フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

老子を読み、翻訳を考える QUELLE EST LA MEILLEURE TRADUCTION?

2007-02-10 00:33:57 | 哲学

最近、「老子」 を読み始めている。本屋で目に入った以下の3冊とマルセル・コンシュさんの本を参考にしながら。最初は加島氏の訳、それから小川氏と王氏のものを読むことになった。

老子」 小川環樹訳 (中公クラシックス)
タオ ― 老子」 加島祥造訳
老子 (全) ― 自在に生きる81章」 王明訳
Lao Tseu "TAO TE KING" Marcel Conche訳・註

その中で気付いたことがある。老子の何たるかも知らない状態から始めているので、最初に触れた加島氏の訳が親切でよいと思っていた。それからしばらくして小川氏の本を読んでみた。この本は、原典に忠実に、意味を膨らまさずに訳している。この本は研究書の香りもあり、言葉の意味について詳しい解説がされていて、自分で意味を探ろうとする時に役に立つ。

古典を読む時、あるいは外国のものを読む時、訳者の主観で丁寧に訳すというよりは、少々ぶっきらぼうなくらいに原文に即して日本語にする方が、読む方にとってありがたいということに今回思い当たる。余りに丁寧に分かりやすく訳されてしまうと、読者の側の想像力を働かせる余地がなくなっていることに気付いたのだ。その視点から老子に限って言うと、小川氏の訳が圧倒的によい。マルセル・コンシュさんの訳も簡潔で、その意味するところを考えさせる。「思いを巡ら」 さざるを得なくなる。しかもコンシュさんの解説は、古代ギリシャの哲学にまで遡る西洋の文化を背景にして書かれているので、東と西を考える上で興味津々な内容になっている。

時間に追われている現代人には読みやすいものが好まれるのだろうが、実は読者が自らの想像力を刺激するという一番の楽しみを奪われていることになっている。よく直訳のような日本語だと言って非難されるものもあるようだが、それがどのような意味なのかを考え直したり、原文はどうなっているのかと想像したりするという楽しみもあるような気がしてきた。こんなことに気付くということは、精神的な、時間的な余裕が出てきたということなのだろうか。

コメント (6)
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