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ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂(2)

2010年01月07日 | イタリア

 ラヴァッジョの 「慈悲の七つの行い」の主題はマタイの福音書です。

 そこには、個人がなすべき慈悲の行いは、私の父に祝福された人達、天地創造の時からお前達のために用意されている国を受け継ぎなさい。お前達は、私が飢えていた時に 「食べさせ」、喉が渇いていた時に 「飲ませ」、旅をしていた時に 「宿を貸し」、裸の時に 「着せ」、病気の時に 「見舞い」、牢にいた時に 「ねてくれた」からだ ” (マタイ25章)とあります。

 Photo_2それに 「死者の埋葬」の行いを加えたこの作品(上:全体)は、ミゼリコルディア同信会の依頼により、わずか数ヶ月のナポリ滞在中に圧倒的な知性と創造力によって描かれたとされています。

 新約聖書略解は、羊飼いが羊と山羊を選別するように、イエスが選ばれし者と呪われし者とに選別し裁きを行う ” とあります。

 また、その選別は一貫して、イエスから派遣される小さき者、即ち伝道者の宣教をどのように受け止め、どのように遇したのかが問われるのだ、とマタイは説いた ” ともあります。

 この慈悲の行いをなしたかによって、イエスによって裁かれる終末、つまり、 “ 最後の審判 に重大な関わりを持つのだと教えたのです。

 構成は、上部に、カラヴァッジョ好みで幾つかの作品に登場する女性レーナに似た聖母子と二天使を描き、その一人が身を乗り出し登場人物をふたつの部分(中:部分)に分けています。

 Photo_4その意味は、右部の死者を運ぶ男性と道標として松明を灯す司祭によって死者の埋葬を。
 娘ペロが父キモンの餓えを癒す為に母乳を与える囚人の慰問、食物の施与(下左:部分)を示しています。

 左下部、暗い背景の中にうずくまりながらも上方を見上げる若者は、病気の治癒(下左:部分)を示しています。

 Photo_8Photo_7左部の暗い路地では、宿屋の主人が三人の異邦人(下右:部分)を迎えています。
 中央で杖を持つ中年男は、帽子にヤコブの貝殻とペテロの鍵のアトリビュートをつけていて巡礼者の歓待を。

 右の若い将校は裸の背中の男に外套を与える聖マルティヌスで、衣服の施与を示し、左のロバの顎骨から水を飲む男は、旧約聖書の士師サムソン、飲物の施与を示しています。(参照:アートライブラリー)

 作品全体に深い陰影を落とす光彩の使用、さらには、薄暗い聖堂の揺らめく蝋燭の僅かな光によって、祭壇画を見る者、即ち信者に、より強い ” 慈悲 ” と ” 法悦 ” を与えたことでしょう。

 ただ、今の聖堂は採光がよくって画面全体が白っぽく光り、制作意図が半減するのではと首を傾げてしまいました。(

 しかった時間も過ぎればあっという間、これでナポリともお別れ、明日の午後エウロスター・ESでローマに戻る。ナポリ歴史地区のことやポンペイのことなどはまたの機会に。(

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ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂

2010年01月06日 | イタリア

 ラヴァッジョの作品との出会いを求め、ローマからナポリへ足を延ばした話の続き

 < スカッパ・ナポリ>とある聖堂の前、道を挟んで駐車場と化した小さな広場にオベリスク、古代エジプトの太陽の神を象徴する石柱(上)がある。
 この辺り一帯がギリシャ、ローマ時代の遺跡、地下ナポリの上にある証でもある。

 Photo_7ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂。
 この舌を噛みそうな名前の聖堂、広場から見ると敷地に余裕がないのか随分と立て込んで見える。
 正面はアーケード(中)により開かれているファザードがあって二階は美術館になっている。

 最晩年に手がけたナポリのサン・マルティーノ修道院の天井装飾画の傑作 「ユディトの勝利」を描いたルカ・ジョルダーノをはじめ、バロック期ナポリ派の画家による作品が展示されているらしいのだけれど、馴染みがない作者ばかり。

 車一台ほどの路地から建物の中庭への通路があって、その途中の右手Photo_10に通用口みたいな小さな扉があった。
 扉は開いており、廊下の突き当たりに小ぢんまりとした切符売り場を兼ねた売店がある。

 話は少し逸れるが、「ナポリ娘ってどうしてこうも可愛いんだろう」と鼻の下を伸ばす誰か?

 確かにペトロ ならずとも 「可愛いな」と思う女性に 「チケットを」と告げると、「二階の美術館は有料だけど聖堂だけなら無料よ」と微笑まれた。

 それを見ていて 「嬉しいじゃないか、このご時勢に無料なんて」と頬が緩んだままの誰かに匙を投げ、さっさと入堂した。

 Photo_11売店右手の小さな扉を開けると直ぐに八角形の構造の礼拝堂(下)、採光がいき届きナポリの陽光を受け眩しいほどに明るく、その佇まいにちょっぴり戸惑いを覚えるほどだった。

 キリスト教では 「8」の数字は復活の意味を示すとされ、フィレンツィエやピサのサン・ジョヴァンニ洗礼堂など八角形に造られた建物が多い。

 その八角形の内陣、アンドレア・ファルコーネによる 「聖水盤」があって、正面祭壇にカラヴァッジョの傑作のひとつ 「慈悲の七つの行い」があった。

 殺人という大罪を犯しローマからナポリへと逃亡したカラヴァッジョ。
 その彼が、ミゼリコルディア同信会の依頼により描いた縦4メートル近い大作は、彼がマタイの福音書 六つの慈悲の行ない」(マタイ25章35)に、死者の埋葬を加えて描いた本作。
 その七つの場面をひとつのキャンバスにくという極めて斬新な構図が取られていた。(続く) (

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スパッカ・ナポリ

2009年12月17日 | イタリア

 ヴェスヴィオ山の稜線(写真上)を照らし、朝日が昇るのがホテルのバルコニーから望める。
 今日も、素晴らしい天気の予感がする。

 ナポリをまっぷたつに割るという意のスパッカ・ナポリ
 昨日、ポンペイからの帰りに訪ねたものの、日曜の午後とあって店という店がシャッターを降ろし、人影もまばらでがっかり。

 Photo寒風が吹きすさび捨てられたゴミが風に舞い、まるでゴーストタウンの様相。あろうことかドゥオーモまでが閉まっている。
 石敷の路地をとぼとぼ歩き、ようようサンタ・キアーラ聖堂に辿り着き一息入れる始末。

 好天の今日は、打って変わったように建物と建物の狭い空間に青空が覗き、バルコニーに洗濯物がはためく。

 マルガリータを焼くピザ屋やバール、雑貨屋から衣料品店などが軒を連ね、商いのやり取りが飛び交う。

 車一台が御の字という道(写真中)を、タクシーやスクータがクラクションを鳴らし傍若無人に走り抜ける。
 この活況こそダウンタウン、「スパッカ・ナポリなんや!」とカタリナ ともども感じ入った。

 Photo_2教会ばかりが矢鱈目立つこの一角、その中心はやはりナポリの守護聖人ジェンナーロを祭祀するドゥオーモ(写真下)
 さすが?に今朝は開いている。

 春秋の二日と年の暮れの三回、小さな壷に納められた聖人の血が液体に戻るという、「ほんまかいな?」のミラーコロ・奇跡が起こるという。

 そのドゥオーモから、通りを少し下った路地の中ほどに目指す建物があった。

 Photo_3この辺り一帯、地下にギリシャ、ローマ時代の遺跡があって、地下ナポリへの入口もあるらしく、 その上に幾時代もが積み重なり、現在の街が築かれているのだそうだ。

 サンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディアという少し長い名前がつけられたその建物も、古い時代の道路があったところに17世紀初頭に建てられたらしい。

 ちなみに、ミゼリコルディアとは、ヴェローナの聖ペトロ殉教者、サン・ピエトロ・マルティレ・ダ・ヴェローナによって、1244年、“ 隣人に対する慈しみ・ミゼリコルディアの業をもって神を称える ” ことを目的にフィレンツェに創設されたのを起源とするとか。

 今も活動する最も古い市民ボランティア組織のひとつとされる。
 ヴァチカン放送局のホームページに拠れば、07年、ローマ教皇ベネディクト16世が、「これからもその業を通して神の愛の福音を全ての人に伝えて欲しい」と励ましたと聞く。(もうちょっと続きます。)

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ナポリ(2)

2009年12月07日 | イタリア

 駅の観光案内所で、カンパーニャ・アルテカードを買って、地下のピアッツァ・ガリバルディ駅から郊外電車に乗った。

 お世辞にも綺麗とはいえないローカル電車、ゆっくりとしたスピードで地下を走り三分ほどでピアッツァ・カブール駅に着く(上)。

 Photoピアッツァ・カブール駅の上は小さな公園。
 皮ジャンに鋲を打った顔中輪っかだらけの若者数人が、ガムを噛みながら屯ってい、こちらに向ける視線がおっかない。

 そこからカポデモンティ美術館への直行バス、LC番が新たにできて便利になったと “ 地球の歩き方 ” にあったのだが、そのLC番の停留所が全く判らない。

 何箇所かのバス停が並んでいるので、てっきりそこに目指すバス停があると思い込んでいたのだが、幾ら探してもLC番なんて見当たらない。

 丁度、公園に着いたバスから降りてきた親切そうなおじさんに尋ねた。

 Photo_4美術館へはピアッツァ・カブール駅の例の小さな公園から交差点ひとつ、五十メートルほど坂道を上ったムゼオ広場の国立考古学博物館の前から出ていた。

 この親切なおじさん、博物館の前のバス停まで案内してくれたばかりか、「C64番か178番のバスに乗れ」とバスの番号まで紙に書いてくれた。

 5分ほど待つとやってきた178番のバスに乗ろうとすると、心配になったのか件のおじさん 「一緒に乗る」という。

 市街地を離れたバスは、北に広がる山に向かって坂道を上っていき(中)、眼下にはナポリ湾が望める。

 暫くして、「自分は途Photo_3中で降りるが、お前らが降りる停留所は、このおばさんに頼んでおいた」と、身振り手振りで教えてくれる。

 そのおばさんもこれまた親切で、おじさんと私達のやり取りを車中で聞いていた人が 「ここで降りなさい」と教えてくれるのを目で制して、一番近いバス停で 「ここよ」と合図してくれた。

 思わず日本語で 「ありがとう」と、礼を言ってバスを捨てたら、なるほど、バス停のまん前に美術館の正門があった(下)。

 “ ナポリを見て死ね ” といわれるこの街、ゴミが溢れ汚く狭い敷石の道路はでこぼこ、ドライバーは荒っぽく歩行者の公衆マナーもなっていない。

 しかし、食い物は頗る美味いしく人情は厚い、少しどころかおおきに猥雑なこの街は、お節介とも思えるほど親切で 「まるで大阪やないか」と思った。

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ナポリ

2009年12月06日 | イタリア

 バロックの傑作を訪ね、ヴァチカン博物館、ア・リーパ教会、<ボルゲーゼ美術館>、コルシーニ宮美術館、ナヴォーナ広場、<ポポロ教会>、サンタゴスティーノ教会、フランチェージ教会と歩いた。

 Photo_3旅の半ば、一旦ローマを離れ、カラヴァッジョの「キリストの鞭打ち」を追って、イタリア半島の爪先、シチリアとの海峡の町レッジョ・ディ・カラーブリア行きのエウロスターに乗った(上)。

 1列席と2列席が通路を挟んで並び、私たち二人の席は生憎に通路を挟んだ。

 出発間際に乗車した同世代の男性二人と女性のお洒落な三人連れ、どうも離れた席になったらしく、2列席の窓側の女性と通路に立った男性が、通路側のカタリナを挟んでイタリア語を飛び交わしている。
 で、私の1列席と窓際席を「チェンジしないか」と持ちかけると、否応もなく「グラーツェ」となった。

 Photo_5定刻、静かにホームを離れたESはナポリまでノンストップ、柔らかな陽ざしに萌える草原を切り裂くように走る。

 ナポリに近づいたのか、右手に穏やかに光る海が。
 ナポリ中央駅のひとつ前の駅で、件のお洒落な三人連れが「サンキュー」の言葉を残し降りた(中)。

 ナポリに入って車窓からの風景が変る。
 沿線の建物の窓という窓、バルコニーというバルコニーに、色とりどりの洗濯物が風にはためいている。
 日本では見慣れたこの風景、ローマから北の町では余り見たことがない。

 ナポリには駅がいくつかあって、ローマからの主要列車は、中央駅、その地下駅のピアッツァ・ガリバルディ駅、カンピ・フリグレイ駅などに停まる。
 Photo_6地下駅に着いたES、ホームは呆れるほど暗い。
 その暗がりから、「ポンペイ」とタクシー運転手に声をかけられびっくり(下)。

 地上に出るとそこは駅前広場ピアッツァ・ガリバルディ、の筈だが、駅舎工事のため塀で遮られ、いたるところ吸殻と食べ物の袋が散乱、汚いことこの上ない。

 それにしてもだ、“ ナポリを見てから死ね ” とまでいわれる風光明媚なイタリア第三の街ナポリ。
 その第一印象、噂に違わぬ猥雑振り?に、なるほどなあと納得。
 最近では、“ ナポリが死なないうちに見ておけ ” と皮肉られているとも聞き、さらに「ご尤も!」と感心した。(続く)

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ポポロ教会(3)

2009年11月24日 | イタリア

 ポポロ教会に入って左側すぐ、キージ家の礼拝堂がある

 この礼拝堂、映画 「<天使と悪魔>」でも登場する。
 秘密結社・イルミナティのアンビグラム、左右上下同じに見えるように意匠された図象が、ラファエロの墓を示唆すると解いたラングドン教授、彼の墓があるパンテオンに急行したものの、救出すべき枢機卿の姿を見つけることができない。

 Photo_32_6ンテオンで考え込む教授。
 そして、アンビグラムが示していたのは、ラファエロが設計しベルニーニが完成させた、キージ家の礼拝堂だと気付き、ローマの街をポロ教会へと車を飛ばす。

 そのキージ家の礼拝堂、クーポラのモザイクもラファエロのデザイン。
 内部にはベルニーニの彫刻 「預言者ハバクク」(上/左)と 「獅子と預言者ダニエル」(上/右)が並ぶ。

 まさに、このポポロ教会、ローマで活躍した最高の芸術家たち、盛期ルネッサンスの巨人ラファエロ、バロック期に活躍したボローニャ派のアンニバル・カラッチ、無頼の画家にして光と影の魔術師カラヴァッジョ、そして、彫刻家であり建築家のジャン・ロレンツォ・ベルニーニと、四人の天才・奇才の作品がこれでもかと並ぶ。

 それに加え、ロヴェーレ家の礼拝堂の 「幼子キリストの礼拝」(<ポポロ教会>)を描いたイタリア・ルネッサンスの画家ピントリッキオの作品となれば、祈りの場所であるとともに一流の美術館と比べて遜色がない存在でもある。

 13Photo_4世紀ヴィザンチンの板絵 「マドンナ・デル・ポポロ市民のマドンナ」が飾られた主祭壇近く、ベルニーニが改修した翼廊にパイプ・オルガンのためのバルコニーがあって、ベルニーニの実に可愛い 「天使の像」(下)がけなげにも支える。

 ミケランジェロの 「ピエタ」には、切ないまでの女性の美しさが白亜の大理石から紡ぎだされている。

 ベルニーニが創造する女性像は、その 「天使の像」からサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア聖堂の 「聖テレジアの法悦」やサン・フランチェスコ・ア・リーパ聖堂の 「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」のように、端整にして優雅、時にはコケティッシュなまでに艶めかしいものまであって、このバロックの天才彫刻家の多能さに舌を巻く。

 その、男心をそそる 「聖テレジアの法悦」と 「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」は、別の機会にまた。

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ポポロ教会(2)

2009年11月23日 | イタリア

 カラヴァッジョが、ポポロ教会チェラージ礼拝堂のために描いた祭壇画、それは、「聖パウロの回心」と「聖ペトロの磔刑」(上)。

 イエスに選ばれた十二使徒の頭目であるペトロは、天の国の鍵を授けられ初代ローマ教皇に叙せられる(マタイの福音書16-19)。

 Caravaggio_pietro00弱い人間でもあった彼は、主が裁かれた時大祭司の屋敷の中庭で、近くにいた女性から、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言われ、“ 分らない ” と言う。

 門の方へ行くと他の女性からも、「この人はナザレのイエスと一緒にいた」と言われ、“ そんな人は知らない ” と打ち消す。
 そこにいた人々が近寄って彼に言う。「確かにお前もあの連中の仲間だ。言葉遣いで分かる」と。

 ペトロは巻き添えになるのを恐れ、“ そんな人は知らない ” と誓い始めるとすぐ鶏が鳴いた。

 ペトロは、“ 鶏がなく前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう と言われたイエスの言葉を思い出し激しく泣く(マタイの福音書26/69‐73)。

 カタリナ は、「少しおっちょこちょいなのね、彼は」と、なぜか嬉しそうに言う。

 主の昇天後、迫害が激しくなったローマから避難しようと、一旦はアッピア街道に足を向ける。すると、向こうから歩いてくるイエスと出会う。

  2_4驚いた彼は、“ Domine,quo vadis? 主よ、何処へ行かれるのですか? ” と尋ねる、と、イエスは、“ もう一度十字架にかけられるためにローマへ ” と答える。

 ペトロは、それを聞いて翻然と悟り殉教を覚悟、ローマへと戻り、そしてエルサレムやローマで布教活動を行う。
 最後は皇帝ネロに捕まり処刑されるのだが、“ 主と同じでは畏れ多い ” と自ら望み逆さ十字に架けられる。

 本作は、ヴァチカン・バオリーナ礼拝堂のミケランジェロのフレスコ画「聖ペトロの磔刑(部分)」(下)を意識したとされる。

 構図をミケランジェロの作品と左右反転させただけでなく、群集を切り詰め三人の処刑人だけを配置、ふたりは背を向けひとりは目を陰で隠し匿名性を帯びさせた。

 カラヴァッジョはこの作品を、心理的な意味として、“ ペトロの苦痛 ” に置いたとされ、使徒を、“ 格闘すると同時に苦悩する者 ” として描いたともされている。(この稿、もう少し続ける)
 <参考:アート・ライブラリー/
カラヴァッジョから。>

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ポポロ教会

2009年11月22日 | イタリア

 ボルゲーゼ美術館からポポロ教会に向かった。
 美術館から真直ぐ南に伸びる公園内の緩やかな坂道を下って暫く、アウレリアヌスの城壁と出会う辺りがピンチアーナ門。

 近くにガイドブックには載っていない地下鉄の標識が見える。
 ところがこの出入口、地下鉄A線のスパーニャ駅へ続く地下通路だが、呆れるほど長い。

 Photoラッシュ時間でもない昼下がり、殆ど利用する人も見えず、黙々?とエスカレータと動く歩道を何度か乗り継ぐ。
 で、10分ほども歩かされて漸くスパーニャ駅に着いた。

 落書きだらけのチケット自販機、動かないので悪戦苦闘していたら、近くのお巡りさんが自販機を蹴飛ばしていうことをきかしてくれた。

 地下鉄フラミニオ駅から城壁の一部のポポロ門を潜ると直ぐ左に、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会(上)がある。
 ポポロ = ローマ市民が聖マリアに捧げた教会という意味でこの名がついたとか。

 Photo_3正午から16時までシエスタ、昼寝?に入るので先を急ぐ。
 何年か前、門扉が固く閉ざされていて、以来、無念な思いを残してきた。

 中央祭壇左手の礼拝堂が、カラヴァッジョの礼拝堂とも呼ばれるチェラージ礼拝堂である。
 正面にアンニバレ・カラッチの 「聖母被昇天」、右手にカラヴァッジョの 「聖パウロの回心」(中)が架かる。

 使徒言行録に拠れば、熱心なユダヤ教徒だったサウロはキリストたちを弾圧する側にいた。
 ダマスカスへ赴く途上でキリストの、“ サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか という声を耳にし、目もくらむ光に射すくめられ落馬、一時的に視力を失ってしまう。

 Photoカラヴァッジョは、その瞬間を鋭く切り取っている。 
 馬の白いまだらの部分に射す神の光、目が眩み地に落ち目を閉ざすパウロ、その傍らにはパウロのアトリビュートの剣が打ち棄てられたように描かれている。

 この出来事を神の啓示と受け止めたサウロはキリスト教に回心、名もパウロと改める。

 当時、この絵には、“ まったく動きがない ” と評する向きもあったそうだが、“ カラヴァッジョは、サウロの心の内にある葛藤を静止させた瞬間に塗り込めた ” と、解釈されているようだ。

 ところで、入って直ぐ右側のロヴェーレ家の礼拝堂に、ルネッサンスの画家ピントゥリッキオの傑作 「幼子キリストの礼拝」(下)がある。
 目的のカラヴァッジョの後、
閉堂までゆっくり鑑賞したのは言うまでもない。 (続く)

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天使と悪魔

2009年11月05日 | イタリア

 ひょんなことから、多分フランクフルトへの機中だったか 「天使と悪魔」という映画を観た。
 トム・ハンクス主演の前作 「ダ・ヴィンチ・コード」に連なる作品だが、ダン・ブラウンの原作はこちらが先に出版されたと思う。

 舞台は、新教皇を選ぶ教皇選挙・コンクラーベのため枢機卿が召集されたヴァチカン市国(上)。

 007核を凌ぐエネルギーを持つ反物質が盗まれ、サン・ピエトロ寺院の何処かに仕掛けられたのと時を同じくして、新教皇の有力候補・プレフェリーティである四人の枢機卿の失踪を縦糸に、反物質の奪還と既に消滅したはずの秘密結社イルミナティに拉致、殺人予告をされた枢機卿の救出を横糸に画面は進む。

 反物質が盗まれていた現場の死体に残るイルミナティのアンビグラム、上下左右逆さまにしても同じように対象化されたデザイン。の焼き印を手掛かりに、トム・ハンクス扮するラングドン教授と謎の暗殺者アサシンの息詰まる攻防が始まる。

 アンビグラムからラファエロが眠るパンテオン(中)へと導かれた教授。
 アンビグラムがバロック期の天才ベルニーニの彫刻を道標としていることを突き止め、デル・ポポロ教会、デッラ・ヴィットリア教会からナヴォ-ナ広場へと、人で溢れかえるローマ市内で十字架をなぞるような追跡劇を展開。

 P1010631最後、サンタンジェロ城から続く地下通路を通ってサン・ピエトロ寺院の初代教皇聖ペトロが眠るカタコンベ・地下埋葬所へと戻る。

 ざっとこの様な筋立てなのだが、舞台となったヴァチカン、「ダ・ヴィンチ・コード」と同様、間違っても撮影に協力する筈もないだろうと思うのだが、画面は紛うことなきサン・ピエトロ寺院。

 教皇の地位を狙う首謀者の前教皇侍従・カメルレンゴが、こと敗れて最後に蜀台の油らしきものを被り焼身自殺を図る結末。

 ましてやその場所が、ベルニーニの手になる教皇専用祭壇(下)の下となれば、これは、もう完全なハリウッド・シチュエーション、その旺盛なサービス精神に笑える。

 P1010554_1この映画を見て数年前 「バロックの旗手を訪ねる旅」を思いたち、ローマに天才彫刻家ベルニーニと彼と同時代の奇才の画家カラヴァッジョを訪ね歩いたことを懐かしく思い出した。

 このベルニーニとカラヴァッジョ、際立って天才・奇才であるが故に聖書の解釈は独断と恣意に満ち、時の絶対的権力者である西方ローマ教会が顔をしかめ、眉をひそめたのも度々、挙句、祭壇を飾ることを拒まれたことは想像に難くない。

 一番観光客が少ないとされる2月のローマ、そこでのカラヴァッジョとベルニーニとの出会いを折々に綴ってみたい。

 天才ふたりに興味のない方も、この機会に少しお付き合いを頂ければと思う。
 ふたりの旅を始めるのは 「勝手にどうぞ、でもその導入にしては長くない!」 、然もありなん💦

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