冨山一郎さんの「ナショナリズム・モダニズム・コロニアリズム」という文章を読んでて(『日本社会と移民』)、めちゃくちゃ刺激されました。
沖縄がどのように日本であり、日本ではないようなアンビバレントな立場に置かれたのか、また、その布置の仕方が沖縄の人びとのメンタリティにどのような働きかけをしたのか、それが資本主義社会、近代社会におけるコロニアリズムとどうつながっているのかという話...なのかな。まとめるほどは理解できてないけど。
気になったことをもう少し書くと。
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日本人の勤勉性と沖縄の遊情という民族性との対比が、良民/不良民という対比に重ね合わせて語られるからこそ、沖縄出身者は自分とは異なる他者を自らの内に打ち立てる必要が生じた。
また、政治的な言説のレベルではなく、自らの生活を改善してよりよい生活を獲得しようとする主体性が関係してくるし、日常生活のレベルに切り込んでいるからこそ、フーコーのいうように自己の規律化が存在する。
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それって他のところ、今も普通に起こってることだろうな。日系人、国際結婚、研修生にしても何にしても民族性が語られるときに、民族性に対する善し悪しは語られないけど、それとは別の軸に民族性があてられる。それが民族性を直接否定はしないんやけど、でもね...って言説を生み出すんやろうな。民族性を語るときに、多様なことはいいんだけれども、それと同時に良/不良という軸が用意されていることが結局は多様性を認めない一つの理由なんだろうと思う。確かに労働や教育、家庭などの領域に話が進んでいくと、難しいところではあるけど。
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植民地主義的な実践が人種や文化の対立としては語れられず、医療や衛生や教育といった社会改良に関わる言説として語られるという「大東亜共栄圏」のありようと関連している。
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アンビバレントなアイデンティティ、びびっときました。
沖縄がどのように日本であり、日本ではないようなアンビバレントな立場に置かれたのか、また、その布置の仕方が沖縄の人びとのメンタリティにどのような働きかけをしたのか、それが資本主義社会、近代社会におけるコロニアリズムとどうつながっているのかという話...なのかな。まとめるほどは理解できてないけど。
気になったことをもう少し書くと。
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日本人の勤勉性と沖縄の遊情という民族性との対比が、良民/不良民という対比に重ね合わせて語られるからこそ、沖縄出身者は自分とは異なる他者を自らの内に打ち立てる必要が生じた。
また、政治的な言説のレベルではなく、自らの生活を改善してよりよい生活を獲得しようとする主体性が関係してくるし、日常生活のレベルに切り込んでいるからこそ、フーコーのいうように自己の規律化が存在する。
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それって他のところ、今も普通に起こってることだろうな。日系人、国際結婚、研修生にしても何にしても民族性が語られるときに、民族性に対する善し悪しは語られないけど、それとは別の軸に民族性があてられる。それが民族性を直接否定はしないんやけど、でもね...って言説を生み出すんやろうな。民族性を語るときに、多様なことはいいんだけれども、それと同時に良/不良という軸が用意されていることが結局は多様性を認めない一つの理由なんだろうと思う。確かに労働や教育、家庭などの領域に話が進んでいくと、難しいところではあるけど。
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植民地主義的な実践が人種や文化の対立としては語れられず、医療や衛生や教育といった社会改良に関わる言説として語られるという「大東亜共栄圏」のありようと関連している。
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アンビバレントなアイデンティティ、びびっときました。