フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

腕っこき [069]

2006年03月26日 | パセオ周辺




                腕っこき 

 

 「うぉっ、いー音出してんじゃんかー」

 その抜きん出た音響センスをはじめて耳にしたのは、たしか碇山奈奈さんの舞踊公演だったように思う。
 その数年後、スタジオ・オズさんに依頼したパセオのビデオ撮りの現場で、音響を担当してもらう彼とはじめて出会った。
 ギンギン茶髪でわがままそーなオーラを出しつつ云いたい放題なのだが、そのすべてのベクトルが“より高きクオリティ”に集中されている彼が、むしろ組しやすい仕事相手であることは第一印象でわかった。


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 その腕っこきの音響ディレクターとは、今年1月12日に急逝した川崎克己さんのことだ。
 天王洲アイルで本日午後に行われた『川崎克己さんを偲ぶ会』に顔を出し、いくつか雑用を済ませ先ほどパセオに戻ったところである。
 
あいにく今日は日本フラメンコ協会の十五周年イベントのリハーサル日と重なり、参加の叶わなかったフラメンコ関係者が多かったのだが、会場のスフィアメックスには百数十名の音楽・舞台関係者が詰めかけ彼、川崎克己の面影を偲んだ。
 彼は一途な頑固者だったと思うが、同時に優れたアーティストだった。そして、おまけにこんなに人気者だったんだな。



        
     [彼自身も気に入ってたというポートレートに全員で献花]

 

 「シャチョー、なんか一緒にやろーぜ」

 会うたんびに彼は私にそう云った。
 だからというわけでもなく、先々社長業を退いた後に実現したい幾つかのプロジェクトのひとつに彼の参加を要請しようと構想していた私だった。
 私は彼を、五歳位年下の仕事の出来るナマイキ後輩だとてっきり思ってたのでガンガン議論をやり合ったものだが、訃報をきいてはじめて彼が七歳年上の先輩だったことを知った。
 だが、もし長らえてもらえたならば、この七歳年下の仕事の出来ないナマイキ後輩(若干茶髪)の要請を、彼(チョー茶髪)は快く引き受けてくれたような気もするのだ。

 人工透析等ですでに満身創痍だった彼は、亡くなる前日まで普通に仕事をしてたという。そして同時に、先行きを予感する彼はアトリエ・エルスールの野村眞里子さんに今日実現してしまった“偲ぶ会”のプロデュースを託してたのだという。それらを私はつい先ほど知った。

 常に現在進行形のヴィジョンを抱く人間が「すべてをやり遂げる」ことは物理的に不可能である。何故なら「すべてをやり遂げた」と思う状態ならば、その時点で夢やヴィジョンを持ってないわけだから。
 弔辞は当然「早すぎるぞう」の嘆き一色だったが、ひとつひとつの仕事をキッチリやり遂げながら彼は仕事人としてとても幸せな死を迎えたと、なぜだか私は思う。


 とは云うものの、今の私はとても“合掌”にて締めくくる気にもなれず、やはり彼の腕っこきに信頼を置いていた私の連れ合いとともに、これからご近所“健さん”にて川崎克己を偲ぶ二次会の予定だ。ま、こんな日もある。