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映画・演劇のレビュー

j.a.m.Dance Theatre『忘れてしまえ、すべてはすんだ話だ』

2008-03-25 21:23:43 | 演劇
 ホールの中に一歩足を踏み入れる。そこには使い古され、くたびれた古い箪笥や水屋が並んでいる。その箪笥や水屋によって出来た壁の裏側に客席がある。入り口に並んだ箪笥による壁の背中は舞台の背景になる。コンクリによりコーティングされている。客席の椅子はすべて別の形状だ。そこにはあらゆるタイプの椅子が並んでいる。2人、3人掛けのソファーもある。もっと早くに来ていたならふかふかのソファーを占用できたのに残念だ。でも、2列目の座り心地のよさそうな椅子を見つけそこに腰掛ける。

 椅子と箪笥。この空間には古いもの、さまざまなものへの拘りがある。5人のダンサーが地面にへばりついたり、ぐるぐる回転したり、起き上がってもすぐに倒れて、また、起き上がり、倒れる。のたうちまわっているようにも見える。苦しんでいるようにも、戯れているようにすら、見えないこともない。あるものはそれを直立不動のまま見下ろす。表情を変えず立っている男。彼は醒めた目で、とろんと見てる。

 これはダンス作品ではなく、ストーリーもセリフもない演劇に見える。音響と照明の入り方にメリハリがあり、それは芝居に近い。象徴的なドラマがその背後に見え隠れすることもそんなイメージを抱かせる原因となる。だが、ここからドラマを読み取ることは無意味である。ドラマにならないメタドラマを根底に持ち、それを舞台空間の中で表現していこうとしている。

 灰色の世界はすべてが終わってしまった後の世界を思わせる。古い箪笥や水屋の裏側がむき出しのコンクリートになっている。灰色の壁を思わせるオブジェによって構築された空間には古いソファーがひとつ。

 5人の男女がここに現れ、様々なイメージを喚起するダンスを見せる。夢中になり何かを地面に書き続けたり、お互いの体を重ねあい、もつれたり、全く無視し続けるのに執拗に足元にすがり付いたり。ある種の関係性を想起させるイメージの連鎖。それは過ぎてしまった記憶の断片である。それを無造作にコラージュさせていく。後半の5人によるダンスのシーンは圧巻である。その激しい動きはこれがダンス作品であるというあたりまえのことを思い出させる。静かになった5人の背後から光が差し込み、その光の中に近付くシーンは美しい。このまま光に吸い込まれてゆき終わるのではないかと一瞬思わせるが、そんなことはない。彼らはここに止まり続ける。

 ラストでは、裸になり体全体にセメントをなすりつけ、ぬりたくり、ころげまわっていく。彼らの姿は背景の灰色と同じになる。地べたを転げ周り、べとべとになり、彼らはこの空間の中に溶け込んでゆき、消えていくのだ。そんな姿をひとりの男が少し距離をおいて見ている。いや、見もしない。彼はきっともっと遠くの何かをぼんやり見てる。

 

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