フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ
J'OBSERVE DONC JE SUIS
フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE
ブログ2年を経過して REFLEXIONS APRES 2 ANS

2005年2月16日からこのブログを始めているので、早2年が経過したことになる。私の独り言に多くの方が耳を傾けて下さったことにまず感謝したい。最初は頭の隅の方にあったものを穿り返すことから始めたが、その作業を続けているうちに paul-ailleurs 的なるものが自ら成長を始め、私の中で非常に大きな存在になりつつある。彼とともに歩みたいとさえ思うくらいに。
以前に、「生きることが私の仕事」 と書いたことがある。自らの根幹に触れるところで生きることができれば最高である、あるいは自らの求めるところにしたがって生きるために仕事をすると意識できれば素晴らしいという意味である。ニューヨークにいた当時、町に出てお店で働いている人とよく話をしたが、彼らは自分のやりたいこと (例えば、ブロードウェーに出る、作家や音楽家になる) をするための手段として仕事をしていた。もちろん、日本でも同じような理由で仕事をしている人に会う。以前は余り望ましくない生活スタイルに見えていたが、最近これは理想の仕事の仕方に近いのではないかとも思えるようになっている。
われわれはいつしか仕事を目的と捉えるようになってしまった。私もそうやってこれまで来たのかもしれない。ただ心の底には、これは社会の中でひとつの役割を演じているにしか過ぎないという思いがあることを、社会に出る前の学生時代から意識していた。今振り返ると、社会での仕事は自らの求めるところがどこにあるのかを探るひとつの試みだったのかもしれないとさえ思える。
ところで、これまでやってきた仕事を永遠に続けることができればどれだけ幸せだろうかとつい最近まで考えていた。つまり定年について否定的に考えていた。ただその時期が近づいてくると、それは必ずしも悪いことではないのかもしれないという思いが芽生えている。自らの求めるものに気付き、それが社会の制約の中で抑圧されていたとすれば、定年は何ものにも囚われず自らの歩みを始められることを意味しているからだ。
ブログの2年を経過したこの日は、仕事とは何か、なぜ仕事をするのか、生きることとどういう関連があるのか、最高の仕事とは何なのか、など仕事を巡る瞑想の機会を与えてくれた。これまでこのブログをやめて現実にどっぷり浸かってみようかと考えたこともあった。しかし、結局今まで続いている。私の中に、ここでの観察を 「生きる」 と同義に捉えようとする動きが出始めているのを感じる。それが 「仕事」 になりつつあるということだろうか。
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今日のお話、どこかで先日の 「全的に考える」 にもつながっているようだ。
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生きることと仕事をすること。重なり合っていて、微妙にずれている。人は、現実を超えようとする、あるいは逸脱しようとする生き物なのでしょうか。そこに希望も絶望もあるような気がします。
ご指摘の問題、おそらくすべての目覚めた人が抱えているような気がします。私の場合も「精神の自由」を第一に考えて「仕事」を選んできました。その中では、『仕事をすることが生きること』だったと言えますが、今振り返ってみると仕事に打ち込んでいることは実は「生きること」とは対極にあったような気がしています。それは、最近読んだソクラテスとアルキビアデスの対話がその本質を語っているように感じたこととつながっています。もし人間が自らを知ること、賢くなることを人生の目的とした場合、どんな仕事もそれをもたらさないというものですが、その意味がよくわかるようになっています。私の場合は、仕事はある意味においてパスカルの言うところの「気晴らし」の役割を果たしていたのかもしれません。生きることと仕事をすることが常に重なっていることが望ましいのでしょうが、現実的には難しいようです。ただ、『生きることを仕事』にできる人生の時期があり、それがこれからではないかというのが、現在の心境です。
重い思索の過程を送っていただきありがとうございました。
自らの求めるところが満たされるように仕事を選び、その環境を楽しむように、その中に完全に浸ってこれまで来たように思います。ある意味で、仕事が生きる目的になっていたと言えるかもしれません。ただ私の場合は本文にも書いていますが、そこに完全に溺れるということはなかったと思います。ある役割として仕事をしているという醒めたところがありましたので、役割を自分と同一視しているな、と見えるような場合にはいつも違和感を覚えてきました。
最近、仕事を遠くから眺めることができるようになってきていますが、そうすると私の仕事は科学ですが、そこで得たものが私が生きる上でどれだけのものをもたらしてくれたのかという疑問が生まれています。ご指摘のように、生活の手段だったと極言できないこともないなという思いで、この世には生きる上での重要な、われわれを動かしうるものが無数にあることが意識できるようになるという意味です。そしてそういうものの中で自らを深めながら生きることこそ生きることではないのかとなどと考え始めています。そのためにはある小さな領域しか扱わない仕事が邪魔になることの方が多いのではないかと思います。仕事をやめて自分の思いのままに時間を使うのが理想で、それが可能なのが定年後なのかもしれない、ということで定年についてもこの記事で触れてみました。
私の言う「仕事を目的と捉える」の意味が少しははっきりしましたでしょうか。
私も介護でやめようか、とおもつたフランス語にまた意欲がでてきたのもこのブログのおかげです。このブログがずつとつずいてゆきますよう、いのつております。
2周年おめでとうございます。
きのう18歳下のフリーライターに久しぶりに会いました。37歳の時上司と上手くいかず尻をまくって組織を飛び出した男です。関西でフリーで食べていくことは、マーケットが狭いだけに、まず無理だと言われています。彼も新聞終面のテレビラジオ番組の校正などをしながら、映画や演劇やレビューをきっちりと観て、きっちりと書く仕事を17年間続けて来ました。
提灯持ちの評論はすぐに底が割れるし、ボツになっても月末になれば給料が入っていた組織に帰ることも出来ません。
一発勝負を支えてきたものにリサーチを含む不断の努力があったことは確かです。しかし「偉かったね」と言うわたしに、彼は「好きやからねえ」と爽やかに締めました。2人とも組織に所属していた頃は、せっかくカフェでおいしいお茶を飲みながら、互いの組織のトップや同僚らの悪口を言い合ってたのですから、責任は自分、真の評価も自分の世界に入って、彼は「仕事は自由の中にこそある。その自由は限りなく厳しく、慰めもある」を実感していると思われます。
わたしもささやかなもんですが、ギャラのない原稿ほど気合の入ることを感じます。書きたいことを、好きなように、批判を恐れず書く!!こうなると仕事が遊びなのか、遊びが仕事なのか、どちらが自己実現か判然としなくなります。
ポールさんの精神の自由がそっと顔を出すような毎日のブログをお待ちします。
おはようございます。随分ご無沙汰しております。
ブログ開設2周年、おめでとうございます。お恥ずかしながら、僕はこの年になっても未だ、自分が本当に何をしたいか分からずにいます。子供の頃に「将来の夢はプロ野球選手!」と言い切り、そのまま夢を実現する人が羨ましい、自分は食べて行くための手段として仕事をしているのに……割り切りたくとも割り切れぬまま現在に至ります。ただ、ボンヤリとですが、最近は少し小さな夢を持てるようになって来ました。それって、人生最後の幕をどう引くかって言う事にも繋がるんですが……(笑)垂れ流し的な駄文のオンパレードの僕のブログと違って、paul-aulleursさんの選ばれた言葉の数々、見習わなければいけません。これからも頑張って下さいね!
ブログが始まって2年になったのですね、
おめでとうございます。
このブログに出会えた事、paulさんのお話が聴けること、本当に嬉しく思います。
感謝の気持ちで一杯です。
今回のお話を読んでまた、今この時に読めて良かったという気持ちが強まりました。
少し、コメントさせて下さい。
私は4月から新社会人です。paulさんとは全く違った理由から「仕事」について考えていました。ときには振り返った自分を想像して、自分は納得しているかと思いを巡らせていました。おかしいですね。良い仕事だったと満足できるようになりたいです。それが良い自分自身に繋がればいいな、と今は思います。
こちらこそご無沙汰しております。いつも心配りに満ちた言葉に溢れた貴ブログを羨望の眼差しで見させていただいております。心に芽生えた夢が実現されることはほとんどないのではないか、人生は思うようにいかないものだ、という悟りにも似た認識に達しておりますが、その時その時に新たな夢を抱けるのもまた人間ではないかと思います。人は希望がなければ生きていけないと思いますので、それは人に宿命付けられた力なのかもしれません。私もその力を最大限使っていたいと思っています。人生のこの時期は、小さな夢を育てその実現に向けて歩むことのできる時のような気がしてきています。ブノワ様の夢が叶いますように祈っております。これからもよろしくお願いいたします。
これから新世界に飛び出されるとのこと、希望に満ち溢れているのではないかと想像します。私の当時を思い返してみると、学生時代には進路を決めかねていて最終的には勢いで選びましたが、なかなか心からの満足を感じることができず、その間に自分に満足を与えてくれそうな分野に出会い、当時としては珍しいと思いますが、1年で進む路を変えました。それから同じ分野を進んできました。その間にもいくつかの分岐点がありましたが、その時に一番大切に考えたのは自分の心の底にある声に耳を傾けるということでした。そのためか、後悔というものを味わうことなくこれまで来ることができました。
コメントに「ときには振り返った自分を想像して」というところがありましたが、最近私にも同じような視点が生まれています。このブログにも書いていますが、いつまで生かされるのかはわからないのですが、100歳から今の自分を見るということです。どのような感じかと言いますと、これから上り坂を登って行く自分と登ってくる自分を上から見ているもう一人の自分がいるというものです。登っている自分は必死なのですが、見ている自分は坐って楽をしているという不思議な感覚です。そうすると、今の自分が自分の中の歴史の過程を歩いていることをはっきりと意識でき、私にとっては心地よい感覚になっております。
http://blog.goo.ne.jp/paul-ailleurs/e/11eea50382e4f19d7deabcc860f69162
長くなりました。murano様がこれからの人生を充分に味わって(!)進むことができますように遠くから祈っております。お閑の折にまたお越しいただければ幸いです。
いつも素敵な言葉と心に染み入るような表現力の洪水に感激しながら素通りしてしまっておりました。
コメントは初めてですが、毎回欠かさず読んでおります。
この度2周年との事で、ようやくキーボードを打とうと思った次第です。
仕事についてはいつもいつも迷路へと嵌ってしまう堂々巡りなのですがそれでも尚続けて来れたのは、アパレルと言う流行の固まりのような中で自分を見失わないよう、趣味を広げ人脈を多岐にして生きて来たからかも知れないと今回深く考える機会を戴きました。
どうぞこれからも忘れかけている何かを掘り下げて考えるきっかけを与えて下さるようなブログを続けて下さいませ。
長々と失礼しました。
今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。俳句も楽しみにしております。
ブログを見させていただきました。写真をはじめ、趣のある素晴らしいブログで感心しました。また訪問させていただきます。今後ともよろしくお願いいたします。
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