桃から生まれたpink太郎

日々感じていることを、少しずつ書いていきたいです。

私をプロデュース♪⑥

2007年06月12日 | omoi
私の母は子供とその両親からなる子育てサークルを主宰しています。子供の7割はhandicapがあります。

母の独身時代の職業と子育て経験(一人ですが)それと子供好きという最大の武器を持って毎週土・日公園で遊んだり、音楽を聴いたり、楽器を演奏したり、本を読んだり、絵を描いたり、カレーやおやつをつくったりしています。

一方、親御さんの子育ての悩みを聞いたり、家での訓練や指導の仕方をアドバイスしたりしています。また、反抗期の子供を持つ親の愚痴を聞いたり、相談にのったりもしています。(いまだ反抗期の私は、母にはいい教材ですね)


 私は中学の頃までは彼らと一緒に遊び、それ以降はボランティアの学生に混じってサークルのお手伝いをしていました。

入会の子供たちは何歳までと上限が決められているわけではないので、大きくなった子供たちはサークルを懐かしがって遊びに来てくれたり、大学に進学した子は休暇になると手伝いに来てくれたりする子もいます。

母が、母でもなく妻でもなく社会に貢献する一人の女性として生き生き動き回っている姿を私はとても誇りに思っていました。ある意味、何をしているか私の及ばない範囲で働いている父よりも、母のほうが自慢だったかもしれません。



 私が高校の頃にサークルにKが入ってきました。

彼は脳に小さい腫瘍があり四肢の麻痺から始まって、視野が狭くなり、知的な能力の低下も、後に見られようになるだろうという原因不明で、手術も不可能な難病の子供でした。

Kは私と年が近いこともあって、よく話をしました。きれいな顔立ちをしていて、その頃は特に不自由なところも見られないKが難病だと信じることができないほど、その頃の彼は生き生きしていました。

知的能力も高く、読書好きなKと話すことがとても楽しみでした。

彼は自分が読んだ本を自分の言葉で説明してくれました。

哲学書をその頃よく読んでいたようで、丁寧に説明してくれました。

私の弾くcelloも大好きで、よく聞いてもらったり、balletの新しい振り付けを公園の芝生の上で披露する私をKは、ちょっとはずかしそうに見てくれたりしていました。



 日本へ留学して、Kの病状が少し悪くなっていることは聞いてはいました。

そして、こちらに戻り、Kのこと気にはなっていましたが、忙しさの中でサークルを手伝うことをせず、時が過ぎたある日。

Balletの帰りに公園をのぞいて驚きました。

Kが車椅子に座っています。

近づいていくにしたがって、うつろな様子がよくわかります。

私が見えていない様子でした。

あまりの変りように、唖然としながら、どうしていいか分からず少しずつ後ろから近づく私に、Kは「Pinkだ。Pinkだね?Pinkのにおいがするよ」といいました。

Kは、視野も狭くなり、聴力も衰え、しかしその分嗅覚で判断しているようでした。

動揺を隠せない私でしたが、「そうだよ~~!!Pinkだよ。久しぶりだね。あ、でも顔色よさそうだ。どう調子は?」なんて聞きながら、どきどきしている私を気づかれまいとしていました。
私を見つけた小さい子供たちは、手にぶら下がったり、髪を引っ張ったり背中におぶさったりと思い思いのやり方で、「私のこと覚えている?」といっているようでした。

言葉のある子は、balletをしてみてよといい、言葉のない子でもcelloを弾くまねをして「何か弾いてよ」と要求しているようでした。

そんな中でKだけは、周りで何が起こっているのかよく分からず、風の音を聞いているような、あるいは自分の周りの天使を追いかけているようなぼんやりとした表情をしていました。