二日前のフィンキールクラウトさんの発言の中に、次のような印象に残る言葉があった。
"Penser, c'est en quelque sorte trahir; juger, agir par soi-même, c'est prendre le risque de se briser le cœur. Eriger la fidélité en valeur suprême, c'est refuser ce risque, c'est sacrifier les exigences du jour au bien-être du cœur."
「判断することはある意味で裏切りであり、自ら行動するということは心を傷つける危険を冒すことである。忠誠心に最高の価値を置くことは、この危険を拒否し、日々の要求を犠牲にして心の安寧を得ることである」
これは社会党の掲げる理想への忠誠心に限らず、すべての領域に当てはまるよう感じる。理想主義者は日々の現実に即して考え、それに対応する術を考えることなく、手に入ることのない理想を思い描き、それで心の安寧を得ている存在なのではないのか。それは、ある意味では怠惰な心の状態なのではないか。自らをユートピアを夢見る存在と定義する時、その本態を垣間見たような気がしていた。果たしてそれを改めることは可能なのだろうか。その必要はあるのだろうか。新たな問が現れている。