今週は野心作ばかりが登場するけど、その中で一番楽しみにしたのが、この作品だった。土橋淳志脚本、笠井友仁演出、という布陣だけで期待はマックスになろう。しかも、このタイトルである。パンフにもあるようにテーマは今の「日本」だ。こんな大きな漠然としたテーマを設定して、どこをどう描こうとしたか、気になって仕方なかった。さぁ、「日本」をどう描くのか。お手並み拝見。
「メイド」は、メイド喫茶のメイドのこと、というのは、チラシのビジュアルを見た最初からわかっていた話だが、当然そこに留まるはずもない。僕は勝手にそこに「冥途」(さらにはその先にある「冥土」も、ね)を重ねていたのだけど、さすがにそれはないようだ。だけど、主人公の女性が死んだ、というところから始まっているから、あながちハズレではない。(かも)
空白の彼女を巡るお話である。周辺にいた人たちの証言から殺された彼女の内面へと迫る。いくつもの証言を重ねることからそこにいたはずの彼女の存在が浮き彫りにされていくというスタイルである。
大きなテーマを小さな地点から描く。だが、出来上がった作品は思ったよりも、こじんまりとした作品になってしまった気がする。日本で生まれたメイド喫茶という文化を通してこの国の今ある現状を描く、というコンセプト自体は悪くないけどそこから大きく広がらない。
ストーカーに刺殺された女性。メイドカフェで働き、しつこい客に付け回されていた。死んだ彼女の不在。その空白の周囲で何が起こっていたのか。住所不定の女を雇った店長。彼は、「礼儀正しく、とても可愛い容姿だったから」、と言う。ストーカーとなった男の中国人の妻。店の同僚の女の子たち。常連客たち。それぞれの証言が交錯していく。だが、そこからはなかなか本人の顔が見えてこない。なんとももどかしい。
これは芥川の『藪の中』のパターンなのだが、もっとサスペンスフルな作り方にしてもよかったのではないか。個々の証言が、食い違ったり、彼女に対して好意的な見方だけではなく、もっと悪意を抱いていた人もいたりして、話を聞けば聞くほど、わからなくなるというのが、このタイプの作品のパターンなのだが、ここではほぼ肯定的な見方しか示されない。被害者である彼女の内面にも踏み込んでいかない。それはなぜか?
そこに確かにいたはずなのに、実体のない女。お話は彼女の死からさらに10年さかのぼる。彼女と同居していた女性が語る当時の彼女のこと。そこでも彼女のいい面ばかりが描かれ、かわいそうな少女だったという事実が更新されるばかりだ。土橋さんはこの子を通して、どういう日本を描こうとしたのかが、なかなか見えてこなくてもどかしい。事件後、しばらくして、そんなことなかったかのように、同じ場所で店は再開され、当時のメンバーが集められ、営業されている。
10年前の事件の当事者が生きていて、今回の事件の取材をしていたことがわかる。その男がビデオカメラを彼らに向けて話を聞き出すことにどういう意味があるのか。それも明確ではない。
殺されたひとりの「メイド」という空洞に向けて、ドキュメンタリータッチで描かれる証言ドラマは、「日本」という空洞を射ることができたか。よくわからない。だが、そのわからなさで立ち止まることがこの作品の帰着点だったのかもしれない。
「メイド」は、メイド喫茶のメイドのこと、というのは、チラシのビジュアルを見た最初からわかっていた話だが、当然そこに留まるはずもない。僕は勝手にそこに「冥途」(さらにはその先にある「冥土」も、ね)を重ねていたのだけど、さすがにそれはないようだ。だけど、主人公の女性が死んだ、というところから始まっているから、あながちハズレではない。(かも)
空白の彼女を巡るお話である。周辺にいた人たちの証言から殺された彼女の内面へと迫る。いくつもの証言を重ねることからそこにいたはずの彼女の存在が浮き彫りにされていくというスタイルである。
大きなテーマを小さな地点から描く。だが、出来上がった作品は思ったよりも、こじんまりとした作品になってしまった気がする。日本で生まれたメイド喫茶という文化を通してこの国の今ある現状を描く、というコンセプト自体は悪くないけどそこから大きく広がらない。
ストーカーに刺殺された女性。メイドカフェで働き、しつこい客に付け回されていた。死んだ彼女の不在。その空白の周囲で何が起こっていたのか。住所不定の女を雇った店長。彼は、「礼儀正しく、とても可愛い容姿だったから」、と言う。ストーカーとなった男の中国人の妻。店の同僚の女の子たち。常連客たち。それぞれの証言が交錯していく。だが、そこからはなかなか本人の顔が見えてこない。なんとももどかしい。
これは芥川の『藪の中』のパターンなのだが、もっとサスペンスフルな作り方にしてもよかったのではないか。個々の証言が、食い違ったり、彼女に対して好意的な見方だけではなく、もっと悪意を抱いていた人もいたりして、話を聞けば聞くほど、わからなくなるというのが、このタイプの作品のパターンなのだが、ここではほぼ肯定的な見方しか示されない。被害者である彼女の内面にも踏み込んでいかない。それはなぜか?
そこに確かにいたはずなのに、実体のない女。お話は彼女の死からさらに10年さかのぼる。彼女と同居していた女性が語る当時の彼女のこと。そこでも彼女のいい面ばかりが描かれ、かわいそうな少女だったという事実が更新されるばかりだ。土橋さんはこの子を通して、どういう日本を描こうとしたのかが、なかなか見えてこなくてもどかしい。事件後、しばらくして、そんなことなかったかのように、同じ場所で店は再開され、当時のメンバーが集められ、営業されている。
10年前の事件の当事者が生きていて、今回の事件の取材をしていたことがわかる。その男がビデオカメラを彼らに向けて話を聞き出すことにどういう意味があるのか。それも明確ではない。
殺されたひとりの「メイド」という空洞に向けて、ドキュメンタリータッチで描かれる証言ドラマは、「日本」という空洞を射ることができたか。よくわからない。だが、そのわからなさで立ち止まることがこの作品の帰着点だったのかもしれない。