ここ数年、夏と冬、カタリナ とふたりで遣ることがあった。
行事と言うほど大袈裟なものではないが、これまでもカタリナの<稽古納め>など、幾度か投稿してきた墓参である。
帰り道に有馬温泉に寄ってひと風呂浴びて帰るのが通例となっていた。
初めの頃は、温泉など面倒くさいと思っている風だったが、近くでは、暑気払いや稽古を納めて初釜を迎えるまでの充電期間として楽しんでいたようだった(写真上)。
ガラシアに転院して二月半、お盆の頃だったように思う。
カトリックの祭日のひとつ “ マリア様被昇天の日 ”(8/15)、病院はお休みなのでその日でないことは確かだが、その日はそれに近い雰囲気、勿論、病院は開いていたが。で、物音ひとつしないほど静かな日の昼下がりだったと覚えている。
娘は自宅の水道工事に立ち会うために帰京していた。
カタリナに、「ご両親のお墓が近くだからお参りに行こう?」 と誘った。
夏にしては高く澄んでいる空を見遣り、「そう、近くなの?」と呟くように答えたような。
時間の前後の記憶が曖昧だが、気分のいい日に近くのカフェでお茶を楽しんだり図書館に行ったりしていた頃で、車椅子が頼りだったが比較的身軽に動けた時期でもあった。
車で10分もかからないと言うと、少し考え込んでいたが、「また、今度にしましょう」との返事だった。
気分転換にもなるからと再度誘うと、「今度またね!」とやけにきっぱりと言う。
それ以上無理強いもできずその話は打ち切ったものの、何故、拒んだのだろうと少し考え込んでしまった。
死を受け容れる覚悟をした者に墓参は酷なことなのか、その若さで来るとは!と叱られると思ったのか、太陽が照りつける景色にたじろいだだけなのか、今となれば知る由もない。
が、当事者の気持ちを忖度しない、無神経で軽率な誘いだったのかもと悔やまれ、暫し落ち込んでしまった。
過日(12/12)、気持ちの納まりどころを探すためと言えば大仰だが、ひとり暮れの報告に車を走らせた。
きりっと晴れているものの空っ風が吹きつけるこの日、墓地から綾に染まる北摂の山並みを見やると、山襞の陰になるのかガラシア病院は望めなかった(写真中)。
墓前に額づき、「早く逝かせてしまって申し訳ありません」と掌を合わせたら、「今、こちらでお仲間を誘い、楽しそうにお茶を点ててますよ」、と、姑(はは)の声が聞こえてき・・・、墓碑が少し滲んで見えたのは、冷たい風の所為ばかりじゃなかったように思えた。
話は前後するが、家を出る時、小倉遊亀画伯の「盛られた花」のような華やかな椿が咲いていた(写真下)。
そう言えば、稽古の折に N さんから頂いた<椿と春蘭>、嬉しそうに椿の名前を調べていたのは僅か8月ほども前、春の彼岸過ぎのことだったか。
Peter & Catherine’s Travel. Tour No.742
【お知らせとお願い】
カタリナの追悼式(追悼のミサ)を、2月1日(土) 午前11時、カトリック夙川教会で行います。
時間が許せば、故人を偲び祈ってやって下されば嬉しく存じます。
カタリナさん、心から嬉しそうに笑っています
こちらまで救われる笑顔です
おふたりの旅、多くの方に見守られて、まだまだ続きますように[E:foot]