パリ行きの機内で四分の三ほど読んでそのままになっていたラース・スヴェンセン Lars Svendsen という1970年生れのノルウェイの哲学者が書いた 「退屈の小さな哲学」 "A Philosophy of Boredom" を読み終わり、さらに読み直してみた。ヴァルター・ベンヤミン Walter Benjamin (Berlin, 15 juillet 1892 - Portbou, 26 septembre 1940) やロバート・バートン Robert Burton (8 février 1577 - 25 janvier 1640) の1621年の作 「憂鬱の解剖学」 The Anatomy of Melancholy (Anatomie de la Mélancolie) のようにすべてを引用で埋め尽くそうとしただけあって、引用に埋もれていて本人の声が聞こえにくい本である。しかも次のような言葉でこの本は終わっている。
「退屈を避けて通れないものとして、人生そのものの重みとして受け入れなければならない。これは大きな声で言える解決法ではない ― しかし、退屈には解決法がないのである。」
まだ若いせいか、退屈を研究対象としてとにかくいろいろなものを読み、それをもとに考察を加えているのだが、退屈するという体験を自分に引き寄せて考えるところまでいっていないように感じる。やや頭でっかちな印象を拭えない。全体から出てくる印象が薄いと言い換えてもよいかもしれない。そうは言いながら読み返したのは、その中に登場する多くの人をもう一度ゆっくりと吟味してみようと思ったからである。お付き合いできそうな人はいないか、という期待も込めて。以下、脈絡なしで気になった人について抜書きしてみたい。
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著者は、退屈についての最初の偉大な思想家はプレーズ・パスカル Blaise Pascal (Clermont-Ferrand, 19 juin 1623 - Paris, 19 août 1662) だと言っている。
結局パスカルは、『伝道の書』 にすでに書かれていたことを繰り返している。つまり、神を考えずに人間がとる行動は、すべて非常識でばかげた虚栄でしかないというものだ。
パスカルにとって、神のいない人間は気晴らしをするしかなくなる。彼によると、この地上に僕たちを末永く完全に満足させる喜びがないのを理解するのに、高い精神は必要とされない。神がいないだけでいいのである。神との関係がなければ、僕たちはみじめな境遇を忘れるために気晴らしに向かう。しかしこの態度は破滅的なことがわかる。なぜなら、そうすることで僕たちはさらに神から遠のくからである。
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パスカルは、人間のさまざまな活動を 「気晴らし」 と言う言葉で要約する。すべての人生は、人生からの逃避に過ぎず、人生とは本質的に神のいない虚無であると言う。
「倦怠(退屈)。― 情念もなく、職務もなく、気晴らしもなく、勉励もなく、全く休息しているほど、人間にとってたえがたいことはない。
そのときかれは、自分のむなしさ、やるせなさ、物たりなさ、たよりなさ、力なさ、つれなさを感じる。
かれの魂の奥底からは、たちまち倦怠、憂うつ、悲しみ、悩み、恨み、絶望がわきあがるであろう。」
気晴らしはみじめさよりは好ましく見えるかもしれない。少なくとも一瞬は見せかけの幸せを手に入れられるからだ。気晴らしで退屈から逃げようとするのは、現実から、それぞれの存在が体現する空しさから、逃げようとするのと同じになる。したがって、パスカルの言う退屈は、特別な社会的様相が何もなく、むしろ人間を構成する性格の特徴になっている。神がいない人間は無価値であり、退屈は、この虚無の認識であるというものだ。この理由から、自分自身の退屈と向き合う人間は、気晴らしに逃げて満足している人間より、自分をよく認識することになる。