先月末、レストランで隣り合わせた未生草様ご夫妻から、ご子息が舞台の演出をやっているとのことでチケットをいただいた。昨晩その芝居を見に高円寺まで出かける。観劇の日は雨? 前回、吉祥寺で 「骨唄」 を観た日も土砂降りであった。
劇団緋の車 第9回公演、「哀しみのダンス」。会場に入ると、本が散らばっている書斎風の舞台が目の前の床にある。微かに古い紙の匂いが漂っている。壁や天井は黒く塗られ、低いベンチに腰掛けるというスタイルで、昔よく聞いた 「アングラ」 という言葉を思い出した。大体100人くらいの会場だろうか。キャロル・キングの歌が流れている。
芝居が始まる。最初のせりふが非常に重く、テンポがゆっくりしているのにやや驚く。20代から30代はじめという年恰好の役柄の男3人、女2人が登場する。やりとりを聞いているうちに、この年代に内在する生々しさ、危なかしさ、人間関係がダイナミックで感情面でも精神のレベルでもその振幅の大きさに改めて思い致す。それはおそらく本能が行動に直結しやすい年代を反映しているのかもしれない。今の時点から私のその時代を見直してみても、ある意味何でもありの世界だったかもしれない。自殺したものは一人や二人ではない。心中したものもいる。男を渡り歩く女、そして反対に女を漁り歩く者もいた。それがある時期から落ち着き、社会生活を営み始める。そこでは以前とは比べものにならない振幅の狭さで生活が続いていく。昔あれほどのダイナミズムがあったことなどすっかり忘れて。
われわれの体を監視している免疫システムが成熟していく過程でもダイナミックな選択作業が行われているということを読んだことがある。そこでは病原体に溢れる外の世界に出て役に立たない細胞は、早い時期にシステムから排除される (殺される) 。まさにその選択の時期に細胞レベル起こる多様で複雑な出来事が人間関係でも繰り広げられているのかもしれない、そういう時期だけにいろいろなドラマが生まれうるのだろう、などと考えていた。
時に言葉の重さに若い出演者の体が持ちこたえられないように感じたところもあったが、真摯に体当たりしている姿を観ながら臨界に当たる年代からの叫びにも似たものを聞くことができた。