フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

芸術と科学、あるいは文と理 L'ART ET LA SCIENCE

2007-06-16 20:31:26 | 科学、宗教+

昨日はP協会関係の方々との会食があった。そこでW氏から面白いことをいくつか紹介していただいた。少なくとも今の私の興味に対象にぴったりとくるものであった。一つは総合人間学なる領域を推し進めようというグループがあるということ。一言で言うのは難しいが、人文・社会科学と自然科学という横断的な領域の科学者の参加を求め、その対話と成果をもとに人間の本性を理解しようとするものらしい。このような動きは以前からあったのではないかと思わせるが、どの程度の成果が上がったのはわからない。この類の研究はハードコアの自然科学の分野から見ると "soft" と判断されかねないため、現実的にキャリアがこの領域では成り立たないのではないだろうか。そのためか、あるいは忙しさのためか、今までは特に目をやることもなかった。しかし、自然科学者の中にはこれらの視点からものを見てみたいという欲求を持っている人はかなり多いのではないかと想像している。先の理由から、実際に参加するのは現役を終えたか、終えかかっている人が中心になるのではないだろうか。このような動きはこれからいろいろなところから出てきてもおかしくないような印象を持っている。その方法論を新しいものにしなければ、単なる寄せ集めになりかねない危険性はありそうだが、、。自分でも少し考えて行きたい領域である。

もう一つは、「芸術と脳科学の対話―バルテュスとゼキによる本質的なものの探求」 という本を紹介された。ゼキという人は初めてだったが、他にも著書があるようだ。実際に実験によって何かを示さなければならないプレッシャーが減少してくると、こういう興味の持ち方に移行していくのだろうか。早速読みたくなっている。

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フィンキールクロート氏による裏切り LA TRAHISON SELON FINKIELKRAUT

2007-06-15 23:27:50 | 哲学

引き続き LE POINT の記事から、哲学者アラン・フィンキールクロート Alain Finkielkraut さんによる裏切りについての考察 「われわれは裏切りの継承者」 "Nous sommes les héritiers de la trahison." を読んでみたい。

柔軟な姿勢を示してきた左派は、右派が同じように振舞うことに耐えられない。右派の責任者が左派の政府に入った時には、彼は誇りに思い、そして大きくなる。しかし、左派の人が右派政権に入るとその邪悪な精神が顔を出す。それは身を売った者、裏切り者、逆臣、ユダである。なぜなら、左派は犯すべからざる聖なるものだからだ。そして、庶民を富裕層、支配層から守り、すべての局面ですべての不公平と戦う。左派のメッセージは、特権階級が聞こうとしない普遍的な公平である。この際、このメロドラマのシナリオと一度決別して、世界のあり方についての理解を改める必要があるだろう。

今回の選挙でロワイヤルに入れた左派の多くは彼女のプログラムや人柄を支持したのではなく、自分自身やそのイデオロギーへの忠誠心から投票したと私は見ている。不思議な逆転現象であるが、哲学が生まれ、その過程で民主主義が生れるためには、先祖の伝統や善についての見方に意義を申し立てる必要があったのだ。われわれは、「それは何?」 という問により、家族の権威や習慣を否定する精神を受け継いでいる。

哲学者のレオ・シュトラウス Leo Strauss (20 septembre 1899 - 18 octobre 1973) が指摘しているように、民主主義社会には善きものと自分自身のものとの間に緊張関係がある。つまり、考えるということは、ある種の裏切りを意味している。判断し、自ら行動するということは、心を傷つける危険を冒すことである。忠誠心に最高の価値を置くことは、この危険を拒否し、日々の要求を犠牲にして心の安寧を得ることである。彼らの選択を尊重するが、それが長期にわたって有効だとは思わない。とにかく、忠誠心は現実の理解にとって障害になるとは限らず、今回の選挙で明らかなように、非常に矛盾に満ちている。

振り返って見ると、フランスはすべて左派の考え方を持っているが、前を見据える時には希望に溢れていた時の見方に身を置くことは最早できなくなっている。伝統は失われ、揺れ動いている。今日、国家は崩壊しうるもので、必ずしも善とは限らないことがわかってきた。文化は消失しうるもので、注意しなければフランス語の美しさも衰えてしまうことをわれわれは知っている。取り返しのつかない喪失があるのだ。

左派の誤りは、忠告があるにもかかわらず、悲劇に対して無理解であり続け、不安に対して真面目に答えようとしなかったことである (「ポストモダンの爆笑で答えた」 とある)。左派に尊敬に値する謝罪の準備ができている兆候は何もない。彼らは裏切り者を告発しているが、彼ら自身がその最優先の義務を怠っているのだ。それは、人生の意味について共同で討議する過程に貢献することである。

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シリュルニク氏による裏切り者 LE TRAITRE SELON CYRULNIK

2007-06-14 23:32:38 | 哲学

昨日の続きで、LE POINT に出ていた精神科医のボリス・シリュルニク Boris Cyrulnik さんのインタビューを以下に。

LP:精神科医にとって裏切りとは?

BC:精神社会学 (psychosociologie) によれば、裏切りはどこかに属しているという感情 (le sentiment d'appartenance) に由来します。子供はその環境、伝統、文化の中で育ちます。そのような背景への信頼を共有することにより、愛着が生れます。この帰属こそ親密な感情を生み、それが非常に効果的な精神安定剤となり、青年になってから探究心を植え付けるのです。

LP:しかし、青年はこの帰属の意識を解き放つものでしょう。それは親への裏切りでは?

BC:もちろん違います。成長するとは、その感情を相対化しなければならないことを自覚することです。半分の人は、問題なくそこに辿り着き、恋に落ち、他の関係を見つけます。他に属するところを見つけるのです。それは裏切りではなく、進化 (évolution) です。母親とは異なる愛し方で妻を愛するのです。

別の愛し方を学ぶためには、親の政治的、宗教的信条を否定することが求められます。それは善き父親に育てられた子供が教会に行くのを拒否するようなことで、それでも親の価値観は尊敬していると言い張ります。しかし、強い信頼感が共有されなくなると両者の関係はうまく行かなくなります。残りの半分はこの過程を歩むのです。

私が共産主義同盟青年団 (Jeunesses communistes) で活動して2年経った16歳の時にルーマニアに行きましたが、そこから困惑して戻ってきました。家にあたたかく招いてくれた私の師や共産主義のインテリ、ユダヤ教徒でない哲学教師に疑問を投げかけました。彼の地の学校教師は、ジュール・ルナール Jules Renard (22 février 1864 - 22 mai 1910) の 「にんじん」 "Poil de carotte" について教える時に、生徒に 「なぜこのような虐待が資本主義社会でしか起こらないのかを説明せよ」 という問題を出さなければならなかったのです。私の驚きは、ユダヤ人のレジスタンスの闘士が疾走したのを私の師は裏切りと見ていたのと同じものでした。今でもはっきり覚えていますが、彼らはこう言ったのです。「そんなことを考えているのなら、お前の居場所はここにない・・・」 と。

LP: 裏切りは全体主義と関係あるということですか。

BC: すべての原理主義は、それが宗教的、政治的、科学的なものであれ、このように作動します。追随主義 (panurisme, suivisme) は完全な服従による感情的、社会的安心を得るものです。そこから外れるものは、どんなに些細なものでも裏切りと見なされます。

LP: しかし、多くの人は原理主義とは関係のない日常で裏切りを感じていますが・・・

BC: そのメカニズムは同じです。私の患者の中に、次のような若いご婦人がいます。夫が飛行機の操縦に熱中していることに、裏切りを感じ我慢できない。自分の嫌いな本を夫が読んでいると、その本を破るところまで行ってしまう。街を歩いていて、連れの男が下着姿のポスターに目をやるのを止めてと言う。これらは全体主義的な愛情 (affectivité totalitaire) です。

LP: 裏切られたという感情と見捨てられたという感情との間に関係はあるでしょうか。

BC: 裏切りを感じるのは傷つきやすさ (vulnérabilité) の証です。充分に強い自分を持っている人は、他人を愛の牢獄のようなところに引き入れる必要を感じません。ユダヤ人虐殺慰霊祭で、親が死んだ上に見捨てられたことを恨んでいる人たちに会ったことがあります。私が彼らの親も生きたかったはずだと言うと、一人の老人が、「そんなことは知ってる。これは論理ではなく、心理的なものだ」 と答えていました。

LP: しかし客観的な裏切りというのはあるのでしょうか。

BC: 真の裏切り者は、何かを奪おうとして愛する振りをする人、ひとの力を利用しようとして誘惑した後、そこから逃げ傷つける人だと思います。真の裏切りと言うには、意図や企みがなければなりません。

LP: 裏切り者は何を感じるのでしょうか。罪悪感 (culpabilité) なのか快感 (jouissance) か。

BC: 罪悪感ということはまずありません。意図を持って行動する真の裏切り者は、むしろ快感を味わうでしょう。

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裏切り、あるいは裏切り者 LA TRAHISON OU LES TRAITRES

2007-06-13 19:38:53 | 哲学

今回のフランス大統領選挙の後、社会党の中枢からサルコジ政権に乗り換えるという現象が見られたことから、最新の LE POINT では 「裏切り者」 Les Traîtres を特集としている。ある現象が起こった時に、その周辺事情を詳しく調べるということは普通に行われるが、フランスの文化に触れるようになってから、そこに存在する根源的な問題についても考えるところがあることを感じてきた。今回の例で言えば、それでは一体 「裏切りとはどういうことなの?」 という問の出し方をする。それは必然的に哲学的な問になるざるを得ない。どうも、そういう問の出し方をわれわれはしないようだ。ひょっとすると、このようなものの見方、考え方の違いに触れているうちに、私の精神は次第に開いていったのではないだろうか、などと考えていた。

この特集の中で、以前に取り上げたことのあるお二人が語っている。一人は精神科医のボリス・シリュルニク Boris Cyrulnik さん。もう一人はアラン・フィンキールクロート Alain Finkielkraut さん。明日から彼らの声に耳を傾けてみたい。

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若い世代と AVEC LA JEUNE GENERATION

2007-06-12 20:02:31 | Weblog

以前に短期間だがトルコ語を教えていただいたことのある先生と先日お会いしたが、再び会食する機会に恵まれた。彼女の友人とともに過ごした時間の中で、以前はとっつきにくかったようだが、最近私の印象が変わってきているらしいことが伝わってきた。それはこれから世界が広がっていく可能性を意味しているようにも感じ、起こりつつある変化を喜んで受け入れてはどうだろうか、と自らに促す一夜となった。

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雨音を聴きながら EN ECOUTANT LA PLUIE

2007-06-10 12:28:12 | 俳句、詩

週末の朝 窓を開け放ち 雨音を聞きながら 静かに時の流れをながめる

これにしく 悦びなし

道ゆくこどもが 落雷にあわせて 声をあげる


----------------------------
(11 juin 2007)
  Chris 様から句が届く

   En écoutant la pluie
    Un souvenir de Verlaine
     Paris en été


 (12 juin 2007)
  Chris 様に答えて詠める

    des enfants marchent
     en criant avec le tonnerre
      sous la pluie d'été

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モーツアルトのバイオリン協奏曲 A-S MUTTER JOUE LE MOZART

2007-06-10 01:32:51 | MUSIQUE、JAZZ

2年前のDALF-C1の試験の後、疲れ切ったこの頭を癒してくれたのがモーツアルトのバイオリン協奏曲であった。それ以来、しばしばすべてをまとめて聴くということが多く、最近もその例外ではない。昨夜から今日にかけて、衛星放送でアンネ・ゾフィー・ムター (Anne-Sophie Mutter) がその全曲を指揮をしながら演奏しているのを偶然にも聴くことができた。

デビューした当時からカラヤンのお気に入りだったと記憶しているが、今では立派な演奏家になっている。今回の映像にはカラヤン張りの演出も感じられる。今調べて見ると、もうすぐ44歳。2度目の結婚を2002年にアンドレ・プレビン (André Previn) としていたとは知らなかった。昨年、離婚している。インタビュー映像も出ていたが、話し振りは切れがよく、聞いていて気持ちがよい。少し大きなところから音楽を見てみたくなったのだろうか、最近指揮の勉強も始めたようで、音楽に対する理解が益々深まってきたと言っている。

モーツアルトの音楽は 「雲間から差し込む陽の光」 のようで、時を刻むほどにその味わいが増してくるという。それから面白いことを言っていた。モーツアルトの音楽は俳句のようなものだという。文体が簡潔で行間を読むのに多くの才能を要する。また彼の音楽は静寂に始まり静寂に終る特徴があるとのこと。「美」 と 「静寂」 がキーワード。

存分に楽しませていただいた。

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権力なき秩序 L'ORDRE SANS LE POUVOIR

2007-06-09 13:53:13 | 哲学

一月ほど前に知った Pierre Proudhon (15 janvier 1809 - 19 janvier 1865) の以下の言葉が、今も鳴り響いている。

  « L'anarchie, c'est l'ordre sans le pouvoir. »

これまでの仕事の中で私が無意識のうちに取っていた方針のようなもの、あるいは一つの理想と見ていたのが、この « L'ordre sans le pouvoir » で言い表されていると感じたからだろうか。私の考え方の中に anarchisite の要素があるのだろうか。個人の自由を大切なものと考えている点では確かに共通するところはあるだろう。先日読んだ浅羽通明著アナーキズム ― 名著でたどる日本思想入門」 の中に、次のようなことが書かれてあった。

アナーキズムが至上の価値をおく 「自由な個人」 について、マックス・シュティルナー Max Stirner (Bayreuth, 25 octobre 1806 - Berlin, 26 juin 1856) が哲学的考察を加えている。彼はそれを、「移ろいゆく自我」「自我を解体する自我」「思考と行為の全体性が絶えざる若返りを続ける人間」 と捉えていたという。それは、サルトルの 「脱自」 (どこまでもたゆまず自己を刷新してゆくダイナミックな自我) と表現していたものに近い。また、ベルグソンの自我観もシュティルナーと近いという。以前にその言葉に反応したことのある埴谷雄高は、万人が芸術家であるような世の中をアナーキズムの理想と重ねていたようだ。


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(10 juin 2007)
Wiki にある Max Stirner の引用の中に、次の文を見つける。

"Pour Moi il n'y a rien au dessus de Moi"
(私の場合、私の上には何もない)

これを読んだ時、友人との食事のシーンを思い出していた。
2006-03-05 運命論者にして反逆者 FATALISTE ET ANARCHISTE

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翻訳を続けると LES EFFETS DE LA TRADUCTION

2007-06-08 21:58:07 | フランス語学習

昨日、翻訳をしながら気付いたことがある。それは、私のやり方が原文の真意を汲み取ってそれを正確に伝えるべく言葉を探すというよりは、むしろ原文で触れられていることと似たような部分を自分の中に求め、それを活性化しながらあたかも自分の考えのように訳し出しているのではないかということである。そのため、訳し出された日本語がそのまま自分の言葉になって定着しているのである。この2年ほどこの作業を続けてきたわけだが、その過程でいろいろな人の頭の中で起こっていることを日本語に置き換えている間に、置き換えた分だけの考えが自分の中に植え付けられていたのではないか、楽観的に言えばそれだけ豊かになってきたのではないか、そんな想いが巡っていた。事実、訳し出したものを口にしているうちに文字通り興奮してくるものもあった。誤りを犯しながらもこれまで続けてきたのは、このような効果を無意識のうちに感じ取っていたためなのだろうか。

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マルセル・ゴーシェ MARCEL GAUCHET

2007-06-07 19:12:30 | 哲学

久しぶりに Le Point に目を通す。マルセル・ゴーシェというフランスの歴史家にして哲学者のインタビューが出ていた。彼は現在、フランス国立高等社会科学研究院 École des hautes études en sciences sociales (EHESS) の研究部長、ならびに雑誌 Le Débat の主筆をしている。

Marcel Gauchet (1946- ) 

彼の発言から、いくつか。

Dès lors qu'il (= Parti Socialiste) est fondamentalement le parti du statu quo, il n'est pas compétitif pour l'élection présidentielle qui se joue toujours sur un projet de transformation.

社会党が基本的に現状維持の政党になった時から、常に変革の将来像が問題になる大統領選挙では競争力を失っています。

Le clivage droite-gauche est très affaibli en termes de forces politiques, mais il demeure un repère dans la tête des gens. Ce qui a changé, c'est que la France s'est convertie au pluralisme : la guerre civile froide est terminée. ・・・ On peut très bien être de gauche en raison de l'orientation générale que l'on pense souhaitable pour la société et voter à droite. Les identités politiques n'ont pas disparu, mais on en fait un usage beaucoup plus libre. Sarkozy l'a parfaitement compris.

左右の対立が政治に及ぼす力は非常に弱くなっていますが、皆さんの頭にはそれが一つの基準としてあります。変わったのは、冷戦が終わりフランスが多元主義に変容したことです。望ましい社会の在り方という一般的な方向性では左であるのに右に投票することが起こりえます。政治的アイデンティティは失われていませんが、それをずっと自由に行使するようになっています。サルコジはこのことを完全に理解していました。


Le Point: Finalement, les Français valent-ils mieux que leurs élites ?

Marcel Gauchet: C'est ma conviction depuis longtemps. Pascal a tout dit sur la question : les demi-habiles qui se croient malins se prennent les pieds dans leurs subtilités tandis que le peuple, qui ne sait pas tout, ne se trompe pas sur l'essentiel. La politique est restée pascalienne et c'est assez rassurant.

LP:最後に、一般のフランス人はエリートよりも(物事の判断を上手にするでしょうか)。→ 価値があるでしょうか。

MG:それは私の長い間の信念です。この問題についてパスカルがすべてを語っています。「自らを悧巧だと信じている半賢人は細部に足を突っ込むが、すべてを知らない人民は本質的なことについて間違えることはない」。政治はパスカル的であり続けており、充分に安心できるものです。

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こちらのブログで彼の講演を聞くことができます。
 LE BLOG MARCEL GAUCHET


(8 juin 2007)
本日、Jeanne 様からこの記事の日本語訳に誤りがあるとのご指摘いただく。今回も以前の誤訳と同じように勝手に思い込んで訳したためのものであった。それは以下の文章で、valent-ils の動詞を英語のバリュー (→ evaluate) を連想したのか、「判断する」 と訳していた。辞書を見ればすぐに気付く誤りで、この癖はなかなか直らないようだ。

Le Point: Finalement, les Français valent-ils mieux que leurs élites ?

上に訂正を加えておきました。Jeanne 様のコメントに感謝いたします。これからも皆様の忌憚のないご指摘をいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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あるシンポジウム会場にて DANS UNE SALLE DE CONFERENCES

2007-06-06 20:27:52 | 科学、宗教+

昨日、パスツール研究所創立120周年記念シンポジウムに出かける。そこに私を変える何かがあるのではないかという期待感を持ちながら。その会場で頭の中を巡っていたことをランダムに。

基調講演の養老氏の話によると、パスツールは生涯に7つの大きな仕事をしたが、その全ては人から頼まれたもの (外からきたテーマ) であったという。人から頼まれるテーマというのは、多くの人が興味を持ち、社会的にも重要で、実現すれば役に立つものになる。私の場合は、自分の興味本位に当て所もなくこれまでやってきた。人から言われるテーマには抵抗があったので、こういうやり方もあったのかという思いで聞いていた。パスツールの場合、はっきりとした成果が自分の中で予想されない仕事には手を出さなかったのではないかという指摘をシンポジストの鳥居氏 (味の素) がしていた。さらに、パスツールは当時から神経伝達には興味を持っていた形跡があるが、手を出さなかったのはテクノロジーが追いついていなかったからで、もし今日生きているとすれば迷わずに神経科学の分野に入っていっただろうという推測をしていた。

養老氏は大学で教えていた時代のことを 「私の前世」 と言っている。そう言いながら、非常に生き生きとしていた。その気持ちがわかりつつある。

西と東を比ぶれば、日本は概念の世界、統合の世界が弱いようだ。従って、唯一神に辿り着かないのではないか、とは養老氏の指摘。

以前に寺山修司を読んでいる時、養老氏のことを思い出したことがある。割り切りのよい養老氏の語りは、寺山の言葉とどこかで通じているように今回も感じた。寺山の語りの印象が全くないので、気付いたのかもしれない。

パネル・ディスカッションを聞きながら感じていたこと。それは個から出てくる思想が非常に少ないこと。この社会の、世間の網の上に最初から載って始めたお話のように感じる。何かを代弁しているとさえ聞こえるものもある。そのためか、唯一無二の今この時を生きていると思わせる人は少なかった。それは、どこかに寄りかかっているために、その人のものと思わせるようなものが出てこないのだろうか。いわゆる仕事をしながらの思索の限界なのだろうか、、、。科学にどっぷりと浸かっていた時とは見方が少し変わってきている。成果だけではなく、人間にも目が行くようになっているということだろう。

話を聞きながら、これからに向けてのヒントがいくつか飛び込んできた。この会場に来る前とは明らかに違っていた。

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芝居翻訳者の楽しみ LES JOIES POUR LE TRADUCTEUR DE LA PIECE

2007-06-05 20:50:59 | Weblog

昨日話題にしたシンポジウムに出かける。その車内で 「翻訳家の仕事」 (岩波新書) を読みながら。この本を読んでいると、人生の転機、あるいはなぜ今があるのか、今に至る切っ掛けになった出来事を皆さんが探していることに気付く。翻訳に関するところは余り目に入らず、人生の綾を見るような楽しさの方を感じていた。その背景には、ここに書かれているような出来事が最近自分にも起こっているのではないかという想いがあったためかもしれない。

その中にあった小田島雄志氏のエッセイを読んでいる時、数日前に触れたDVD翻訳のことを思い出していた。その日、自分の日本語を吉行和子さんが一生懸命に読んでくれているのを聞きながら、最後まで感じていたのは気恥ずかしさではないかと思っていた。それもあるだろうが、私の中に生れていたのはむしろ 「ぞくぞく感」 と言った方がより正確なのではないか。小田島氏の次の一節に行き当たった時、そういう思いに至ったのである。

「芝居翻訳者の楽しみは、特にぼくのように劇作家になりそこねたものの場合、劇作家の喜びを疑似体験できる、ということに尽きる。つまり、自分が訳したセリフを、俳優たちの肉声を通して聞くとき、そのことばがむくむくと立ち上がっていのちをもつことを実感できる喜びである」

劇作家の楽しみなど考えたこともなかったが、ほんの少しだが体験できたように感じていた。むしろそのことにゾクゾク来ていたのかもしれない。

(version française)

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フランス大使館にて AU AMBASSADE DE FRANCE

2007-06-04 22:59:22 | Weblog

パスツール研究所創立120周年記念シンポジウム 「ルイ・パスツール:人類への貢献」 が明日日経ホールで開催される。このシンポジウムに出席のため来日された研究所の理事長を囲む会が、この4月からパスツール協会の名誉総裁になられた常陸宮正仁親王殿下ご夫妻の臨席のもと、フランス大使館で催された。幸いなことに、協会の方の勧めで常陸宮殿下ご夫妻にご挨拶をする機会を得た。その時、20年前の出来事を思い出していた。当時私はニューヨークの研究所で仕事をしていたが、ご夫妻が研究所を訪問された際に日本人研究者が一堂に会したことがある。その時にやはり親しく言葉を交える幸運に浴したのである。20年を経てこのようなことが再び起こるとは、やはり人生は面白い。この他、大使館のお二人と話す機会があり、私にとって非常に貴重で心強いお話を伺うことができた。全く予想もしなかった出会いに溢れた一夜になった。

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逃げる心を抑えて NE PAS S'ENFUIR

2007-06-03 00:06:21 | Weblog

昨日の夜、久しぶりにやや太めになったビリー・ジョエルを聞く。彼は、今や私のニューヨーク時代の、さらに言えば私の中のアメリカ文化の象徴になっている。私の一部を紐解くようにして彼を聞きながら、私のどこかにこの願望があることに気付く。一言で言ってしまえば、それは 「逃げる」 ということになる。どこに逃げているのかはわからない、とにかく 「ここではないどこか」、「それではない何か」 なのだ。それがいつかなのか、それが何なのかはわからない。しかし、いつか求めるところ、求めるものが現れるという心なのだ。深く考えたわけではないが、走る中いつからか私の行動様式に組み込まれていたようだ。それは、この現在にNOなのである。より正確には、いつも求める場所への通過点なのだ。しかし、我慢して現在に身を委ねているわけではない。むしろ、通過点であるがゆえに現在から最大のものを引き出そうとしているかのようだ。まさに、Carpe Diem である。私を快楽主義者という人がいてもおかしくない。しかし、そろそろ逃げるという心を抑えた時に見えてくる現在を眺めてみてもよいのではないだろうか。ビリー・ジョエルの歌を聞きながら、そんな想いが湧いていた。

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現代からパスツールを見る PASTEUR - REGARDS D'AUJOURD'HUI

2007-06-02 09:56:58 | Weblog

先頃、パスツール研究所の広報DVDの監修を行ったが、その完成版が届けられた。この作業は締め切りぎりぎりに仕上がったもので、なかなか大変であった。それだけに出来上がりが心配であった。早速に見てみる。私の日本語を吉行和子さんが一生懸命に読んでくれている。それを聞きながら、気恥ずかしさが最後まで消えなかった。他の人に理解されるのだろうか。誤訳はないのだろうか。日本語としておかしなところはないのだろうか、などの不安も過ぎる。ただ、少し時間が経ってくると、作業に取り掛かっていた時の感覚が甦り、ほんの微かな満足感を感じることができた。この仕事に関わった方々には敬意を表したい。

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