9月8日(2015年)の参議院特別委での日弁連・伊藤真氏の参考人意見陳述
(これは“誰か書き下ろして!”との要望に答えたもの。映像はYouTubeにて見て下さい。)
伊藤真で御座います。
今回の安保法案が今の日本の安全保障にとって適切か?必要か?
そうした議論はとても重要だと思います。
しかし、それ以上に“そもそも憲法上許されているのか否か” この議論がいまだ十分に為されているとは思いません。
どんな安全保障政策であろうが、外交政策であろうが、憲法の枠の中で実行すること。
これが立憲主義の本質的要請であります。
憲法があってこその国家であり、権力の行使である。
憲法を語る者に対して、往々に「軍事の現場を知らない」「憲法論は観念的で…」と良く批判されます。
しかし、不完全な人間が謂わば実行する現場そして現実。
これを人間の英知であるところの、まあ謂わば観念の所産であるところの憲法によってコントロールする。
まさにそれが人類の英知であり、立憲主義であります。
憲法論がある意味で観念的で抽象的なのは当然のことであります。
現場の感情や勢いに任せて人間が過ちを犯してしまう。
それを如何に冷静に知性と理性でシバリをかけるか、事前にコントロールするか、それがまさに憲法の本質と考えています。
憲法を無視して今回の様な立法を進める事は立憲民主主義国家としては、到底有り得ないことです。
国民の理解が得られないまま採決を強行して法律を制定させる事など、あってはならない、と考えます。
同法案は国民主権・民主主義・そして憲法9条・憲法前文の平和主義・ひいては立憲主義に反するものでありますから、直ちに廃案にすべき、と考えます。
(多数決について)
国防や安全保障は国民にとって極めて重要な政策課題であります。
ですから、その決定事項に従うためには、それを決定する国会に民主的正統性がなければなりません。
憲法は、その冒頭で「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し…」と規定しております。
何故正当な選挙が必要なのか?
それは、そこでの「多数決」の結果に賛成できない国民であっても、この権力の行使を受けざるをえません。それに納得できる手続きが保障されなければならないからです。
仮に結論に反対であったとしても主権者国民の多数から選出された代表者が充分に審議討論して、その問題点を明確にした上で成立した法律なので、仮に結論に対して反対の立場だったとしても取り敢えず従う、ということであります。
国会における法律制定と国家権力の行使を正統化するためには、どうしても2つの事が必要であります。
一つは正当に選挙された代表者であること。
もう一つ、充分な審議によって問題点を明確にしたこと。
残念ながら共に満たされていない、と考えられます。
(選挙区の議員定数について)
現在の国会は衆議院については2011年と2013年、参議院については2012年・2014年とそれぞれ2度、毎年最高裁によって違憲状態と指摘された選挙によって選ばれた議員によって構成されております。
謂わば国民の少数の代表でしかありません。
これは異常であり、違法状態国会とも言えるようなものです。
まあ、この瞬間、全ての皆さんを敵に回してしまった様な気がするんですが…。
そこで安保法制というもの、国民の生活の根幹に関わるような法律を制定しようというわけですから「憲法判断において最高裁を尊重する」というのであれば、まずは最高裁が指摘するように議員定数、これを憲法の投票価値の平等に合わせて正す。
民主(?)が機能するようにしてからこうした議論をするのが筋ではないかと考えます。
(参考:ウィキペディアより)
この様に代表民主制としても正統性を欠く国会である場合、主権者国民の声を直接聞くことが不可欠と考えます。
連日の国会前の抗議行動・全国の反対集会・デモなどを始め、各種の世論調査の結果で、国民がこの法制に反対であることは周知の事実となっております。
国民の声は決して雑音ではありません。
自分たちの生活が根底から覆されるのではないか、との危機感を抱いている生活者であり、また主権者であり、憲法制定権者の声であります。
国会議員にとっては自分たちを選出し権力行使の権限を授権してくれた主人の声。
実際に声を上げている人々の背後に思いを共有する人々がどれほどいるであろうか。
民意を尊重する政治家ならば想像力を発揮すべきだ、と考えます。
違憲状態という異常の国会であるからこそ、国民直接の声に謙虚に耳を傾けなければならない。
そうでなければ民主主義国家とは到底言えないでしょう。
勿論、参議院で議論を継続しても、必ず60日ルールを使われてしまうようなことは、議会制民主主義の否定、あってはならないこと、と考えます。
民主主義のもとでは多数決によって物事が決定します。
しかし、少数意見・反対意見を十分に聞き、審議を尽くしたといえる審議討論の過程こそが、多数決の結果の正当性を担保するものであります。
充分に審議を尽くすことで問題点を明確にし、それを国民に示すことで、次の選挙の際の国民の判断材料を提供するわけであります。
充分な議論も尽くさずに「次の選挙で審判を受ければ良い」という考えは民主主義を全く理解していないもの、と考えます。
国民は国会で充分審議がなされたからこそ、そこでの考えが自分の考えと違っていたとしても一旦は納得し、従います。
この国民の納得感こそが民主主義を支える重要な要素であります。
国民の納得と支持に支えられて自衛隊は活動します。
国民の納得と支援が不十分なままで、他国民の殺傷行為を国の名のもとに行なう、もしくは自衛官個人の判断で行なう、ということになると、それは国民にとっても、また現場の自衛官にとっても悲劇としか言い様がありません。
では、不安を感じている国民が理解できるような充分な審議が尽くされたと言えるでしょうか?
各種世論調査によっても「国民の理解が進んでいない」と指摘されています。
何事にもメリット・デメリットがあるはずなんですが、政府の側からこの法案についてのメリットの説明しか無い様に思われます。
デメリットをどの様に克服するか、の議論が全くされていない、と感じるからこそ国民は不安になり反対するのではないでしょうか。
例えば、政府は「戦争に巻き込まれることはない」という。
また、(政府は)「戦争法」という呼び方を批判されます。
しかし、例えば「集団的自衛権」を考えた場合、たとえ要件を解釈で厳格に制限したとしても、その効果は、日本が武力行使されていない段階で、日本から先に相手国に対し武力攻撃をする事を認めるものです。
敵国兵士の殺傷を伴ない、日本が攻撃の標的となるでありましょう。
これは…日常用語ではこれを「戦争」と言います。
こうして、戦争に巻き込まれるというデメリットを越えるメリットがある、ということを何ら説明されていません。
(徴兵制について)(または“法案が通ってしまえばこっちのもの”について)
(政府は)「徴兵制は憲法18条に反するから全くありえない(と明確に断言できる)」と言います。
憲法18条で「意に反する苦役に服せられない」とありますが、しかし、これは「公共の福祉」で制限できる、と解釈されているものです。
ということは、必要性・合理性が生じたならば徴兵制も可能という事を意味します。
サイバー対策のIT技術者、輸送・医療・ホームなど、必要な人材の確保に窮したときでも、限定的な徴兵制すらありえない、と言い切れるのでしょうか?
集団的自衛権の解釈でやって見せた様に、これまでの政府解釈を状況が変化した、という下で、ある日突然変更してしまう、という可能性を否定できません。
(抑止力・他)
(政府は)抑止力を高めることが国民の命と幸せな暮らしを守る、と言います。
しかし、軍事力・軍事的抑止力を高めることで、より緊張が高まり危険になる可能性もあるはずなのですが、その説明はありません。
他にも、
・立法事実(立法を必要とする根拠・現実)が本当にあるのか?
・自衛隊員と国民のリスクはどうなのか?
・後方支援が何故武力行使と一体化しないのか?
・海外で自己保存以外の武力行使が許される根拠はどこにあるのか?
・他国軍の武器防御が許される法的根拠は?
・自衛官が海外で民間人を誤射してしまった際の処理
等、他にも不明な点は山積みであります。
多くの国民の疑問を残したまま強引に採決を強行してはなりません。
長いので分割する。②③と続きます。
(これは“誰か書き下ろして!”との要望に答えたもの。映像はYouTubeにて見て下さい。)
伊藤真で御座います。
今回の安保法案が今の日本の安全保障にとって適切か?必要か?
そうした議論はとても重要だと思います。
しかし、それ以上に“そもそも憲法上許されているのか否か” この議論がいまだ十分に為されているとは思いません。
どんな安全保障政策であろうが、外交政策であろうが、憲法の枠の中で実行すること。
これが立憲主義の本質的要請であります。
憲法があってこその国家であり、権力の行使である。
憲法を語る者に対して、往々に「軍事の現場を知らない」「憲法論は観念的で…」と良く批判されます。
しかし、不完全な人間が謂わば実行する現場そして現実。
これを人間の英知であるところの、まあ謂わば観念の所産であるところの憲法によってコントロールする。
まさにそれが人類の英知であり、立憲主義であります。
憲法論がある意味で観念的で抽象的なのは当然のことであります。
現場の感情や勢いに任せて人間が過ちを犯してしまう。
それを如何に冷静に知性と理性でシバリをかけるか、事前にコントロールするか、それがまさに憲法の本質と考えています。
憲法を無視して今回の様な立法を進める事は立憲民主主義国家としては、到底有り得ないことです。
国民の理解が得られないまま採決を強行して法律を制定させる事など、あってはならない、と考えます。
同法案は国民主権・民主主義・そして憲法9条・憲法前文の平和主義・ひいては立憲主義に反するものでありますから、直ちに廃案にすべき、と考えます。
(多数決について)
国防や安全保障は国民にとって極めて重要な政策課題であります。
ですから、その決定事項に従うためには、それを決定する国会に民主的正統性がなければなりません。
憲法は、その冒頭で「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し…」と規定しております。
何故正当な選挙が必要なのか?
それは、そこでの「多数決」の結果に賛成できない国民であっても、この権力の行使を受けざるをえません。それに納得できる手続きが保障されなければならないからです。
仮に結論に反対であったとしても主権者国民の多数から選出された代表者が充分に審議討論して、その問題点を明確にした上で成立した法律なので、仮に結論に対して反対の立場だったとしても取り敢えず従う、ということであります。
国会における法律制定と国家権力の行使を正統化するためには、どうしても2つの事が必要であります。
一つは正当に選挙された代表者であること。
もう一つ、充分な審議によって問題点を明確にしたこと。
残念ながら共に満たされていない、と考えられます。
(選挙区の議員定数について)
現在の国会は衆議院については2011年と2013年、参議院については2012年・2014年とそれぞれ2度、毎年最高裁によって違憲状態と指摘された選挙によって選ばれた議員によって構成されております。
謂わば国民の少数の代表でしかありません。
これは異常であり、違法状態国会とも言えるようなものです。
まあ、この瞬間、全ての皆さんを敵に回してしまった様な気がするんですが…。
そこで安保法制というもの、国民の生活の根幹に関わるような法律を制定しようというわけですから「憲法判断において最高裁を尊重する」というのであれば、まずは最高裁が指摘するように議員定数、これを憲法の投票価値の平等に合わせて正す。
民主(?)が機能するようにしてからこうした議論をするのが筋ではないかと考えます。
(参考:ウィキペディアより)
この様に代表民主制としても正統性を欠く国会である場合、主権者国民の声を直接聞くことが不可欠と考えます。
連日の国会前の抗議行動・全国の反対集会・デモなどを始め、各種の世論調査の結果で、国民がこの法制に反対であることは周知の事実となっております。
国民の声は決して雑音ではありません。
自分たちの生活が根底から覆されるのではないか、との危機感を抱いている生活者であり、また主権者であり、憲法制定権者の声であります。
国会議員にとっては自分たちを選出し権力行使の権限を授権してくれた主人の声。
実際に声を上げている人々の背後に思いを共有する人々がどれほどいるであろうか。
民意を尊重する政治家ならば想像力を発揮すべきだ、と考えます。
違憲状態という異常の国会であるからこそ、国民直接の声に謙虚に耳を傾けなければならない。
そうでなければ民主主義国家とは到底言えないでしょう。
勿論、参議院で議論を継続しても、必ず60日ルールを使われてしまうようなことは、議会制民主主義の否定、あってはならないこと、と考えます。
民主主義のもとでは多数決によって物事が決定します。
しかし、少数意見・反対意見を十分に聞き、審議を尽くしたといえる審議討論の過程こそが、多数決の結果の正当性を担保するものであります。
充分に審議を尽くすことで問題点を明確にし、それを国民に示すことで、次の選挙の際の国民の判断材料を提供するわけであります。
充分な議論も尽くさずに「次の選挙で審判を受ければ良い」という考えは民主主義を全く理解していないもの、と考えます。
国民は国会で充分審議がなされたからこそ、そこでの考えが自分の考えと違っていたとしても一旦は納得し、従います。
この国民の納得感こそが民主主義を支える重要な要素であります。
国民の納得と支持に支えられて自衛隊は活動します。
国民の納得と支援が不十分なままで、他国民の殺傷行為を国の名のもとに行なう、もしくは自衛官個人の判断で行なう、ということになると、それは国民にとっても、また現場の自衛官にとっても悲劇としか言い様がありません。
では、不安を感じている国民が理解できるような充分な審議が尽くされたと言えるでしょうか?
各種世論調査によっても「国民の理解が進んでいない」と指摘されています。
何事にもメリット・デメリットがあるはずなんですが、政府の側からこの法案についてのメリットの説明しか無い様に思われます。
デメリットをどの様に克服するか、の議論が全くされていない、と感じるからこそ国民は不安になり反対するのではないでしょうか。
例えば、政府は「戦争に巻き込まれることはない」という。
また、(政府は)「戦争法」という呼び方を批判されます。
しかし、例えば「集団的自衛権」を考えた場合、たとえ要件を解釈で厳格に制限したとしても、その効果は、日本が武力行使されていない段階で、日本から先に相手国に対し武力攻撃をする事を認めるものです。
敵国兵士の殺傷を伴ない、日本が攻撃の標的となるでありましょう。
これは…日常用語ではこれを「戦争」と言います。
こうして、戦争に巻き込まれるというデメリットを越えるメリットがある、ということを何ら説明されていません。
(徴兵制について)(または“法案が通ってしまえばこっちのもの”について)
(政府は)「徴兵制は憲法18条に反するから全くありえない(と明確に断言できる)」と言います。
憲法18条で「意に反する苦役に服せられない」とありますが、しかし、これは「公共の福祉」で制限できる、と解釈されているものです。
ということは、必要性・合理性が生じたならば徴兵制も可能という事を意味します。
サイバー対策のIT技術者、輸送・医療・ホームなど、必要な人材の確保に窮したときでも、限定的な徴兵制すらありえない、と言い切れるのでしょうか?
集団的自衛権の解釈でやって見せた様に、これまでの政府解釈を状況が変化した、という下で、ある日突然変更してしまう、という可能性を否定できません。
(抑止力・他)
(政府は)抑止力を高めることが国民の命と幸せな暮らしを守る、と言います。
しかし、軍事力・軍事的抑止力を高めることで、より緊張が高まり危険になる可能性もあるはずなのですが、その説明はありません。
他にも、
・立法事実(立法を必要とする根拠・現実)が本当にあるのか?
・自衛隊員と国民のリスクはどうなのか?
・後方支援が何故武力行使と一体化しないのか?
・海外で自己保存以外の武力行使が許される根拠はどこにあるのか?
・他国軍の武器防御が許される法的根拠は?
・自衛官が海外で民間人を誤射してしまった際の処理
等、他にも不明な点は山積みであります。
多くの国民の疑問を残したまま強引に採決を強行してはなりません。
長いので分割する。②③と続きます。
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