無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

皆んなガキ(餓鬼)だ!

2009年06月27日 | Weblog
今日から原点に戻って書く、と言っていた割には過激なタイトルをつけたが、以前書いたこの日記を纏めるとタイトルの結論に至る。


人は一人では生きられない。
オギャーと生まれて親や他人の世話に為らずに生きてこれた人は皆無である。

生きていくためには人との関わりが生じ、社会の中の一員である必要が生じ、共に生きて行くしかない状態におかれる。人皆同じく。

そこでは「人から(自分に)されたら嫌だ、と思うことを人にするな」という不文律(自然律・自然法)が形成される。

これが社会の中で生きていくために守らなければいけない基本の規律である。

この不文律を最初に文にした言葉が、モーゼの十戒の「汝、殺すなかれ!」であり、仏教の「殺生の禁止」にも繋がっている。

漢の始祖、劉邦は今まで色々な法律で雁字搦めになっていた秦の国民(何が罪になるか分からないので道に物が落ちていても誰も拾わなくなった時代の国民)に対し、法律を3つの条文だけにして国民の喝采を浴びた(劉邦の三法)が、その残した3つの法律の最初の一つが「人を殺した者は死刑」であった。

人からされたくないことを人にするな!=自分が人から殺されたくないから、人を殺さない、となる。


さて、人間には欲がある。上記不文律と一体の「生存本能」がそれであり、他に「生殖本能」が人間の自然欲として存在する。

性欲・食欲・生理的欲求などは、この生存本能から来ている。

人間として自然な欲も、社会生活を営む上では抑えなければならなくなる。
前にも性欲の例で述べたように、相手が嫌がれば強姦罪となり、相手の了承がないと痴漢となるが如く、社会生活の中で抑えなければならない人間として自然な欲求も多い。

更に社会が複雑化してくると、この生存本能から様々な欲が派生してくる。

金銭欲・物欲・名誉欲・権力欲・自己顕示欲・独占欲・支配欲・知識欲・等々。

特に今は資本主義社会(消費社会)ですから金銭欲・物欲が人間の欲の多くの部分を占めるようになっていますが、その話しは置いて、今日のテーマを続けます。

社会の中で自分が生きていくためには、人間の自然な欲求も抑えていく必要があります。それが大人の社会です。

子供は最初、本能のままに行動します。
おやつに親が、子供(兄と妹)に同じ様にお菓子を渡します。兄はそのお菓子が大好物だったので、妹の菓子も欲しくなり、それを力ずくで奪おうとします。妹は兄に腕力では敵うはずもありません。
親が兄を叱って、それはやってはいけない事(抑えなければならない欲求)だ、と躾けます。

こうした躾け、教育を受けて子供は成長し大人の社会に適応していくのです。

更に、人間は一人で何もかも出来ないので分業の形をとり共同生活を営みます。

農業・林業・漁業・製造業・サービス業、代議士(政治家)・警察官・検察官・裁判官・自衛隊員・消防隊員・役人等々もその分業の一つです。

この話も置いておきます。「社会の成り立ち」の基本は以上の点にあることを頭において物事を考えて見てください。

前にも話しましたが、私は子供の頃、横に座っている同級生と取っ組み合い殴り合いの喧嘩になりました。最初は口論だったのですが、相手が手を出してきたために私も応戦した形でした。

先生から「喧嘩両成敗だ」と言われ廊下に立たされた時には「何で!相手が先に手を出してきたのに!」と憤懣やるかたない気持になりました。

この喧嘩自体は相手が「悪かった。俺を殴ってくれ!(相手の方が1発多かった)」で決着したのですが、私は先生の「喧嘩両成敗」の意味が分からずに悔しくて仕方ありませんでした。

大人になって、社会の仕組みを知り、何のために警察署があり裁判所があるのかを考えた時、先生の言葉が理解できたのです。

話を戻すために、ここで一句(盗用)

※人間は欲から“憎しみ”が生まれ、無欲から“優しさ”が生まれる。

人間には「考える葦」である因果?から、生存本能から派生した、生きていく社会の中で「認められたい」とか「いい思いがしたい」と言った二次欲(名誉欲・金銭欲等)が生まれますが、社会の中で共存していく為にはある程度抑制されなければなりません。

自分が社会の中で生きていこうと思ったら、一番やってはならないことは「人を殺すこと」です。

戦争は「人を殺すこと」です。それは「人からやられたら嫌だと思うことを人のするな!」の最たるものです。

だから、戦争をしてはならないのです。戦争行為自体が“悪”なのです。

それなのに、戦争は世界から無くならない、それが現実だ、攻めて来られたらどうする、と言うガキ(餓鬼)の考えをする人達は次の様に言います。

曰く、「大東亜戦争は列強諸国の植民地化からアジアを開放し、日本を盟主とした大東亜共栄圏を作り上げると言う、崇高な理念を達成するための戦いだった。」…無風:だから、どうだと言うのか!

曰く、「東京裁判は戦勝国が負けた国を裁く裁判だった。」…無風:その通り、だから、どうだと言うのか!

曰く、「戦争放棄をうたった憲法は押し付けられたものだから、変えなくては。自主憲法を!」…無風:押し付けられたものです、だから、どうだと言うのか!

曰く、「北朝鮮など、核ミサイル(攻撃)でぺんぺん草も生えないようにしてやる」…無風:こんなガキの考えをする人が日本の首相(「日本国の権力のトップにいる」、自衛隊に「諸君らの最高指揮官である」とも言ったひと)なのですよ。私がこんなガキの考えをする人を国権のトップとして認めている日本国民は「みんなガキだ」と言いたくなるのが分かってもらえませんか?

(纏めます!以下で異議のある人はコメント下さい)

人は一人では生きていけない→従って社会の中で生きていけるように「人にやられたら嫌だと思うことを人にするな」と言った自然法が生まれる。→その最も最初にできたルールが「人を殺してはいけない」である→お互いが共存できるようにその他のルールも作られ、各自の欲が抑制された大人の社会が成立する。

人を殺さない戦争など有り得ない。(“受験戦争は?”等のチャチは入れないこと!)

従って、戦争は『必然』でもなければ『現実』でもない。戦争行為を肯定することは許されない。

『悪』であり、人類の摂理に反している。

この観点から見ていくと「日本国が無くなっても良いのか!」とか「侵略されて親・子・愛する人・同胞が殺されていくのを黙って見ているのか!」とか言った論議が如何に「ものの見方・考え方」が出来ていないか、が分かると思います。
(理解できない人は、今後の私の日記を続けて見て下さい。ただ、北朝鮮の侵略から日本を守るために、もっと防衛費を増やし、核迎撃ミサイル網を完備し、日本も核も持たなければ、といった考えが如何に人の生き方から外れているか、といったところは分かってもらえたのではないか?)

「人類から愛国心をたたき出してしまわない限り、あなた方は決して平穏な世界を持たないだろう」(バーナード・ショウ)



さて、今日から以前書いた基本的な「ものの見方・考え方」をもう一度まとめて書いていきたいと思っている。

今日は、入り口のところでおしまい。またね。




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