こんな絵空事のような、所詮きれいごとでしかない「青春」は映画の中にしか存在しない。それを重々承知の上でやってしまおうとした。これは映画なのだからとことんやってしまおうではないか、という作り手側の開き直りが心地よい。そう、やるのなら、とことんやるべきだ。ファンタジーにすらならないくらいに嘘くさい。メルヘンだな、これは、と思う。だがこの映画はそれを真摯に丁寧に見せてくれる。妥協や手抜きはしないから、信用できる。オリジナルは大ヒットした台湾映画である。(3年前に三原光尋監督が『あしたになれば。』で中途半端なまねをして映画にしているが、あれはいただけなかった。)
どことも知れないとある地方都市の高校。美しい風景。絵に描いたような美少女たちと、純朴そうな少年たち。夢のような時間。彼らは現実世界の厳しさとか虚しさとは無縁だ。ただそこにいて、毎日を誠実に生きている。そんな当たり前の、ありきたりな、(きっと)どこにでもありそうな、そして、どこにでもあった「青春」が美しい。現在から10年前を回想していくのだけど、ノスタルジックに描くのではなく、彼らの10年間を彼らに寄り添って描く。
一部台湾ロケによる風景は今では失われてしまった日本の風景となる。オリジナルのテイストをそのまま生かして、日本でだってこういう純粋な子どもたちがいるんだ、というふうに描いてくれる。彼ら7人の18歳から10年間の軌跡を丁寧になぞりながらも、それが現実ではなく、ある種の理想でしかないということを僕たちは知っている。こんなきれいごとだけでは、生きていけない。しかし、だからこそ、映画の中でだけは、それを信じたいと思う。映画って本来そういう夢物語なのだから。これはそんななんとも心地よい夢を見させてくれる貴重な映画だ。傑作ではない。そんなこと作り手だって承知の上だ。甘い映画にしかならないことはわかった上で、それでもいいから、愛おしい時間を慈しむように紡ぎ上げる。
少年は気づけば、ただひたすら、君を追いかけていた。誰にでも心当たりのあるそんな愛おしい時間の記憶を大切にすること。それだけでいい。TVでさんざん見慣れたアイドルではなく、新人を中心にしたキャスティングもいい。(僕が知らなかっただけなのかも知らないけど)どこにでもいそうな子どもたちが輝いて見える瞬間を映画は切り取る。原作に忠実に描くことで、嘘くささを乗り越えた普遍性を獲得した。
感傷過多にはならないのもいい。思い入れ過剰は映画をぶち壊すことになる。作り手(監督は長谷川康夫)はそこをちゃんと理解しているから距離の取り方がうまい。