昨日の夜、久しぶりにやや太めになったビリー・ジョエルを聞く。彼は、今や私のニューヨーク時代の、さらに言えば私の中のアメリカ文化の象徴になっている。私の一部を紐解くようにして彼を聞きながら、私のどこかにこの願望があることに気付く。一言で言ってしまえば、それは 「逃げる」 ということになる。どこに逃げているのかはわからない、とにかく 「ここではないどこか」、「それではない何か」 なのだ。それがいつかなのか、それが何なのかはわからない。しかし、いつか求めるところ、求めるものが現れるという心なのだ。深く考えたわけではないが、走る中いつからか私の行動様式に組み込まれていたようだ。それは、この現在にNOなのである。より正確には、いつも求める場所への通過点なのだ。しかし、我慢して現在に身を委ねているわけではない。むしろ、通過点であるがゆえに現在から最大のものを引き出そうとしているかのようだ。まさに、Carpe Diem である。私を快楽主義者という人がいてもおかしくない。しかし、そろそろ逃げるという心を抑えた時に見えてくる現在を眺めてみてもよいのではないだろうか。ビリー・ジョエルの歌を聞きながら、そんな想いが湧いていた。
昨日の夜、久しぶりにやや太めになったビリー・ジョエルを聞く。彼は、今や私のニューヨーク時代の、さらに言えば私の中のアメリカ文化の象徴になっている。私の一部を紐解くようにして彼を聞きながら、私のどこかにこの願望があることに気付く。一言で言ってしまえば、それは 「逃げる」 ということになる。どこに逃げているのかはわからない、とにかく 「ここではないどこか」、「それではない何か」 なのだ。それがいつかなのか、それが何なのかはわからない。しかし、いつか求めるところ、求めるものが現れるという心なのだ。深く考えたわけではないが、走る中いつからか私の行動様式に組み込まれていたようだ。それは、この現在にNOなのである。より正確には、いつも求める場所への通過点なのだ。しかし、我慢して現在に身を委ねているわけではない。むしろ、通過点であるがゆえに現在から最大のものを引き出そうとしているかのようだ。まさに、Carpe Diem である。私を快楽主義者という人がいてもおかしくない。しかし、そろそろ逃げるという心を抑えた時に見えてくる現在を眺めてみてもよいのではないだろうか。ビリー・ジョエルの歌を聞きながら、そんな想いが湧いていた。