるのが,ジキル博士とハイド氏の例です。
ジキル博士はいわゆる二重人格で、薬を飲むことで性格がガラリと変わりますよね。
こういった多重人格ものをテレビや本で見聞きすると、普通の人はショックを受けるわけですよ。
ところが、役割理論では、多重人格というのはあたりまえの考え方なんです。
つまり、ある人間を一つの人格で説明することはできない、というのが役割理論の考え方なんです。
それなのに、みんなはそれができると思っているので、「あの人は××という人だよね」などと一つに決めつけてしますわけです。
人間みな多重人格
テレビでよく目撃する光景ですが、犯罪で捕まった人について、「どんな人でした?」とインタビューすると、必ずと言っていいほど,「そんな人にはみえなかった」とか「よく挨拶してくれて真面目でいい人だった」などといった返事がかえってきますよね。あるいは「まさか、わが子が…」みたいな話も良く聞かれるわけです。
これはまさに、この人間はこういう人なんだゾーというように、たたひとつの人格で他人のことをとらえている証拠です。固定化された先入観です。
でも、それはまったくちがうんですよ。
実際には、どんな人間でもたくさんの人格、つまり「役割」を演じているのです。だから「役割理論」と呼ぶんです。
「演じる」というと少し違和感があるかもしれませんが、誰でもがごく自然に、日常生活でいろんな人格を演じています。(略しますが、会社で肩書きに応じた役割を演じ、家に帰ると夫や父親の役割等意識せずに日常やっている、
と多重人格性を説明)
そう考えると、よく罪を犯した人が「魔がさした」といいますが、魔がさしたのではなくもともと悪い面をもっているんです。だからテレビで優等生的な発言をしている人がハレンチ罪で捕まるというのもごく当たり前のことなのです。その人はそういう人格も持っていた、というだけの話なんです。
つまり、役割理論では、この人はこういう場面ではこういうことをやる人、そういう場面ではそういうことをやる人、もしかしたらああいう場面ではああいうことをやるかもしれない人…といった複合的に捉えていくんです。
以上で引用を終わりますが、この哲学の「役割理論」では、私はサルトルの「人が誰でもが持っている否定的契機(悪)の投影」の話が一番理解しやすい、と思います。詳しくはサルトルの著書をお読み下さい。
非難されても仕方のないこと(「悪いこと」)をした人や国を「許せない」として、その結果を早急に出そう(徹底してやっつけよう)とするところに「社会的ヒステリー現象」が起こり戦争が起こります。権力者はマスメディア・宣伝会社を駆使して国民を煽動しようとします。
あなたがたは、是非、この竹内氏の「99.9%は仮説」を理解して「思い込み」(マスメディアによるスリコミ)によって判断をしないようにお願いします。
独裁政治を目論む者(政治家・政党)を打ち破る方法は、ただ一つある。
それは、国民のみんなが政治的に賢明になることである。
人に言われて、その通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと、正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。
民主主義は、「国民のための政治」であるが、何が「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。」…以上、文部省昭和23年作成の教科書「民主主義」より(気に入った文なので何回も載せます)
◎政治は国民の生活のためにある。だから一般庶民の生活が苦しくなるような政治は悪なのである。
↑
何も難しく語らなくても、政治の良し悪しがわかることは数多い。…人のブログを再三載せています。
今日はこの辺で筆を置きます、ではなくてキーボード打ちを終えます。
PS.前日の日記で「続きます」と書いて、続いていないと思われた方へ。
実は、「続きます」で投稿した後、読んでみて中途半端だなと思い、もう一度編集モードで直接書き込んで完成させたのですが、投稿を押す前に間違って他をクリックしてしまい、考えながら1時間ほど掛けて完成させた部分が全てパーになってしまいました。「もう一度」という気力は年を取っているせいではなく、悔しさと後悔のなかで消えうせてしまいました。(実はこれで三回目)
今日書いたことを思い出しながら載せようと思ったのですが、他のことから書き始めたら、ここで思考パワーゼロとなりましたので、ゲームオーバー、また次の機会とします。
◎「すべては仮説にはじまり、仮説に終わる」(竹内 薫)
上記はベストセラー『99.9%は仮説』竹内薫著・光文社新書のエピローグの表題である。
この本の主旨は副題にある。→「思い込みで判断しないための考え方」
世の中の「真理」「常識」「正しい答え」と思っている事象・事柄もみんな一つの仮説に過ぎない、としているこの本は「ものの見方・考え方」を身に付ける上で一読に値する。
少々、本の内容を紹介。
ガリレオがイタリアでは始めてとなる「望遠鏡」を自作し、24人の大学教授を集めて披露した時の事。
最初は地上の景色を覗いて驚嘆し口々に賞賛していた学者たちだったのですが、ガリレオが次に天上の「月」を覗かせた時、学者たちは全員口々に「こんなのはデタラメだ」と言いました。
教授たちの中に有名な天文学者ケプラーの弟子、ホーキーもいて次の様に語っています。
「それ(ガリレオの望遠鏡)は、下界においては見事に働くが、天上にあってはわれわれを欺く」(ガリレオが作った約33倍の倍率の望遠鏡は地上を見る分には問題なく作動するが、天に向けるとうまく働かない代物だ)
教養高い学者たちのこの反応は当時の「常識」(=天上界は神が棲む世界であり、完全な法則に支配された完璧な世界との常識)によるもので、地上からみた青白い神秘に満ちた神の棲む天上界の「月」がガリレオの望遠鏡で覗くとクレーターで凸凹だらけ(不完全)に見えたからです。「デタラメだ(間違っている)!!」
即ち、当時の世の中には「天上界(神の棲む世界=完全な世界)と地上界(人間の住む世界=不完全な世界)は別々の法則に支配されている」といった常識が蔓延っていたからです。
ここで本の内容と離れますが、今、フト思いついたことを書いておきます。
ピッタリとはいえませんが、それは「この教授達と今の『改憲して正式に軍隊を持ち戦争も辞せず』と考えている人達は似ているな。」と思ったのです。
前に載せたブログ「当時のアメリカに、GHQに押し付けられた憲法とはいえ、平和主義は素晴らしい考えだと思う。
それを守れという主張も正しい。戦争をやっちゃいかんというのもまったくその通り。
でも現実を見れば、国家の体をなしている以上、軍というものが存在しているわけで、国際紛争の最終解決手段として戦争という手段がある。護憲派は剣道大会に素手で参加するようなものだ。云々」で分かる通り、戦争するのが世の中の現実(=「常識」)と考え、ガリレオならぬ護憲派を「間違っている!」と決め付けているわけです。
横道に逸れましたが、本の内容を続けます。
竹内氏は「マイナスイオンは体にいい仮説」は正しいか?として次の様にいっています。
マイナスイオンは体にいいとして、ヘアドライヤー・空気清浄機等の様々な製品でマイナスイオン効果を謳っていますが、実はマイナスイオンが体にいいという仮説は専門家の間では白い仮説として認められていません。科学・医学専門誌にキチンとしたデータとともに発表された論文はないのです。実際海外ではマイナスイオンが体にいいと言う話はあまり耳にしません。更に「マイナスイオン」の実態も不明なのです。科学関係の人が集まる場で笑い話として出る話が、世間で根拠のない広まり方をしている(ブームになる)ことが怖いくらいです。
無風の注:昔からマスメディア・業者が集団心理を利用して報道・PRすることによりハヤリ(流行)を作り出す、と言われているが、この竹内氏が「怖いくらい」に感じる事象は毎日の報道に感じている。
また本の内容から離れますが、今回の自民党総裁選の報道の仕方を見ても「怖く」なります。
最近の報道が「行政の府」国会の一政治政党の党首を選ぶ報道一色で塗りつぶされ、候補者の略歴やら「人となり」を紹介、両氏の街頭演説を放映して「両氏の対決」を興味本位に解説している。
この報道の仕方ではそればかり見せられている国民は、「自民党の」どちらを選ぶか、どちらを応援するかの二者択一を迫られているかの感覚になる。しかしこの党首選びは、国民(有権者)の全員が関与する選挙ではなく、国会の自民党議員と国民の中の自民党員によって決められることである。
確かにいままで自民党党首が「行政の府」内閣の総理大臣になっているため国民が興味を持つのは当り前であるが、この報道の仕方により、自民党政権によって行なわれてきた「権力の集中長期化により起こっている腐敗」・悪政等様々な問題を隠蔽し恩赦を与える結果となっている。(安倍総理の突然の辞任・テロ特別対策法延長問題及びイラク戦争への違法給油問題・年金・佐藤議員発言・安倍氏の脱税問題・等々大きく取り上げなければならない問題から国民の目を背けさせている。)
岸内閣が反対世論の盛り上がりによって総辞職の危機にあった時、マスメディアを総動員した「皇太子ご成婚」の報道により、国民の目を逸らしたやり方(このご成婚報道一色にする情報操作により岸内閣は生き延びた)によく似ている。
下の記事は、おとなしい書き方であるが、参考までに載せておく。
発信箱
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/hassinbako/news/20070917ddm002070088000c.html
(引用)
発信箱:作戦に乗ってなるものか=与良正男
私たちメディアはどうしても先に先にと関心が向かいがちになる。自民党総裁選が正式に始まる前から福田康夫元官房長官が圧勝だとか。さらには、では「福田内閣」になったらその顔ぶれはとか……。そうこうしているうちに安倍晋三首相の突然の辞任表明が随分と過去の話のようになっていく。
それが自民党の作戦だということは忘れてはいけない。「次の首相」に世間の関心を引き付けることで、あの無責任な退陣劇を忘れてもらおうとしているのである。
そもそも昨秋、党内が雪崩を打って安倍さん支持に傾いて、未熟な内閣を作ったのは誰だったのか。先の参院選で大敗し、国民がノーと言ったのは明らかだったのに、安倍さんの続投を許したのは誰だったのか。あるいは「11月1日に期限が来る。インド洋での自衛隊活動が中断しては国益を損なう」と大騒ぎしていたテロ対策特別措置法の延長問題はどこへ行ってしまったのか。新総裁が決まるまでは国会は開店休業。いつの間にか期限切れが前提になっている。…中略…7月末から今まで時間を浪費した揚げ句に勝手に首相が辞めて、勝手に代わるという自民党の都合だけの話と言い換えてもいい。
早く政治を国民の手に取り戻そう。それには、首相交代後、一定の国会論戦を終え、速やかに衆院を解散して、有権者の審判を仰いでもらうしかない。私はしつこく解散・総選挙を求めていくつもりだ。(論説室)
毎日新聞 2007年9月17日 東京朝刊…以上引用終り
さて「99.9%は仮説」(竹内薫氏著)に戻ります。…引用開始
アイツはそういうやつなんだよ!
哲学の分野に「役割理論」という有名な理論があります。
たとえば、仲の良い親友がいるとします。すると、アイツはこういうやつなんだというように、われわれは無意識にその人間の人格をひとつに決めつける傾向がありますよね。
よく引合いに出されるのが,ジキル博士とハイド氏の例です。
ジキル博士はいわゆる二重人格で、薬を飲むことで性格がガラリと変わりますよね。
こういった多重人格ものをテレビや本で見聞きすると、普通の人はショックを受けるわけですよ。
ところが、役割理論では、多重人格というのはあたりまえの考え方なんです。
つまり、ある人間を一つの人格で説明することはできない、というのが役割理論の考え方なんです。
それなのに、みんなはそれができると思っているので、「あの人は××という人だよね」などと一つに決めつけてしますわけです。
人間みな多重人格
テレビでよく目撃する光景ですが、犯罪で捕まった人について、「どんな人でした?」とインタビューすると、必ずと言っていいほど,「そんな人にはみえなかった」とか「よく挨拶してくれて真面目でいい人だった」などといった返事がかえってきますよね。あるいは「まさか、わが子が…」みたいな話も良く聞かれるわけです。
これはまさに、この人間はこういう人なんだゾーというように、たたひとつの人格で他人のことをとらえている証拠です。固定化された先入観です。
でも、それはまったくちがうんですよ。
実際には、どんな人間でもたくさんの人格、つまり「役割」を演じているのです。だから「役割理論」と呼ぶんです。
「演じる」というと少し違和感があるかもしれませんが、誰でもがごく自然に、日常生活でいろんな人格を演じています。(略しますが、会社で肩書きに応じた役割を演じ、家に帰ると夫や父親の役割等意識せずに日常やっている、
と多重人格性を説明)
そう考えると、よく罪を犯した人が「魔がさした」といいますが、魔がさしたのではなくもともと悪い面をもっているんです。だからテレビで優等生的な発言をしている人がハレンチ罪で捕まるというのもごく当たり前のことなのです。その人はそういう人格も持っていた、というだけの話なんです。
つまり、役割理論では、この人はこういう場面ではこういうことをやる人、そういう場面ではそういうことをやる人、もしかしたらああいう場面ではああいうことをやるかもしれない人…といった複合的に捉えていくんです。
以上で引用を終わりますが、この哲学の「役割理論」では、私はサルトルの「人が誰でもが持っている否定的契機(悪)の投影」の話が一番理解しやすい、と思います。詳しくはサルトルの著書をお読み下さい。
非難されても仕方のないこと(「悪いこと」)をした人や国を「許せない」として、その結果を早急に出そう(徹底してやっつけよう)とするところに「社会的ヒステリー現象」が起こり戦争が起こります。権力者はマスメディア・宣伝会社を駆使して国民を煽動しようとします。
あなたがたは、是非、この竹内氏の「99.9%は仮説」を理解して「思い込み」(マスメディアによるスリコミ)によって判断をしないようにお願いします。
独裁政治を目論む者(政治家・政党)を打ち破る方法は、ただ一つある。
それは、国民のみんなが政治的に賢明になることである。
人に言われて、その通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと、正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。
民主主義は、「国民のための政治」であるが、何が「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。」…以上、文部省昭和23年作成の教科書「民主主義」より(気に入った文なので何回も載せます)
◎政治は国民の生活のためにある。だから一般庶民の生活が苦しくなるような政治は悪なのである。
↑
何も難しく語らなくても、政治の良し悪しがわかることは数多い。…人のブログを再三載せています。
今日はこの辺で筆を置きます、ではなくてキーボード打ちを終えます。
PS.前日の日記で「続きます」と書いて、続いていないと思われた方へ。
実は、「続きます」で投稿した後、読んでみて中途半端だなと思い、もう一度編集モードで直接書き込んで完成させたのですが、投稿を押す前に間違って他をクリックしてしまい、考えながら1時間ほど掛けて完成させた部分が全てパーになってしまいました。「もう一度」という気力は年を取っているせいではなく、悔しさと後悔のなかで消えうせてしまいました。(実はこれで三回目)
今日書いたことを思い出しながら載せようと思ったのですが、他のことから書き始めたら、ここで思考パワーゼロとなりましたので、ゲームオーバー、また次の機会とします。
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