こんな地味な映画が成り立つということが、まず凄いというしかない。一応商業映画ということになるのだろうが、まぁ、これはありえない。オダギリジョー監督はただの独りよがりになりそうなこのお話を、小難しい観念映画にはせず、まず淡々と見せることに集中する。繰り返し舟を漕ぎ、お客さんを渡す。いろんな客がやってきて、黙々と向こう岸に送る。だが、やがて橋が出来ることで彼は仕事を失うことになる。2時間17分という長い上映時間なのに、ここにはドラマはまるでない。ただただ彼の生活のスケッチに終始する。
この頑なさが凄い。オダギリ監督は、逃げない。寡黙なこの船頭の姿を見つめることで、時代の変わり目に立った時、人は何を思い、何を感じるのか、それをこの映画の中でシュミレーションする。便利と交換に失ったもの。その大切さに気づく。
クリストファー・ドイルのよる映像の美しさはいうまでもない。だが、映画はため息のでるような風景。をこれみよがしに見せるわけではない。ありきたりに見せるのだ。彼らにとってここは生活空間である。それ以上でもそれ以下でもない。この映画が凄いのはそういう潔さだ。感動の押し売りはしない。丁寧に日々の出来事を切り取る。しかも、適切な距離を置いて、である。神話のようなドラマにはしない。『老人と海』なんかではない。ただ、タイトル通りにある船頭のお話。彼の抱える孤独や彼の過去、この国の未来なんていう大きなテーマは内包しない。引き気味のカメラはこの主人公に寄り添わない。定点観測で見守るばかり。偉そうな芸術映画は目指さない。柄本明も自然体でそこにたたずむ。