フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

青春(3)[053]

2006年03月08日 | 超緩色系

    

     青春 ③


 「案ずるより産むが易し」という俳句は、季語はないものの信頼できる確率論である。


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 黒づくめの屈強の兄さんたち、総勢約30名さまご一行は意外にも紳士的であった。

 ときどき罵声は飛んでくるものの、何曲目かにヤケクソで弾いた古賀メロディが、まとめ役かと思われるオジ貴(推測だが)にまぐれ当たりしたみたいで、『影を慕いて』『青春日記』『人生の並木道』ほか全六曲をメドレーで繰り返し延々と弾くことで、カスリ傷ひとつ負わず、奇跡的にその場を切り抜けることができたのだ。

 古賀メロディの哀愁と私の心の号泣がベストマッチして、あるいは意外な名演を生んでいた可能性はある。

 病床の父のリクエストに応えて練習していた古賀メロディが、まさかこんな場面で役立つとは……。
 父は立派に息子孝行を果たしたのである。

 「世話かけたな」と、帰り際にオジ貴(推測だが)が私に手渡した三万円のチップで、その晩は支配人や店の仲間と飲み明かした。
 私には宿命のライバルにあたる、だが本当は歌いたくてたまらなかったカラオケを、生まれて初めて歌いまくった。

 これらを契機に私は、汝の敵を愛すタイプとなった。


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 いま想えば、いろんなことのあった一年だった。
 正しい青春ではなかったが、いろんな寄り道、つまり失敗と大失敗の哀しいほどに正確な繰り返しが「打たれ強さ」だけは鍛えてくれたのだと思う。

 それなりに不眠不休でヘボなアレンジや練習に励んだこと。
 珍しく云い寄ってきたナゾの美女が、実は小学校の同級生で、しかし同性だったこと。
 ひと月分のギャラを一瞬のうちに競馬でスッたこと。
 道に迷ってはパコ・デ・ルシアのレコードに答えを問うたこと。
 大学の進路担当教授に破門されたこと。
 五年間過ごした女と別れたこと。

 そして最後に、大好きだった父親の死を看取ることで、私は青春を卒業した。


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 のちに大失敗のオンパレードに彩られた「第二の青春」を迎える運命を、そのころは知るよしもない。
 パセオ創刊まであと五年である。



                   
    『パコ・デ・ルシア/アルモライマ』
       
POLYGRAM1976年)