華語り

心に華を!!

400余年の時を経て

2009-09-15 09:43:12 | 道々之記

日曜日は夫が会社関係の旅行に出かけてしまったので、久しぶりの一人の休日。
オンでもオフでもお世話になっている方の講演が、長浜(米原)であると聞いていたので、本当はそちらに行きたかったのですが、夕方富山に行かねばならず、時間的に無理があったのでそちらは遠慮させていただきました。

で、何処へ行こうか・・・
高岡もいいけど、日曜日は開町400年のイベントが行われていて混んでいそうだし、上越の聚楽第屏風を見に行こうかとも思いましたが、結局魚津に行くことに。
魚津歴史民族博物館で行われている企画展「戦国武将 上杉家と魚津」。
11月半ばまで開催しているとのことでしたので、いつでも行かれると思っているうちに時機を逸してしまいそうだったので、思い切って行くことにしました。


天正10年織田方と戦う味方の軍の救援のため、我が実城上杉景勝が拠ったのが天神山城。魚津城の壮絶な攻防戦は、佐々成政抜きの奇妙な展開で、3週にわたって大河ドラマで放映されたのは、記憶に新しいところですが、その天神山の中腹に、博物館はあります。今回の企画展は、場所的にも絶好の地であります。

企画展は書状などのパネルが中心でしたが、魚津城の攻防をわかりやすく配置、説明してありました。
中でも中条景泰ら魚津城将12名が窮状を訴えた直江兼続宛の書状の文面はいつ読んでも胸が衝かれるし、景勝が城将ら一人一人の名前を挙げて、何とか持ちこたえて欲しいと書き綴った書状は、景勝の心の叫びが聞こえるようで、胸が締め付けられます。

また、魚津城落城後、佐々成政が落城の報告を記した書状のパネルがありました。
6月5日付の書状には敵方(上杉方)の城将12名をことごとく討ち果たしたということが(得意満面に・・・もちろん行間から勝手に読み取ったものなのですが)記されており、唇を噛む思いで読んだのはいうまでもありません。この書状、魚津城落城直後の様子を知らせる資料としては貴重だと思うのですが、現物は散逸してしまっているそうです。唯一マイクロフィルムに収めたものが残っているだけだそうで、現物が見つかれば貴重な発見ということになるのでしょう。

魚津城の攻防とは直接かかわりはないのですが、唐人又太郎が死亡したのでその知行の一部を与えるという豊野助次郎という人物に宛てた泉沢久秀の書状(こちらは現物も展示)が展示されていました。唐人氏に関しては、先日、出自にかかわる話を聞いたばかりなので、少々興味をそそられました。又太郎という人、唐人親広の親類縁者なのでしょうか。

ひとしきり展示を見た後外に出ると、海が太陽の光を受けてきらきらと輝いている様子がとても美しく・・・

博物館の駐車場に車を置いて、天神山城を目指します。以前は山頂まで車でいかれましたが、博物館から先は車止めがされてあって通行禁止になっていました。
博物館から歩いても2,3分で頂上に到着です。うちの近所の崖を上るみたいな感覚です。

魚津城の戦いは、御館の乱を経て家督を継いだばかりの景勝にとって大きな試練でした。(あるいは生涯のうちでももっとも大きな試練の一つだったといっていいかもしれません。)結果として城将を見殺しにすることになってしまった背景には、上杉家の存亡もかかっていたわけですから。

見上げると、初秋の空は透明な青さを帯びて広がっていました。

 

博物館を出たところに、2基のお墓があります。
これは魚津城の攻防戦とは関係ありませんが、前田家の家臣の青山吉次・長正父子のもの。魚津が前田家支配となったときに城代として魚津を治めた人たちです。(この画像のみ拙サイトから転載)