goo blog サービス終了のお知らせ 

フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

パスカルに自分を見る JE M'ENTREVOIS CHEZ PASCAL

2007-02-18 12:34:01 | 哲学

このところのテーマになっている 「全的に考える」 の影響だろうか。最近パスカルを読み、ある発見をする。ここでこれまでに書いてきたように、理性に基づく仕事に打ち込んできたデカルト主義者 (cartésien) であった私が (これはそう意識していたわけではなく、今になって言えることだが) ここ2-3年でその状態に満足できなくなり、思索を重ねてきた結果が 「全的に考える」 に関連する記事になった。

   科学すること、賢くなること (2006-12-15)
   パスカルによる 「私」 の定義 (2007-01-29)
   全的に考える (2007-02-12)

それは、ある意味においてパスカル主義者 (pascalien) に変わったことを意味していることにに気付いたのだ。すなわち、この間に私が考えていたのと同じことを彼が考えていたことを知り、驚くと同時にパスカルが非常に近く感じられるようになっている。例えば、彼のこんな言葉に対して反応していた。

-----------------------------
「世間では、詩人という看板を掲げなければ、詩の鑑定ができる者として通用しない。数学者その他の場合も同じである。しかし、普遍的な人たちは、看板などまっぴらで、詩人の職業と刺繍師のそれとのあいだに、ほとんど差別をつけない。
 普遍的な人たちは、詩人とも、幾何学者とも、その外のものとも呼ばれない。しかし、彼らは、それらのすべてであり、すべての判定者である。だれも彼らを見破ることができない。彼らは、はいってきたときに、人が話していたことについて話すだろう。ある特質を用立てる必要が起こったとき以外は、彼らのなかで特にある一つの特質が他のものよりも目立つということはない。しかし、そのときには、思い出されるのである。なぜなら、言葉のことが問題になっていないときには、彼らが上手に話すと人は言わないが、それが問題になっているときには、彼らが上手に話すと人が言うのも、これまたその特徴だからである。
 したがって、ある人がはいってきたとき、人々が彼のことを、詩に秀でていると言うならば、それはにせものの賛辞を彼に呈しているのである。そしてまた、何か詩句の鑑定で問題になっているときに、人々がある人にそれを頼まないとしたならば、それは悪い兆候である」

 On ne passe point dans le monde pour se connaître en vers si l'on <n'> a mis l'enseigne de poète, de mathémathicien, etc., mais les gens universels ne veulent point d'enseigne et ne mettent guère de différence entre le métier de poète et celui de brodeur.
 Les gens universels ne sont appelés ni poètes, ni géomètres, etc. Mais ils sont tout cela et juges de tous ceux-là. On ne les devine point et <ils> parleront de ce qu'on parlait quand ils sont entrés. On ne s'aperçoit point
en eux d'une qualité plutôt que d'une autre, hor de la nécessité de la mettre en usage, mais alors on s'en souvient. Car il est également de ce caractère qu'on ne dise point d'eux qu'ils parlent bien quand il n'est point question du langage et qu'on dise d'eux qu'ils parlent bien quand il en est question.
 C'est donc une fausse louange qu'on donne à un homme quand on dit de lui lorqu'il entre qu'il est fort habile en poésie, et c'est une mauvaise marque quand on n'a pas recours à un homme quand il s'agit de juger de qulques vers.<br>


「オネットム。
 人から 『彼は数学者である』 とか 『説教家である』 とか 『雄弁家である』 と言われるのでなく、『彼はオネットムである』 と言われるようでなければならない。この普遍的性質だけが私の気に入る。ある人を見てその著書を思い出すようでは悪い兆候である。何か特質があったとしても、たまたまそれを <何事も度を過ごさずに> 用立てる機会にぶつかったときに限って、それに気がつかれるようであってほしい。さもないと一つの特質が勝ってしまって、それで命名されてしまう。彼が上手に話すということは、上手に話すことが問題になったときに限って思い出されるようでなければならない。しかもそのときにこそは、思い出されなければならないのである」

 Honnête homme.
 Il faut qu'on n'en puisse <dire> ni "Il est mathématicien", ni "prédicateur", ni "éloquent", mais : "Il est honnête homme." Cette qualité universelle me plaît seule. Quand en voyant un homme on se souvient de son livre, c'est mauvais signe. Je voudrais qu'on ne s'aperçût d'aucune qualité que par la rencontre et l'occasion d'en user, "ne quid nimis", de peur qu'une qualité ne l'emporte et ne fasse baptiser ; qu'on ne songe point qu'il parle bien, sinon quand il s'agit de bien parler, mais qu'on y songe alors.

   "ne quid nimis" = rien de trop


「すべてをすこしずつ。
 人は普遍的であるとともに、すべてのことについて知りうるすべてを知ることができない以上は、すべてのことについて少し知らなければならない。なぜなら、すべてのことについて何かを知るのは、一つのものについてすべてを知るよりずっと美しいからである。このような普遍性こそ、最も美しい。もしも両方を兼ね備えられるならばもっとよいが、もしもどちらかを選ばなければならないのだったら、この方を選ぶべきである。世間は、それを知っており、それを行っている。なぜなら、世間は、しばしばよい判定者だから」

 Peu de tout.
 Puisqu'on ne peut être universel en sachant pour la gloire tout ce qui se peut savoir sur tout, il faut savoir peu de tout, car il est bien plus beau de savoir quelque chose de tout que de savoir tout d'une chose. Cette universalité est la plus belle. Si on pouvait avoir les deux, tant mieux ; mais s'il faut choisir, il faut choisir celle-là. Et le monde le sait et le fait, car le monde est un bon juge souvent.

   (『パンセ』 前田陽一・由木康訳)

-----------------------------
最後の言葉は、私に促しの力を持って迫ってくる。

コメント (13)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ブログ2年を経過して REFLEX... | トップ | 佐藤允彦を聞く ECOUTER MAS... »
最新の画像もっと見る

13 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
un peu partout? (カメ)
2007-02-18 21:02:46
すべてを知ることはできません。
科学は、知ることのできる限界を定めて、その中で理論を整然とさせます。その限界を超えると、科学はものごとの因果関係を正しく説明できなくなります。科学の進歩は、その限界を打ち破ることです。ただしその枠を少しずつ大きくするだけです。限界のないもの、際限のないものの因果をすっきり説明することは、人間には不可能です。
実は、ジェイコブ・ブロノフスキーの「知識と創造の起源」を読んで、カメはたいへん腑に落ちました。当時第一級の科学者パスカルが神を絶対肯定するのは、そういうことかなあと思います。
返信する
Unknown (Nao)
2007-02-18 22:31:59
ブログに刺激されてT.Sエリオット,青木雄造訳「パスカルの『パンセ』」をよみました。「パスカルをユニークな存在たらしめているのは、科学者と、『誠実な人間』と、神にたいする情熱的な渇望をもつた宗教的人間との正しい結合である。彼はデカルトの失敗したところで成功している。というのはデカルトには『幾何学的精神』の要素が多すぎるからである。・・・・パスカルはデカルトの弱点をはつきり指摘した。『私はデカルトを許すことができない。彼はその全哲学のなかで、できれば神なしに済ませたいとおもつた。だが、彼は世界に運動を与えるために、神に最初のひと弾きをさせないわけにはいかなかつた。それがすめば、もはや彼は神を必要としない』(77)とありました。昔読んだところが、赤くなつていました。
松浪信三郎訳では「普遍的」のところが、「全般的」という訳になつています。どちらも日本語ではわかりにくいですが、どのようにお考えになりますか?
返信する
カメ様 (paul-ailleurs)
2007-02-18 22:48:33
科学という行いを少しはなれたところから見ることができるようになると、お話のように科学の守備範囲が余りにも狭いことに驚かざるを得ません。もちろん、その狭い範囲の中にいると、その世界も宇宙ほどの広がりがあるのですが。これをこれから先も続けていって満足できるのだろうか、という思いが押し寄せてきました。パスカルが言うように、広い世界に向かって目をやると無限の世界が広がっており、小さな世界を求めるとそこにも無限の世界が広がり、この二つの無限の間に人間がいるということになるのかもしれません。
http://philofr.exblog.jp/4706848/

そのような認識に立ち、どうしたら満足のいく道を歩めるのかを考えていた時に浮かんできたのが、人類の遺産を含めたすべてを知りたいという思いでした。それは不可能なのですが、そこへ向かいながら生きていくのが一番自分の求めるところに忠実な生き方ではないかということになりました。これが今回パスカルの "Peu de tout" に反応した理由のようです。

ところで、カメ様が読まれたという Jacob Bronowski という人の本を amazon.com で読んでみましたが、最近哲学的な思考に少しだけ注意が行っているせいか、以前に比べるとよく自分の中に入ってくるように感じました。これから読んでみたいと思います。新しい人を紹介していただきありがとうございました。また関連のお話がありましたら、よろしくお願いいたします。
返信する
Nao様 (paul-ailleurs)
2007-02-18 23:27:33
TS Eliot の指摘は正確だと思います。デカルトは理性をすべての根本に置いたのだと思います。理性だけでは到底解決できないことがこの世にはあるのではないかというパスカルの言葉に私は真理を見るようになっています。また私の場合、理性を科学や仕事と置き換えたりしても考えていました。科学であれ、仕事であれ、その世界にいるとその世界が無限に感じます。その世界に意識が埋もれている間はそれで満足ができると思います。ただ、その外の世界の存在に気付き、人生が無限でないということを意識できるようになると、その世界に留まっていることで果たして満足できるのかという大きな疑問に突き当たりました。丁度そんな時にパスカルの言葉が私に入ってきたということになります。「パンセ」は15-6年間に買った前田陽一訳が手元にあり、変色してはいますが全く手が付けられていない状態です。やはり、出会いには両者の心が同期しないと駄目なのだと改めて悟っている次第です。

universel の訳ですが、「全般的」という言葉を見ると現世的な、手の届きそうな範囲をイメージさせますが、「普遍的」の方はより広い世界へ想像を導いてくれるように私は感じました。その二つの中でどちらかということになれば、後者の方がよいように思いますが、、、
返信する
Unknown (カメ)
2007-02-19 00:49:54
ブロノフスキーの本の題は「知識と想像の起源」でした。失礼しました。その中でたとえば、公理体系を確立することは知識の限界をはっきりさせることであるというような言葉が、カメの頭に残っています。整った公理体系には説明できないものが必ず存在する。反対に、整っていない公理体系では何でも説明をつけられる。だそうであります。
カメは短絡的に要約してますのであしからず。そもそも公理とは直感的に正しいと認めざるをえないものが含まれているという意味で、説明不可能であって、人間はそのような証明不可能なものによってとりあえずは理論体系を閉じておかざるを得ない。閉じておかないと、「何でもあり」の世の中になってしまう。言葉の文法も然りです。
しかし神は「何でもあり」でないところが偉いです。パスカルが言うように無限の自然を畏れ、謙虚な姿勢でいれば、人間の想像は新たな秩序を見つけることができるのでしょう。
返信する
カメ様 (paul-ailleurs)
2007-02-19 07:33:04
詳しい情報、ありがとうございます。Bronowski の本は日本語訳が手に入りにくいようですので、英語で読んでみようと思っております。科学が自らに枠をはめなければ成り立たないということ、その出発点がしばしば説明不能であるということなど、以前に触れた鴎外の「かのように」でも扱われていたテーマとつながっているようにも思いました。
http://blog.goo.ne.jp/paul-ailleurs/e/eed07989f17f6774e1cb95982c6d175b
返信する
gens universels (Nao)
2007-02-19 13:04:50
S,25年発行の津田穣訳,新潮社では「普遍人」とやくされています。(注)を紹介させていただきます。「普遍人gens universelsの概念の根底はすでにモンテーニュにみられる、ことにエセー1の25には次のような文句がある「さて我々はここで反対に文法家でもなく論理学者でもなくむしろ真の人間gentilhommeを作ろうと努める」。また1の54には「素朴な百姓は正味の人間honnestes gensだ、そうして正味の人間は哲学者だ」。また3の9には「まつたくだ、正味の人間は無碍の人間である」。ここに無碍mesle(最後のe

にアクサン)というのはモンテーニュにとつていかなる世界にも立ちまじることを知るという意味である。ところがたとえば詩人は同じ種類の人々を相手に詩のことがらをしか話すことを知らない。」

これをみていますと、、普遍人、全般人とは正味の人間のことらしい、とおもいました。

それからLe mondeが世間というもつとも日本的な言葉にやくされていることに、面白みを感じました。

古い本ですので、お目にふれることがないのでは、とおもい紹介させていただきましたが、すでにご存知なら、お許しください。故人になつた夫の書斎でみつけました。






返信する
beau et bon (paul-ailleurs)
2007-02-19 19:53:42
モンテーニュはいずれじっくり読んでみたいと思っている人で、まだ余り読んではおりません。今回貴重なご本から紹介していただいたところは、パスカルの考えに共通するものだと思います。神を考えていなかったモンテーニュにはパスカルは批判的だったように聞いていますが、この点に関しては一致しているようです。この視点から見ると、世の人のほとんどがオネットムではなく、自ら進んで狭い範囲に閉じこもっているように思えてきます。ここでも触れましたが、ソクラテスとアルキビアデスの会話がまさにこの点についてのもので、どんな専門職も善き人、美しき人には導かない、それを超えて自らを知らなければならないというのがメッセージだったと思います。この視点は人類が目覚めた時からすでに生まれていたことを知ることになりました。ただ、自らの思索の結果としてこの問題に辿り着いたということにより、これらの著作が、その声の主が非常に近く感じられるようになっています。「生きた後に哲学」かもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/paul-ailleurs/e/418e78408717a30ba69dd1acbee97d0c

返信する
モンテーニュ (Nao)
2007-02-21 17:06:11
またT・Sエリオツトから、モンテーニュに関してかかれてあるところを紹介させていただいていいでしょうか。モンテーニュはよんでいませんでしたが、ポールさまのコメントの返信で、モンテーニュとパスカルについて知りたくなり、パンセを読むうちに、いかにパスカルがモンテーニュを意識していたかを知りおどろきました。素人の悲しさです。刺激していただきありがとうございました。
「ところで、パスカル氏がポール・ロワイヤルでド・サシ氏(1613-84.アンジェリツク修道女のいとこ)とはじめて対話をしたとき以来、自分の大敵としてきたのはモンテーニュであつた。パスカルを粉砕することはたしかに不可能である。しかし、あらゆる作家の中でモンテーニュこそもつとも粉砕しがたい作家の一人である。手りゅう弾をなげこんでも霧を消すことができないのと同じである。なぜなら、モンテーニュは霧であり、ガスであり、すきをねらつて流れ込む流動体の元素なのだから。彼は論理をあやつらない。そつと人の心にしのび入り、魅惑し、感化する。いや、論理をあやつることがあつても、それは論証によつて説得しようというのではなく、なにか別のたくらみをいだいているものと覚悟しなくてはいけない。もしも最近三百年間におけるフランス思想の流れを理解したいとおもうならば、モンテーニュこそ知らねばならぬもつとも肝要な作家であるといつても、ほとんど言いすぎではない」「パスカルは彼を粉砕する意図をもつて研究した。しかもパスカルの生涯最後にかかれた『パンセ』のなかには、比喩や単語の端にいたるまでほとんどモンテーニュから「拾い上げた」ような文章が続々と出ていることに我々はきづく。それが軽い文章であればあるほど意味深長である。

(世界文学大系、デカルト、パスカル、筑摩書房、450p)
モンテーニュについてのブログがいつかでますようにと、楽しみにいたしております。
返信する
モンテーニュ・パスカル・エリオット (paul-ailleurs)
2007-02-21 19:38:45
TS Eliot の再度の引用ありがとうございます。ここでも彼は正確に観察していたようです。モンテーニュは、論理的に体系を作るというよりは社会や人生を通して人間を観察することから生活知のようなものを深めていった人ではないかと想像しています。私が読みつつある Marcel Conche という人は無神論者でモンテーニュを崇めています。フランスの精神の一部を表していると思われるこの哲学者の頭の中をいずれじっくり覗いてみたいと思っています。ところで、私のどこかにモンテーニュのように塔に篭って思索の時間を過ごしたいという夢のようなものがあることを思い出しました。
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

哲学」カテゴリの最新記事