
初日に見た「雷鳴スピッツ」に続いて楽日に「疾風のチワワ」を見た。これは二部作ではない。2班構成による別のキャストによる上演だ。演出を変えている訳ではないから基本同じ芝居である。
ということで、久しぶりに同じ芝居を2度見ることになった。ダブルキャストだけど、よくあるメインキャストだけが違うというパターンではない。14名のキャストのほとんどすべてを別の役者が演じる。(余談だが、ダンスアンサンブルの6人を入れたら20名が舞台に登場する冒頭のダンスシーンは圧巻だ!)
先にも書いているが、この芝居はメインキャスト12名(オープニングの2人は一応除くことに)全員に見せ場をしっかり作った。役者たちにとってはうれしい芝居であろう。だけどそれは役者に媚びる行為ではない。人生に於いて自分がいつも主人公であるように1本の芝居においてもみんなが主人公だと佐竹さんは信じるから、こんな作り方をしたのだろう。そのことを確認するためにもこの別バージョンも見ることにした。前回は舞台後方で見たが、今回は最前列である。かなり印象は異なる。やはり丁寧にひとりひとりを描けている。
2度目だから作品の落とし所もわかっている。ただこの作品を見た直後、たまたま見た映画『ゲバルトの杜』で戦争は正義と正義がぶつかり合うことで起こるというこの作品と同じ結論を見たから、改めてこの作品がその答えの先を提示していないか、見直しすることにもなった。
戦うけれど相手を殺さないなんていうきれいごとは通用しない。大学生たちが正義をお題目にしてリンチをして人を殺すことから始まる映画と戦争で相手を殺さないことを描く芝居が表裏一体であること。ドキュメンタリー映画とエンタメ芝居。偶然2作品を同時期に見る僥倖。もちろんここには答えなんかない。ただ考える機会があり、それは興味深い。
クライマックスではふたりの飛行機乗りの死に、妻である(敵対するはずの)ふたりの妊婦の姿を前後に配して見せる。無言でも伝わってくる命の尊さが胸に沁みる。もちろんカールとエドガーの別れのシーンもいい。まるで『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラの別れのシーンを思わせた。
かぶりつきで芝居を見るのはわりと好き。小劇場の芝居の醍醐味はそこに尽きると思っていた。役者が手の届くところで演じる。昔つかこうへい事務所の芝居を見ていた頃はいつも前の方で見た。平田満や風間杜夫の汗や唾がガンガン飛んできた。(今の時代ならNGだろうなぁ)結果的に俯瞰で見た前回と最前列で見た今回では印象はかなり異なる。やはり近い方がいい。役者の表情がしっかり見れる。感情移入しやすい。お話はわかっているのに泣けてきた。
今回見た「疾風のチワワ」班と「雷鳴スピッツ」班には大きな違いはない。違う役者たちは同じひとつの芝居をきちんと見せ切る。役者の個性に合わせたアレンジをするのではなく、役者たちは佐竹さんが目指す芝居を体現することに奉仕する。役者たちが全力でこの芝居の中の自分を生きる。気持ちのいい芝居だ。