昨日、翻訳をしながら気付いたことがある。それは、私のやり方が原文の真意を汲み取ってそれを正確に伝えるべく言葉を探すというよりは、むしろ原文で触れられていることと似たような部分を自分の中に求め、それを活性化しながらあたかも自分の考えのように訳し出しているのではないかということである。そのため、訳し出された日本語がそのまま自分の言葉になって定着しているのである。この2年ほどこの作業を続けてきたわけだが、その過程でいろいろな人の頭の中で起こっていることを日本語に置き換えている間に、置き換えた分だけの考えが自分の中に植え付けられていたのではないか、楽観的に言えばそれだけ豊かになってきたのではないか、そんな想いが巡っていた。事実、訳し出したものを口にしているうちに文字通り興奮してくるものもあった。誤りを犯しながらもこれまで続けてきたのは、このような効果を無意識のうちに感じ取っていたためなのだろうか。
昨日、翻訳をしながら気付いたことがある。それは、私のやり方が原文の真意を汲み取ってそれを正確に伝えるべく言葉を探すというよりは、むしろ原文で触れられていることと似たような部分を自分の中に求め、それを活性化しながらあたかも自分の考えのように訳し出しているのではないかということである。そのため、訳し出された日本語がそのまま自分の言葉になって定着しているのである。この2年ほどこの作業を続けてきたわけだが、その過程でいろいろな人の頭の中で起こっていることを日本語に置き換えている間に、置き換えた分だけの考えが自分の中に植え付けられていたのではないか、楽観的に言えばそれだけ豊かになってきたのではないか、そんな想いが巡っていた。事実、訳し出したものを口にしているうちに文字通り興奮してくるものもあった。誤りを犯しながらもこれまで続けてきたのは、このような効果を無意識のうちに感じ取っていたためなのだろうか。