ペリーが去って一か月後1853年8月帝政ロシアのプチャーチンが艦隊を率いて長崎に来航しました。プチャーチンはロシア皇帝の国書を長崎奉行に渡しましたがプチャーチン一行はそのまま長崎で足止めされました。しかし本国で戦争が勃発しプチャーチン艦隊は一旦日本を離れました。西欧列強諸国は競って東アジアの支配実行を始めていました。
1853年10月、家定は天皇より将軍宣下を受け将軍職を継承し13代将軍となり徳川宗家の当主となりました。しかし家定は病弱であり武家の頭領である将軍職を引き継ぐ力量はありませんでした。そもそも家定と生母本寿院の幕府内派閥「紀南派」には「アメリカとの国交問題」など対処できる能力は無かった…て言うか「興味が無かった」のですね。
幕府の閣僚達は国難と言える「アメリカとの国交問題」に行き詰まりました。幕閣安部正弘はアメリカ合衆国大統領の国書を日本語に翻訳させて広く「アメリカとの国交問題」の意見を各藩から問うことしたのです。これは幕府開闢以来初めてで幕府が行う政策に対して藩に意見を伺う事は決して無かったからです。
これは徳川譜代大名にとっては幕政改革に参画できるチャンスを得たのです。また江戸時代ずっと辛酸を味わって来た外様大名にとっては国政に異議を唱えるチャンスを得たのです。この様に幕府の権威が揺らぎ始めたのです。
まず幕府に届いた意見書の中には西洋学を学ぶ吉田寅次郎や橋本佐内などの「開国派」の意見書も有りました。彼らの意見書には優れた西洋学を学び日本を近代化し産業を興し西洋列強諸国と同等の経済力と軍事力を持つべきだという「開国論」だったのです。
また幕府に届いた藩主の意見書には「アメリカとの国交を持たず攘夷決行!」を唱える意見がほとんどでつまり「戦争も辞さない」開戦論が意見が多かったのです。たとえば徳川譜代大名の越前福井藩主(現福井県福井市)松平春嶽(しゅんがく)や伊予松山藩主(現愛媛県伊予市)伊達 宗城(だて むねなり)の意見書は先代の将軍家慶の幕政改革を批判し徳川斉昭の「尊王攘夷」を支持し海防強化を提案しました。これにより海防参与徳川斉昭の「尊王攘夷論」は各藩から支持され幕府内の派閥「一ツ橋派」は息を吹き返したのです。
斉昭は沿岸の藩の譜代大名に海岸警備を強化を命じ江戸湾品川に洋式大砲の台場増設させました。また幕府は各藩に軍艦の建造を許可し洋式帆走軍艦の建造が許可されまた。それにより薩摩藩の昇平丸、水戸藩の旭日丸、浦賀奉行の鳳凰丸の建造が開始されまた。また西洋諸国で唯一国交があったオランダ王国へ軍艦の発注をおこなうことになります。この様に藩の意見書に流され「アメリカ合衆国との開戦」準備が着々と整備されてゆくのです。
これでは清の二の舞になるのは明白です。
しかし各藩からの支持を得た徳川斉昭は沸き立つ心があったと思います。日本の近代化明治維新の功労者は本当は徳川斉昭であり水戸徳川家なのだと私は思う。さて徳川斉昭の「尊王」という思想は水戸徳川家の二代藩主光圀(みつくに)の歴史観に基づかれて編集された「大日本史」の影響なのです。この日本史編集は光圀の代では完成せず歴代の水戸藩主の編纂事業「水戸学」として引き継がれてきました。光圀が主張した尊王思想は「徳川宗家は天皇から政権を預かっているだけで徳川宗家は一大名に過ぎない!」という思想を代々引き継いで来たのです。
これは幕府にとって幕府を根底から否定する「危険思想」でした。そして水戸徳川家の「尊王攘夷」思想を後に外様大名の薩摩藩・長州藩・土佐藩などの諸藩が拡大解釈し倒幕に利用したのです。
そして幕府内の派閥「紀南派」と「一ツ橋派」の対立は外様大名の薩摩藩藩主島津斉彬と土佐藩主山之内容堂が幕政改革に参画すると将軍家定と「南紀派」に対するクーデター計画へと変転していきます。
つづく
お日様とお月様の光と影~東アジア近代化クロニクル(年代記)~
第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!(1)~(9)
参考文献
知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
江戸300藩最後の藩主~うちの殿様は何をした?光文社文庫
2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半
2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半
文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)
文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候
筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
1853年10月、家定は天皇より将軍宣下を受け将軍職を継承し13代将軍となり徳川宗家の当主となりました。しかし家定は病弱であり武家の頭領である将軍職を引き継ぐ力量はありませんでした。そもそも家定と生母本寿院の幕府内派閥「紀南派」には「アメリカとの国交問題」など対処できる能力は無かった…て言うか「興味が無かった」のですね。
幕府の閣僚達は国難と言える「アメリカとの国交問題」に行き詰まりました。幕閣安部正弘はアメリカ合衆国大統領の国書を日本語に翻訳させて広く「アメリカとの国交問題」の意見を各藩から問うことしたのです。これは幕府開闢以来初めてで幕府が行う政策に対して藩に意見を伺う事は決して無かったからです。
これは徳川譜代大名にとっては幕政改革に参画できるチャンスを得たのです。また江戸時代ずっと辛酸を味わって来た外様大名にとっては国政に異議を唱えるチャンスを得たのです。この様に幕府の権威が揺らぎ始めたのです。
まず幕府に届いた意見書の中には西洋学を学ぶ吉田寅次郎や橋本佐内などの「開国派」の意見書も有りました。彼らの意見書には優れた西洋学を学び日本を近代化し産業を興し西洋列強諸国と同等の経済力と軍事力を持つべきだという「開国論」だったのです。
また幕府に届いた藩主の意見書には「アメリカとの国交を持たず攘夷決行!」を唱える意見がほとんどでつまり「戦争も辞さない」開戦論が意見が多かったのです。たとえば徳川譜代大名の越前福井藩主(現福井県福井市)松平春嶽(しゅんがく)や伊予松山藩主(現愛媛県伊予市)伊達 宗城(だて むねなり)の意見書は先代の将軍家慶の幕政改革を批判し徳川斉昭の「尊王攘夷」を支持し海防強化を提案しました。これにより海防参与徳川斉昭の「尊王攘夷論」は各藩から支持され幕府内の派閥「一ツ橋派」は息を吹き返したのです。
斉昭は沿岸の藩の譜代大名に海岸警備を強化を命じ江戸湾品川に洋式大砲の台場増設させました。また幕府は各藩に軍艦の建造を許可し洋式帆走軍艦の建造が許可されまた。それにより薩摩藩の昇平丸、水戸藩の旭日丸、浦賀奉行の鳳凰丸の建造が開始されまた。また西洋諸国で唯一国交があったオランダ王国へ軍艦の発注をおこなうことになります。この様に藩の意見書に流され「アメリカ合衆国との開戦」準備が着々と整備されてゆくのです。
これでは清の二の舞になるのは明白です。
しかし各藩からの支持を得た徳川斉昭は沸き立つ心があったと思います。日本の近代化明治維新の功労者は本当は徳川斉昭であり水戸徳川家なのだと私は思う。さて徳川斉昭の「尊王」という思想は水戸徳川家の二代藩主光圀(みつくに)の歴史観に基づかれて編集された「大日本史」の影響なのです。この日本史編集は光圀の代では完成せず歴代の水戸藩主の編纂事業「水戸学」として引き継がれてきました。光圀が主張した尊王思想は「徳川宗家は天皇から政権を預かっているだけで徳川宗家は一大名に過ぎない!」という思想を代々引き継いで来たのです。
これは幕府にとって幕府を根底から否定する「危険思想」でした。そして水戸徳川家の「尊王攘夷」思想を後に外様大名の薩摩藩・長州藩・土佐藩などの諸藩が拡大解釈し倒幕に利用したのです。
そして幕府内の派閥「紀南派」と「一ツ橋派」の対立は外様大名の薩摩藩藩主島津斉彬と土佐藩主山之内容堂が幕政改革に参画すると将軍家定と「南紀派」に対するクーデター計画へと変転していきます。
つづく
お日様とお月様の光と影~東アジア近代化クロニクル(年代記)~
第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!(1)~(9)
参考文献
知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
江戸300藩最後の藩主~うちの殿様は何をした?光文社文庫
2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半
2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半
文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)
文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候
筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。