フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ
J'OBSERVE DONC JE SUIS
フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE
パスカルによる 「私」 の定義 QU'EST-CE QUE LE MOI ?

このブログの姉妹版に 「フランス哲学メモ」 MÉMENTO PHILOSOPHIQUE というのがある。最近、パスカルによる 「私」 についての断章を読み、そこに記事を書いた。今日はその記事をそのまま転載したい。
(注:ブログ「フランス哲学メモ」の記事は「今なぜ『科学精神』」なのか?」の中に移されました。パスカルに関する記事は、カテゴリ「Pascal」にあります。2008年8月)
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Qu'est-ce que le moi ? 「私とは?」
Un homme qui se met à la fenêtre pour voir les passants, si je passe par là, puis-je dire qu'il s'est mis là pour me voir ? Non, car il ne pense pas à moi en particulier. Mais celui qui aime quelqu'un à cause de sa beauté, l'aime-t-il ? Non, car la petite vérole, qui tuera la beauté sans tuer la personne, fera qu'il ne l'aimera plus.
外を行く通行人を見るために窓に身を置く人がいる。もし私がそこを通ったとしよう。彼は私を見るためにそこにいると言えるだろうか。答えは否である。彼は私を特に見ようとは考えていないからだ。しかし、美しさゆえに誰かを愛しているとする。それはその人を愛しているだろうか。答えは否。なぜなら、その人を殺すことのない天然痘によりその美しさがなくなると最早愛さなくなるからだ。
Et si on m'aime pour mon jugement, pour ma mémoire, m'aime-t-on moi ? Non, car je puis perdre ces qualités sans me perdre moi-même. Où est donc ce moi, s'il n'est ni dans le corps, ni dans l'âme ? Et comment aimer le corps ou l'âme, sinon pour ces qualités, qui ne sont point ce qui fait le moi, puisqu'elles sont périssables ? Car aimerait-on la substance de l'âme d'une personne abstraitement, et quelques qualités qui y fussent ? Cela ne se peut, et serait injuste. On n'aime donc jamais personne, mais seulement des qualités.
そして、もし私が私の判断力や記憶力のために愛されているとする、その場合私は愛されているのだろうか。そうではない。なぜなら、私を失うことなくこれらの特質をなくすことがあるからだ。私が体でもなく精神にもないとすれば、一体どこに私があるのか。そして滅びうるゆえに私を構成し得ないこれらの特質がないとすると、どのように体や精神を愛することができるのだろうか。なぜなら、その精神を構成するいくつかの特質がどんなものであれ、ある人の精神の実質を抽象的に愛することになるだろうから。それはありえないし、正しくもないだろう。したがって、人は決しては私の実質そのものを愛することはなく、その特質だけを愛するのである。
Qu'on ne se moque donc plus de ceux qui se font honorer pour des charges ou des offices, car on n'aime personne que pour des qualités empruntées.
職責や公職のために尊敬されている人をもう揶揄すべきではない。なぜなら、人は借り物の特質によってしか愛さないのだから。
(拙訳)
Pensées (1670)
fragment 323 dans l'édition L. Brunschvicg
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読んでいると、「私」 がどこにあるのか、わからなくなる。人が人を見るとき、まずその人の外側 (パスカルも指摘しているが、例えば職など社会的地位)に影響を受ける。それを知ろうとする。この傾向は特に日本で強いように感じる。街に出て知らない方とお話をする場合、まず何をされているのですか、と聞かれる。その情報なしには不安で話ができないというところがあるのだろうか。余談だが、そういう時に 「私の仕事は生きることです」と答えることがある。もちろん、ほとんどの場合相手にされないが、それが本心であり、私の理想である。
本題に戻る。人はその特質ゆえに愛することになるという。その特質がなくなったときには私はどこにあるのだろうか。特質とともに私は消え去るのだろうか。魂のなくなった肉体を愛することができるだろうか。あるいは、以前とは見まがうような醜い体に宿る魂を愛することができるのだろうか。このような状況は、今や日常的になりつつある。記憶力を失い、意志の疎通もできなくなった私を人は愛するのだろうか。事故に会い、全く機能しなくなった体を持った私は愛されるのだろうか。
それは、どこにその人の最終的な存在意義を見ているのかによって変わってくるような気がする。さらに言えば、最後まで残るその人の借り物ではない特質をどこに見ているのか、その特質をどれだけ意識的に形にして捉えているのか、そこにかかっているような気がする。それがはっきりとしたものとして捉えられていれば、その人が滅びた後も、その特質は記憶、記録に残すことができるだろう。そしてその特質に触れることにより愛することも可能ではないのか。「私」の底を貫くような、通奏低音のように鳴り響いている特質だけではなく、ある時期に現れた特質をも含めて 「私」 と定義できないだろうか。
もしそうだとすれば、精神といえども眼に見える形にしておかなければ、そう努めなければ 「私」 は存在しなくなるだろうし、ましてや愛されることなど望めないだろう。しかし、たとえ記録に残しておいた 「私」 だとしても、その存在が保証されているわけではない。古代アレキサンドリアの図書館にあった膨大な記録は影も形もなくなっている。このネット上の記録にしたところで、単純なミスによって一瞬に消え去るかもしれない。そう考えると、「私」 が確実に存在しているのは、私に触れたことのある人が 「私」 と言えるかどうかわからない借り物の特質も含めて記憶している間だけのことになるのだろうか。
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26 mai 2007 人間にとって記憶とは À QUOI SERT LA MÉMOIRE ?
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