フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

愛のあるところ(マイテ・マルティン)[068]

2006年03月25日 | フラメンコ



     愛のあるところ

          (マイテ・マルティン)



 私の出くわすトラブルやアクシデントというのは、原因をたどってゆくと、真犯人は私だったりすることが多い。
 だから事が起きた場合は、人を疑うよりもまず私を疑ってかかった方がはるかに解決は早いのだ。


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 それでも時には、実は非常にしばしば、相手サイドの理不尽さから生じるトラブルに巻き込まれることもある。
 そんな場合の私は、自分の落ち度でないことを慎重に点検して満を持したのち、その理不尽な相手に対し、ハラワタを煮えくり返して怒りまくる。

 まず心の中のサンドバッグを怒りの対象に見立て、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせながら、これでもか、これでもかという具合にラウンド分間を目一杯叩きまくる。
 で、ひと通り気がすむと、そこでおもむろに聴き始めるのがこのマイテ・マルティン『愛のあるところ』なのである。


        
  『マイテ・マルティン/愛のあるところ
          (VIRGIN2000年)


 マイテ・マルティンの歌声は、傷つき疲れた感情のヒダの中にそっと分け入り、美しい陰影と余韻にあふれた詩をしっとりと発散させる。
 そのリリカルな哀感と余韻は言葉には尽くしがたい。
 響きそのものに、何かわだかまりを拭い去るような浄化作用があるのかも知れない。

 何という感受性、何という創造性だろう……。


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 魂を打ち震わすようなブレリア冒頭のヴァイオリンにさくっと心をつかまれ、二曲目『ヴィダリータ』の中ほどに差しかかる頃には、敵の理不尽に対する私の怒りは、すでにおさまり始めている。

 我を忘れて聴き入ってしまうその最中に、理不尽な相手に対する、ついさっきまでの私の中の「攻撃性」は、いつの間にやら健全な解決をめざす「推進性」へと変貌を遂げているのだ。


 悪いのは本当に相手なのか?
 いつものように、真犯人は俺じゃねえのか?
 仮に相手が悪かろうと悪意でやったわけじゃない、お互いさまじゃねえのか。
 という風に、健全な解決と再構築に向けて、私の心は決着してゆくのである。


          
     マイテ・マルティン(ライナーより)



 マイテの『愛のあるところ』が発表されて六年が経つ。

 合計で三枚、私の自宅と会社と散歩用CDケースには、このディスクが必ず常備されている。
 この数年来、ささやかな私の出版事業を陰から支えてくれる、日常的・実質的できわめて御利益の高いお守りなのである。

 そんなマイテ・マルティン(1965年バルセロナ出身)を責めるのは酷な話だが、デビューをほんの少しだけ早めて、せめてもうあと50年位前にこのアルバムを出してくれていたならば、間違いなくこの私(1955年東京出身)は立派な人格者として成長できていたはずであり、その点だけはチョーくやしい。


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 こうした深刻な事情もあって、パセオの社長はちょっとだけ人格者ではなく、また仕事もゆるい。
 幸いにもそうしたマイナス事情を埋めるべく、パセオのスタッフたちは、それまで私が発見できなかった様々な建設的提案をポンポンと打ち出してくることが多い。

 またしても先を越された私は、動揺を隠しながらも暖かく彼らをねぎらう。
 「よーやく、そこに気づいたか。おせーじゃねえかあ。俺なんかとっくにそー思ってたもんね」。


 こうした理不尽と日夜闘う彼らの愛聴盤も、やはりマイテ・マルティンであるのかも知れない。