
昨年末の Le Figaro 文芸欄で、ある精神科医の新刊が紹介されていた。
Boris Cyrulnik "De chair et d'âme" (「肉体と精神について」)
この本の著者は人間の持つ柔軟性 résilience についての専門家で、これまで精神分析で現象として捉えられていたものを最近の神経科学の進歩が証明する様子を書いているという。
著者のボリス・シリュルニクは、1937年にボルドーでロシアの移民の子として生まれた。その両親はアウシュビッツで亡くなっている。彼自身も捕らえられたが脱走に成功。その後農村で働き、水泳・ライフセーバーの教師をしながら学業を続ける。12歳の時に書いた作文では、すでに精神科医になりたいと書いている。パリのリセで見たアンリ・ファーブルの映画に感動し、動物行動学 (éthologie = science de l'observation des animaux dans leur milieu naturel) に夢中になる。それから精神医学と神経学を修める。
この書評に彼が引用しているという箴言が出ていた。
"Pour trouver le bonheur, il faut risquer le malheur. Si vous voulez être heureux, il ne faut pas chercher à fuir le malheur à tout prix. Il faut plutôt chercher comment -- et grâce à qui -- l'on pourra le surmonter."
「幸せを見つけようと思ったら、不幸になる危険を冒さなければならない。もし幸せになろうとするなら、どんなことがあっても不幸を避けようとしてはならない。むしろどのようにして、そして誰のお世話になってその不幸を乗り越えることができるのかを探らなければならない。」
若き日に大きな不幸に出会った人ならではのお言葉で、新年早々勇気付けられる。
入院している、ほぼ寝たきりの老人たちの幸せって?、ダルフールの子供たちを世話している親の幸せは。渋谷のムチムチ肥えた浮浪者の幸せは。
簡単に言ってしまえば、飯が食えて、健康であれば幸せなんだが、そうも簡単にはいかないし。
幸せと言った場合、喜びや快楽とは必ずしも一致しないように感じます。喜びや快楽は持続しないように感じますし、喜びや快楽がなくても、あるいは苦痛があっても幸福な状態はあり得るのではないかと想像できるからです。苦痛などは程度問題だとは思いますが、、。幸せな感じは、一見静止状態のようなところで起こる静かな活動ではないかと思えます。個人的には、できるだけ囚われのない状態で自らの中から出てくる声とともにいる時が精神的には安定していて、幸福と言ってもよい状態ではないかと考えるようになっています。
最大多数の最大幸福という考え方もあります。この世で一人だけが幸福感を味わうことができるのか、という問題も出てきます。これまでのところでは、それは難しいのではないかと思っていますので、外に向け考え、何かをすることが求められるのではないかと思います。いずれにしてもこの問題はこれからも考えていかなければならないと思っています。重要な問題をご指摘いただき、ありがとうございました。