炎の人フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890/オランダ/後期印象派)。
パリの生活に疲れ、ロートレック(1864-1901/フランス/世紀末芸術)の勧めもあって、1888年2月、南仏プロヴァンスのアルルへと向かう。
オランダでの修行時代から日本の版画に魅せられた彼は、南仏に向かう汽車の窓から見える風景を、“ 澄んだ空気と派手な色彩効果に関する限り、この地方は僕には日本と同じくらい美しく見える ” と書き、この地に芸術家村を創ることを夢見ていたとか。
その年の10月、アルルでともに暮らし始めたポール・ゴーギャン(1848-1903/フランス/後期印象派・象徴主義)と、対象の捉え方、アプローチの違いなどから激しい諍いが始まり、早くも12月にはゴッホの心身を打ちのめしたとされる。
その少し前に描かれたとされるのが、「ファン・ゴッホの椅子」(上)。
アルル滞在時に共同生活をしていた黄色い家、この家をモチーフに描いたのが<「黄色い家」>(アムステルダム・ゴッホ美術館蔵)。で、使っていた藺草で編まれた木製の椅子、(昼間の)壁を背景に赤いタイルの上にあり、パイプと煙草の小袋が置かれている。
この「ゴッホの椅子」は、彼自身のインスピレーションを示しているとされ、天然の素材の田舎風の素朴な椅子、背後には自然の成長を示唆する発芽した球根が描かれている。
また、時期を同じくしてこの絵と対画をなす、「ゴーギャンの椅子(本と蝋燭が載っている椅子)」(下/ゴッホ美術館蔵)も描いている。
ゴーギャンとの関係に決定的な亀裂が入る直前頃に描かれた本作、赤と緑の肘掛け椅子の上には2冊の小説と蝋燭が置いてある。
炎が灯された蝋燭は画家としての人生の光明と儚さを象徴し、また、壁のランプが夜の場面であることを示唆、「ゴッホの椅子」との時間的な対比を連想させる。
二人の共同生活は同年12月、自ら剃刀で耳を切り落とし娼婦ラシェルのもとへ届け、翌日入院、あっけなくも二月足らずで終わる。
翌89年、画家自身の希望によりサン・レミのカトリック精神病院に入院。
90年、パリ近郊のオーヴェール・シュル・オワーズに移住するも、同年7月に自殺を図り、駆けつけた弟テオに見守られながら37歳でこの世を去る。
悲運の画家ゴッホ、生存中に売れた絵はたった一枚だった。
明るい色彩で描かれた「ゴッホの椅子」、この絵は別の貌も隠していると言う。
それは、17世紀のオランダ絵画においてパイプの煙は儚さを象徴し、同時に牧師の父に倣い聖職者を志したこともあるゴッホが親しんでいた聖書がそれを示唆する。
“ 主よ、わたしの祈りを聞いて下さい、わたしの生涯は煙となって消え去るのですから ” (詩編102:1-3) と。
Peter & Catherine’s Travel. Tour No.836
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