アジア・オセアニアNews blog ~お日様とお月様の光と影~

アジア・オセアニア地域の通信社が配信する記事から『中国の領土紛争問題』を伝え日本の安全保障などのニュースブログ。

19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した(9)

2013年10月13日 | お日様とお月様の光と影
 ペリーが去って一か月後1853年8月帝政ロシアのプチャーチンが艦隊を率いて長崎に来航しました。プチャーチンはロシア皇帝の国書を長崎奉行に渡しましたがプチャーチン一行はそのまま長崎で足止めされました。しかし本国で戦争が勃発しプチャーチン艦隊は一旦日本を離れました。西欧列強諸国は競って東アジアの支配実行を始めていました。

 1853年10月、家定は天皇より将軍宣下を受け将軍職を継承し13代将軍となり徳川宗家の当主となりました。しかし家定は病弱であり武家の頭領である将軍職を引き継ぐ力量はありませんでした。そもそも家定と生母本寿院の幕府内派閥「紀南派」には「アメリカとの国交問題」など対処できる能力は無かった…て言うか「興味が無かった」のですね。
  
 幕府の閣僚達は国難と言える「アメリカとの国交問題」に行き詰まりました。幕閣安部正弘はアメリカ合衆国大統領の国書を日本語に翻訳させて広く「アメリカとの国交問題」の意見を各藩から問うことしたのです。これは幕府開闢以来初めてで幕府が行う政策に対して藩に意見を伺う事は決して無かったからです。
 これは徳川譜代大名にとっては幕政改革に参画できるチャンスを得たのです。また江戸時代ずっと辛酸を味わって来た外様大名にとっては国政に異議を唱えるチャンスを得たのです。この様に幕府の権威が揺らぎ始めたのです。

 まず幕府に届いた意見書の中には西洋学を学ぶ吉田寅次郎や橋本佐内などの「開国派」の意見書も有りました。彼らの意見書には優れた西洋学を学び日本を近代化し産業を興し西洋列強諸国と同等の経済力と軍事力を持つべきだという「開国論」だったのです。
 また幕府に届いた藩主の意見書には「アメリカとの国交を持たず攘夷決行!」を唱える意見がほとんどでつまり「戦争も辞さない」開戦論が意見が多かったのです。たとえば徳川譜代大名の越前福井藩主(現福井県福井市)松平春嶽(しゅんがく)や伊予松山藩主(現愛媛県伊予市)伊達 宗城(だて むねなり)の意見書は先代の将軍家慶の幕政改革を批判し徳川斉昭の「尊王攘夷」を支持し海防強化を提案しました。これにより海防参与徳川斉昭の「尊王攘夷論」は各藩から支持され幕府内の派閥「一ツ橋派」は息を吹き返したのです。
 斉昭は沿岸の藩の譜代大名に海岸警備を強化を命じ江戸湾品川に洋式大砲の台場増設させました。また幕府は各藩に軍艦の建造を許可し洋式帆走軍艦の建造が許可されまた。それにより薩摩藩の昇平丸、水戸藩の旭日丸、浦賀奉行の鳳凰丸の建造が開始されまた。また西洋諸国で唯一国交があったオランダ王国へ軍艦の発注をおこなうことになります。この様に藩の意見書に流され「アメリカ合衆国との開戦」準備が着々と整備されてゆくのです。
これでは清の二の舞になるのは明白です。

 しかし各藩からの支持を得た徳川斉昭は沸き立つ心があったと思います。日本の近代化明治維新の功労者は本当は徳川斉昭であり水戸徳川家なのだと私は思う。さて徳川斉昭の「尊王」という思想は水戸徳川家の二代藩主光圀(みつくに)の歴史観に基づかれて編集された「大日本史」の影響なのです。この日本史編集は光圀の代では完成せず歴代の水戸藩主の編纂事業「水戸学」として引き継がれてきました。光圀が主張した尊王思想は「徳川宗家は天皇から政権を預かっているだけで徳川宗家は一大名に過ぎない!」という思想を代々引き継いで来たのです。
 これは幕府にとって幕府を根底から否定する「危険思想」でした。そして水戸徳川家の「尊王攘夷」思想を後に外様大名の薩摩藩・長州藩・土佐藩などの諸藩が拡大解釈し倒幕に利用したのです。

 そして幕府内の派閥「紀南派」と「一ツ橋派」の対立は外様大名の薩摩藩藩主島津斉彬と土佐藩主山之内容堂が幕政改革に参画すると将軍家定と「南紀派」に対するクーデター計画へと変転していきます。

つづく
 

 お日様とお月様の光と影~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
 第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
  プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!(1)~(9)

 参考文献 
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
江戸300藩最後の藩主~うちの殿様は何をした?光文社文庫

 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半 
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半

 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候


筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。

19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した (20)

2013年10月13日 | お日様とお月様の光と影
    1854年4月25日、江戸城ではアメリカとの日米和親条約の下田再交渉準備を始めていました。それまで閉鎖されたいた下田奉行所を再開させるため幕閣安部正弘は旗本の都筑 峯暉(つづき みねてる)と伊沢 政義(いざわ まさよし)二名を「取締掛」に任命しました。この「下田取締掛」の主な仕事は対外交渉の実務的な仕事だった。たとえばアメリカ人居留地の問題また貨幣との交換比率の問題そして交渉応接場の設置など仕事は山ほどありました。
   5月1日、安部正弘は浦賀奉行支配組頭に黒川嘉兵衛(くろかわかへえ)を任命しましたその初仕事が吉田寅二郎と金子 重之輔の取り調べだったとは思ってもいなかったのでした。
   1854年5月初め 、ペリーは函館へ検分に旗艦ポーハタンとミシシッピー号を引き連れ2隻で出航しました。函館へ発つ前にペリーは密航者二人の処置を幕府に寛大する様に働きかけよと士官に命令していました。士官は通訳を連れ下田の町を散歩していると寅二郎と金子を発見しました。二人は一帖もない仮設の檻に押し込まれていていました。士官は黒川に対してなぜこんな狭い檻に入れている?もっと良い環境の牢に移せ!二人を処刑するのか?合衆国海軍は幕府に対して二人の寛大な処置を望む!と抗議しました。黒川はアメリカ側の抗議に対して二人が「条約交渉の障害」になると感じ安部正弘に処置を検討する様に要望しました。

   江戸長州藩邸(現在の東京都港区桜田)は上屋敷の桜田藩邸と下屋敷の麻布藩邸がありました。桜田藩邸に呼び出された寅二郎の実兄の杉民治は寅二郎がまたも何事かしたのかと心配していました。この兄は何かと振り切れる弟を子どもの頃からかばい守って来ました。すると長州藩高官の高杉小忠太(たかすぎ こちゅうた・高杉晋作の実父)が控えの間に入って来ました。高杉小忠太は杉民治の直属の上士で幕府の命令によって江戸沿岸警備のために単身で江戸に出府していました。

   高杉小忠太は杉に寅二郎の罪状を述べた。
   「長州藩浪人吉田寅二郎と同じく金子 重之輔は去る4月25日真夜中に下田柿崎海岸
    から船を盗みアメリカ合衆国海軍の軍艦に密航し拒絶され下田奉行所に自首した。」
   「今は下田奉行所より江戸北町奉行所に移送中だその後は伝場町の獄に投獄されるで
    あろうとのことだ。」   
  
民治は血の気が引いた「国外渡航する者は死刑!今度は寅二郎を助けることがでいきないかも知れない…」と思った。高杉小忠太は杉民治に砲台警備の任を解くので気の毒だか謹慎し恭順の意を幕府に示た方がいいと言いました。長州藩では幕府の法を犯した者は同情し内々でかばい合う気風がありましました。また寅二郎は殿より10年間の国内遊学を許可されたと聞いているが江戸で何をしていたか?と高杉小忠太は杉民治に聞きました。

   
   「私には保土ヶ谷に住んでいると言っていましたが…どうも寅は佐久間象山の
「象山書院」に出入りしいて… もしかするとそこの者に密航をそそのかされたかも知れません。」
   「象山書院?神田のオランダ学所か?よし幕府にはそう報告しょう!」
   「それにしてもだ金子 重之輔とは誰だ??」
   「さァ????」 
    二人は首をかしげた。 
  

  「長州藩浪人吉田寅二郎アメリカ軍艦に密航」の噂は江戸の藩邸中に尾ひれはひれが付いて無責任に広がっていました。薩摩藩邸(現在の東京都港区三田)でも尊王攘夷派の藩士である有馬新七(ありま しんしち)や有村俊斎の間では「寅二郎はペリーを斬るつもりだった」とか「寅二郎は黒船を乗っ取るとつもりだった」とか噂しておりました。やがてその声は「寅二郎に続け我々が攘夷を決行する!」と激しくなっていきました。黒船カルチャーショックを受けた西郷吉之助は尊王攘夷派の藩士達の姿を見て「ぼんやりと危機感」を抱くのでした。   

   西郷吉之助は江戸湾の幕府軍の軍備とアメリカ艦隊の見分を藩主に報告するために藩邸の庭で待機しているとやがて島津斉彬が縁側に出て来ました。吉之助は城の様な巨艦が9隻も来航しているのに幕府の軍備はあまりにも手薄で驚いたことを斉彬に報告しました。斉彬は幕府や我が薩摩藩はどう対応すれば最善か?と吉之助に尋ねました。吉之助は答えが出ませんでした。すると斉彬は世界地図を持って来させ吉之助に講義を始めた。
   地図を指さしこれがアメリカ合衆国、広大な太平洋が広がっているその太平洋を渡り日本に来航した。黒船は風力ではなく「蒸気機関」という技術で操船し世界中どこへでも行ける。その技術を学びかつそれを支える「産業を興す」ことが我が国が早急に行う課題であると斉彬は説いた。
 
  

「近代科学を学びかつ産業を興しそして日本の軍政を
近代化改革を行い西洋列強諸国と同等の国力を持たなければならない」



   敵の軍備や国力を知らずただ過激に騒ぐ攘夷派の藩士達は愚かでありそれらの者を説得するのが吉之助の役目の一つであると説いた。斉彬の講義が難しかったのか吉之助の顔はスッキリしていなかった。そこで斉彬は福井藩主松平春嶽宛ての手紙を持って来させて福井藩邸(現東京都千代田区大手町)に手紙を届ける様にと吉之助に言いました。


つづく 




 お日様とお月様の光と影~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
 第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
   プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!(1)~(20)




 参考文献 
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
 江戸300藩最後の藩主~うちの殿様は何をした?光文社文庫 より
 幕末外交と開国 講談社学術文庫 より

 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。

記者に「マルクス主義学習」徹底 25万人が免許更新へ試験 中国 (時事通信)

2013年10月13日 | 中国共産党の市民弾圧と粛清
記者に「マルクス主義学習」徹底 25万人が免許更新へ試験 中国
時事通信 2013/10/12-17:14)

 【北京時事】中国国家新聞出版ラジオ映画テレビ総局は12日までに、「マルクス主義報道観」や「中国の特色ある社会主義」を含む6項目の試験に合格しないと、2014年の記者証更新を認めないとの方針を決め、通知を出した。対象は国内の通信社、新聞・雑誌、テレビなどの記者約25万人。中国共産党が掲げる思想を記者に徹底させる狙い。中国メディアが伝えた。
 同総局の通知によると、来年の全国統一の記者証更新の前に、記者は18時限以上の学習・討論などの研修を受け、来年1~2月に実施する統一試験に合格しなければならない。研修・試験には「報道倫理」「報道法規」「取材・編集の規範」「誤報の防止」の各項目も含まれる。