尾崎まことの詩と写真★「ことばと光と影と」

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2005.10/22開設

現代詩について―「裸の王」

2009年01月06日 01時30分46秒 | 哲学と詩学の栞
現代詩について―「裸の王」

SI●短詩形文学と区別する必要性はあったが、詩と死が同音でなければ、輸入文学として始まった詩をわざわざ「現代詩」と呼びなおす慣わしはこれほどでなかっただろう○詩の歴史の展開は、もう少し変わっていただろう●この世には、よけいなお世話ということがある○僕もまたよけいなお世話の一文を記すことになる○その論旨は、詩はなんであるべきかについての言説は、詩を書こうとする者にとって、詩の本質からして「よけいなお世話」である、ということに尽きる○人生がそうであるように、人様の詩に、誰も指示する権利など持っていない。身も蓋もないこのようなことを、わざわざ言わねばならないほど、詩の現在は、それぞれの詩人の実存を離れ、制度的政治的なものとなっている●便宜上、現代詩を詩壇ジャーナリズムに現れるセレブな詩に限定しよう○詩集というものがほとんど市場に流通していないため、現代詩手帳、詩と思想という月刊詩誌に取り上げられない詩や詩集、詩人というものは、不本意ながらほぼ存在していないかに等しい○だが、僕の提示しようとしていることは、詩壇の詩ともいうべき、現象している詩に対する懐疑である○詩の本体というものがあるとするならば、たまに送られてくるローカルな同人詩でようやくうかがい知る事のできる、その他大勢の「現象しない詩」であるということだ●その意味で、詩は今充分書かれている○政治的前衛の幻想が崩壊した後、芸術的前衛の身振りで詩界を先導しようとしてきた制度が、詩壇とそのジャーナリズムではなかったか○詩壇の権威形成に大きな役割を持つ審級装置が、現代詩賞、H氏賞とか中原中也賞などの詩集賞であ○メジャーとされている賞の受賞者が、いづれ選考委員になり次の世代の詩壇の要職に着くようだ○よって、詩壇中央に認めれる詩を書こうとするものは、一般読者ではなく、詩壇に向かって書く○人間的な共感・感動からかけ離れた言葉遊びに脱している○結果、大衆性を持たない、自閉的自虐的な現代詩が拡大再生産されてしま●その悪循環○…今さらこんなことを言いつのることは、「王様は裸」と現代詩に向かって叫ぶことに等しい○多少ともまともな詩を書こうとする者なら、気がついていることだ○ただ本当のことを言う勇気がないのだ○社会的接点を見いだせない自分の詩がせめて、人工数千人の詩人村で、仲間褒めされ、死んでからでも名を残すことに望みをつなぐ○現代詩は社会から無視されているというレベルではない○根本的には忌み嫌われている●もともと偉そうにしたいということが、ルサンチマンとしての詩人の動機にはある○カリカチュアとしていと、現代詩手帳は「こんな言葉は君たちには分からないだろう、だから僕はえらいんだ」という言説行為であり、詩と思想は「こんない正しいことを言うから、僕は偉いのだ」という言説行為である○しかし、大衆への復讐というだけでは、忌み嫌われている上半身を説明しただけにすぎない○自閉的で陰気だ、というレベルではなく、その核心部分には死者からの「障り」と表現しなければない強度で、磁力が働いていると思われる○その磁場が詩壇おやび詩壇ジャーナリズムである●約一年前、吉本隆明さんが、『日本語のゆくえ』という本の中で、「いまの若い人たちの詩は、無だ」と書いて、多少の反響があった○「いまの若い人」という限定には異論があるけれど、現象としての現代詩の本質をついていると思う○そして「無だ」という存在に関する述語を「無化作用だ」という力学的に読み替えると、僕が云おうとしていることにほとんど同じである。その浮かばれない死者を内包することによって祟られているような「無化作用」は、吉本さんがかつて所属した、「荒地派」の呪文から始まった現代史的伝統に違いない○それを若い人の詩に特化してはいけない○現代詩のひとつの大きな欺瞞は、「真・善・美」のうち、まず己を美に限定して出発しながら、いつのまにか存在(真)や倫理(善)にやかましく口をはさむという戦略である●吉本さんが「無」の例証としてとりあげている詩に中原中也賞を受賞した水無田さんの「非―対象」がある○「ココニアルモノハココニアルハズガナク」の一行が、「たとえば/立ち並ぶ/看板のネオンサインよように」というように、いわばリアルであることの自己否定を、直喩的に以後のフレーズを展開していく○とても良い詩だとは思う○が、カントの二律背反のような言説は、そこに留まりふんばって垂直に深めるしか方法がないものだ。転移を果たしている、と吉本さんは精神分析的用語を使うが、むしろ仮初めの場面転換であり、そこにあるものは乖離の現象であり、作者も読者も感情は宙づりのまま、実はそこから動けない●テレビに林檎が一個写っている、としたら、それは「ココニアルモノハココニアルハズガナク」というべきものではないだろうか○よく似たイメージを求めて、チャンネルを切り替える現代詩人の身振りが見えてしかたがない○もちろんテレビを見ていることがこの詩の解だとは言わない○言葉に内閉しながら、いつのまにか存在や倫理に関して不能感をもたらす、現代詩らしさというものの持つ、「無化作用」の説明にはなっただろうと思う●現代詩は端的に「戦後詩」である○死者の弔いの課題をはらんだまま祈りの言葉を紡ぎ出せないモデルニテ○戦後性が歌の場としての共時性を破壊し続けていることに気がつかねばならない○小野十三郎は「歌から逆に歌へ」と言ったが、我々は歌はないのではなく、もはや歌えないのである。「逆に」のところを批評と読むことが現代詩のアイデンティテイとなっているが、歌えないことの言い訳になり果てた●批評の根底は自己批評である。政治の時代にあって自己に内閉することが一つの批評になりえたが、大衆と呼ばれてきた人たち一人一人が自閉し、仮想現実によがり始めている今、かつて「おたく」と呼ばれたようなよがり方というものが、現代詩数千人のよがり方に酷似していることに対する自己批判=羞恥を持たねばならないと思う○




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