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映画・演劇のレビュー

May『ビリー・ウエスト』

2011-10-19 23:19:37 | 演劇
 これは血の絆についての物語だ。今はもう日本人だとか、朝鮮人だとか、そんなことで差別される時代ではなくなったが(少なくとも、表面上では)ほんの少し前まで、この国では、そんなつまらないことが、恐怖としてあったし、僕等が「つまらないこと」と、書くことすら憚られた差別の歴史が厳然としてあった。日本人が朝鮮人を差別し、虐げてきた負の歴史は実は連綿と続いている。差別してきたものは忘れたとしてもされたものは永遠に忘れることは出来ないし、許すこともない。

 テセン(柴崎辰冶)が日本人に殴られて脅されてお金を巻き上げられる。強い者の前で惨めに屈する。朝鮮学校の生徒だからケンカに強いわけではない。そんな時代ではないのだ、と言う。でも、いつからそんなふうになったのか。

 金哲義さんが『チャンソ』を発表してからまだ何年も経ってない。時代は恐ろしい勢いで変わっていく。その変化に一番驚いているのは金哲義さん自身であろうし、そんな中で、彼は自由に芝居で自分たちの歴史を語れることに戸惑っている。

 自由って何だ? そんな簡単なものだったのか。今までの自分たちの苦難の歴史って、そんな簡単にチャラにされていいのか。そんなわけないだろ、と誰もが言う。だからこそ、今、こういう暗い物語を作ろうとする。明るくノーテンキに見える時代の中で、そこに流されて偽りの自由を享受するのではない。今改めて暗い血の物語と向き合うことで、自分が生きてきた意味、そしてこれから生きていく未来が見えてくる。

 故郷と向き合う。自分たちの帰るべき場所がどこにあるのか、そのことを考えてみる。この異国の地で生まれ、育ち、いくつもの辛酸を舐めてきた父母の、民族の歴史、もちろん自分自身の経験してきた現実と向き合い、芝居という武器を通して、ここまで戦ってきた。それがようやくひとつの形を取り始めた今、彼はもう一度、これって何なのか、と考える。この芝居は彼が新しい一歩を踏み出すための試金石になる。もし、この先ルーティンワークで芝居を作るようになったなら、それは彼が芝居を辞める時だ。そうならないように、そうしないように、今、もう一度この芝居を通して、自分の立ち位置を確認しようとする。そんなことしなくても、あなたなら大丈夫だ、と僕たちは思う。わかっている。でも、あなたは、一歩一歩前進するために、ここで立ち止まることに躊躇しない。これはあからさまなくらいにストレートな芝居である。

 手と手を合わせ(手を繋ぐのではない)おそるおそる立ち止まる。鏡に向かって問いかける。オレはここにいるのか。ここにいていいのか、と。

 タイトルのビリー・ウエストは、チャップリンを目指して彼になろうとした人物のことらしい。(そういう人が確かにいたらしい。全く知らなかった。)しかし、彼が偽物だなんて、誰にも言わさない。本当を求めて偽りを生きた歴史を、偽りと否定すべきではない。じゃぁ、本当って何なのか。誰もが認める本当なんて、どこにもない。弱い人間が強くなろうとすることが偽りなのか。そんなことはない。

 この芝居が描く今からほんの少し前の時代、昔、朝鮮人が強制連行で日本に連れてこられた時代、かつて朝鮮から日本にやってきた人々、やがて朝鮮に帰ることを夢見た人々、帰るべき場所を亡くし、この国で生きることを受け入れた人々、様々な時代の様々なドラマがある。主人公のテセンの父親のドラマとして、彼にスポットを当てる。彼を中心に据えて日本人でも朝鮮人でもなく、自分自身として生きた人々の血の絆を、1本の芝居として作り上げる。テセンの視点から父親の青年時代のドラマに踏み込む。そこには3人の男たちの3通りの生き方が描かれる。どれが正しくてどれが誤りだ、なんていうことはない。答えはないからだ。

 テセンがやがて父親となり、あの頃の父の視点から未来をみつめる。やはりこれはあくまでも彼のドラマだ。それが嬉しい。彼を単なるストーリーテラーなんかにはしない。彼の今をみつめる作業を通して過去から連綿と続く時代を撃つ。

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