今日は立冬だ。
しかし暖かい、で昨年の日記を見たらやはり暖かだった。ということはじわじわと異常気象がこの地球に迫り来ているんだ。立冬のこの時期に寒くてコタツにもぐりこんだのは一体いつ頃のことだったのだろう。
立冬といえば、毎年決まったようにローカルニュースで、県庁の公園の松の木に虫除け用のコモを巻く植木職人の姿を写す。
このニュースを見ると否が応にも「もうこの季節?」と改めてするすると逃げていく月日の速さを感じてしまう。
とは言っても、空気にも冬の訪れを感じられる、この時期山の木々も日に日に色づきがよくなり、緑色のキャンバスに色とりどりの絵の具を散らした様になる。
秋は「山粧う」、冬は「山眠る」深い眠りにつくまでの木々たちの精一杯の表現が紅葉なのだろうね。
「山笑う」新緑の春まで長い時間を山は眠るのだ。
というわけで、暖かな小春日和の夕方嘉久志海岸に散歩に出かけた。毎日同じ風景ばかりで、『もう~ 被写体がない!』とついこの前まで叫んでいたが、アラーキはバルコニーから空ばかり写していたにもかかわらず、『空虚』と題したその作品は木や蔦までも空しく写っているし、『台風の翌朝』と題したその作品は、伸び放題に伸びたプランタンの花や、ひっくり返ったスチールイス、枯れた花などまるで、シュールレアリズムのダリやキリコの絵画を見ているような気がした。
同じアングルでも写真一枚でこのように表現できるとは凄い。
尤も比べるのもおこがましいし足元にも及ばないのはよーくわかっていますが。 真似すら出来ないのも承知です。ハイ!
で今日の写真は、同じアングルながら影を写してみました。(写真をクリックしてくださいね。)
ぽくぽくと歩いていると、秋の影は黒ではないのだなぁとつくづく思う。
夏のそれは、クッキリと輪郭もはっきりしていて、墨絵のような感じがしていたが、本当は、よく見るとそうではないのだ。
秋の西日にできる影は、黒いようで、うっすらとねずみ色で透き通っている。薄日の中ではもっと薄いねずみ色になるし、ほとんど沈みかけた夕陽の影はスマートで長く見える。草むらに落ちる自分の影の中に、枯れ草などや、しらっちゃけた石ころなどを見ていると、なんだか自分の身体までも見透かされて行くようで、心もとない。
自分の透けた身体の中を、秋の磯の匂いのついた風がすり抜けていく。だからなのか、秋の夕暮れはすうすうと寂しいな。
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