
大胆なタイトルだ。椰月 美智子がこの作品の中でどんな恋愛を見せてくれるのか、興味を抱いた。このタイトルで500ページに及ばんとする大作だ。でも、内容は23歳の女が、1人の男を好きになる話で、どこにでもあるよな恋物語。格段凄いことが描かれるわけではない。どちらかというと、わざわざ小説にしなくてもよさそうな、ありふれた話。それを連綿と書きつなげる。
彼女の性にだらしないところは、読んでいて、少し嫌な気分にさせられる。こういうの好きじゃない。でも、きっとわざとこういう設定にした。共感させるためではない。どちらかというと、読者を拒絶させるような女を主人公にする。まだ携帯電話なんてなかった時代の話。今より少し昔の時代。その微妙な隔たり。その距離感も作者にとっては必要だった条件なのかもしれない。
彼女は2人の男を好きになる。でも、そこには、まるで罪悪感はない。恋愛にだらしない女というわけではない。もしかしたら、こういうのが普通の女かもしれない。どこにでもいそうで、絶対にドラマや映画の主人公にはならないタイプ。もちろん、小説の主人公にもなりそうにない。そんな女がこの大河ドラマの主人公なのだ。
敢えてこういう設定を選んだのだろう。絶対共感できないタイプの女だ。それは、相手役の男にも言える。別に悪い男というわけではないけど、どこにでもいそうなつまらない男。どうして、こんな奴らに付き合わされているのか、わけがわからない、と思いながら、延々と続く彼らの恋バナに付き合わされる。椰月 美智子は何がしたかったのか、それすらわからなくさせるボリュームだ。仕方ないから、どんどん読むしかない。どうとでもなればいい。興味はない。
20代前半の男女の恋バナなんて、興味はない。椰月 美智子は確信犯だ。それだけは確かだから、彼女が仕掛けたものを見極めるために最後まで付き合うことにした。『パリ、ただよう花』に続き、本当に嫌な女の話で、偶然にも、同時期にどうして同じような感触の小説と映画を見ることになるのか。この2本はよく似ている。不毛な話だ。でも、その中に確かな「何か」がある。よくはわからないけど、この嫌な気分は共通する。頭で理解するには、困難だ。生理的に耐えられないほどではない。どちらかというと、普通の女なのだ。彼女の中にあるもの。
ありふれた恋愛、どこにでもいる女たち。そんな彼女と、その周囲の人たちのドラマは、あまりに当たり前すぎる人に営みをリアルに伝える。こんな人たちがこの世界には溢れている。読み終えてもその「何か」は明確にはならない。気味の悪い感触だけが残る。
彼女の性にだらしないところは、読んでいて、少し嫌な気分にさせられる。こういうの好きじゃない。でも、きっとわざとこういう設定にした。共感させるためではない。どちらかというと、読者を拒絶させるような女を主人公にする。まだ携帯電話なんてなかった時代の話。今より少し昔の時代。その微妙な隔たり。その距離感も作者にとっては必要だった条件なのかもしれない。
彼女は2人の男を好きになる。でも、そこには、まるで罪悪感はない。恋愛にだらしない女というわけではない。もしかしたら、こういうのが普通の女かもしれない。どこにでもいそうで、絶対にドラマや映画の主人公にはならないタイプ。もちろん、小説の主人公にもなりそうにない。そんな女がこの大河ドラマの主人公なのだ。
敢えてこういう設定を選んだのだろう。絶対共感できないタイプの女だ。それは、相手役の男にも言える。別に悪い男というわけではないけど、どこにでもいそうなつまらない男。どうして、こんな奴らに付き合わされているのか、わけがわからない、と思いながら、延々と続く彼らの恋バナに付き合わされる。椰月 美智子は何がしたかったのか、それすらわからなくさせるボリュームだ。仕方ないから、どんどん読むしかない。どうとでもなればいい。興味はない。
20代前半の男女の恋バナなんて、興味はない。椰月 美智子は確信犯だ。それだけは確かだから、彼女が仕掛けたものを見極めるために最後まで付き合うことにした。『パリ、ただよう花』に続き、本当に嫌な女の話で、偶然にも、同時期にどうして同じような感触の小説と映画を見ることになるのか。この2本はよく似ている。不毛な話だ。でも、その中に確かな「何か」がある。よくはわからないけど、この嫌な気分は共通する。頭で理解するには、困難だ。生理的に耐えられないほどではない。どちらかというと、普通の女なのだ。彼女の中にあるもの。
ありふれた恋愛、どこにでもいる女たち。そんな彼女と、その周囲の人たちのドラマは、あまりに当たり前すぎる人に営みをリアルに伝える。こんな人たちがこの世界には溢れている。読み終えてもその「何か」は明確にはならない。気味の悪い感触だけが残る。