ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

もやもや。

2006年06月22日 20時45分53秒 | 日本語教師のお仕事
岡真理さんの文章を読んだ。『"ポスト"フェミニズム』という本の「ハーレムの少女とポストコロニアルのアイデンティティ」という文章。力を持っている人間はいかに自分の力に無自覚であり、特に複合的に権力関係が交差する場合に、反権力であるつもりが知らず知らずのうちに自分たちの解釈枠組みでものを見てしまい、当事者の生に迫り切れないことが多いかという話。

岡真理さんはアラブの小説などを例にあげているので、遠い話のような気もするけど。でも、自分の価値観だったりコミュニケーション観だったり、教育観もそうだけど、これまでとは全く異なった視点からえぐられるような感覚になる。たまにえぐられ過ぎてダウンするけど(苦笑)

まだ、うまく言葉にできないけど、言葉を学ぶとは何かということを考える時に、岡真理さんのような視点を反映させることがすごく必要なんじゃないかなって気がする。まだ直感的に「そう思う」としか言えないけど。言葉を得ることは単にスキルを獲得することではないと思うし、コミュニケーション能力の育成とかってのも違う気がする。周りがお膳立てして教えてあげて、それで喜ばれて...という構図は何かどこか違うと思う。それとは違って、よく地域日本語活動とかで「教えるー教えられる」という形ではなく「交流型」って言葉を聞くけど、それも少し違うんじゃないかって思う。「教え込む」のであれ、「学びを大事にする」のであれ、「交流する」ので、これまでの話は本質的には同じような気がするし。もしかしたら、「日本語を学ぶ」ということがどういった社会的な構造の中に位置しているのかという問題なのかもしれないな。その辺は「日本語教育」においては前提とされていて、問い返されることもない部分かもな。

どうしたらええのかって部分がうまく言葉にできなくてもどかしいけど...でも、たまにはこんなもどかしさもええかな。
コメント
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