ブレンド日記

世の中の出来事・木馬での出来事・映画の感想・本の感想・観るスポーツ等々ブレンドして書いてみました。

稲尾投手の思い出

2007年11月14日 | スポーツの事
                 
 
 草花でも野菜でも、植物を育てるに当たって大事なことは、それぞれの植物が本来持っている活力、生命力をできる限り生かしてあげることではないかと思う。
その生命力が最大限に発揮される環境を整えてこそ、美しい花も咲き野菜本来が持っている土の匂いのする美味しい野菜もできる。
なーんて少し偉そうですが、トンボから電話があり「ダリアが綺麗に一杯咲いているよ、取りにおいで!」
ということでお花を頂にトンボ邸に・・・ついでにお塩をかけてそのまま食べたいくらい、きんきら輝いていて、美味しそうに畑の畝に並んでいた春菊君も頂いてきた。
やわらかすぎて大事に扱わないと千切れそう!有難うございまーす。

話は全然関係ないのだが、トンボは「アルマーニ」がことのほかお気に入りで、セーターもズボン(とは言わないのかな?)もほとんどアルマーニらしい。
ブランドしまむらとか、ブランドセシールしかしらない私は、アルマーニの良さがわからない。身体にぴっちりフィットしてまるで昔父親が着ていた駱駝の下着を髣髴させる。
そういったら、「馬鹿だねぇ この細身のセーターやパンツを身に着けたくて 身体を鍛えている人もいるんだよ。」
「それって この前アルマーニの社長が銀座のお店がオープンしたからと来日してたブランド?」
「そうだよ。」
「じゃ私もそのピッチリが着れるように努力するから 買ってよ、『もうこれからはお金に不自由はさせん、何でも欲しい物言ってごらん。』そういったよね、あの言葉に嘘はないのなら買って!」
「この話はなかった事にして、そんな話はアルマーニ」とバカなトンボの落ちです。

 で、またまた枕が長くなってしまいましたが、今日の書きたいことは稲尾投手の訃報に接して稲尾投手の思い出です。
父親は江戸っ子の癖に ジャイアンツが嫌いで、タイガースファンだった。
そんなわけで水原が嫌いで、タイガースじゃなかったけど三原(当時西鉄の監督だった)が好きだった。そんな父親の影響で野球のラジオ中継をいやがうえにも聞かされて育った私は、野球大好き少女だった。

 昭和33年 長嶋選手が衝撃デビューをした年でもあった。その年の日本シリーズ。忘れもしない。(水原ジャイアンツと三原ライオンズ)
第1戦を稲尾で落とした、第2戦も落とした、第3戦は稲尾が先発だったが、1-0で落とし後がなくなった。
ここからが凄い、第4戦は平和台球場が雨で順延になった。翌日三度目のマウンドに立った稲尾は打たれながらも、豊田や中西の活躍で一勝をあげる。
第5戦も途中から登板した稲尾は 自からの サヨナラ本塁打で二勝目をあげる。
第6戦も0点で押さえ 三勝目。第7戦、5試合連続登板の稲尾、3連敗から4連勝という球史に残る素晴らしい活躍で、神様 仏様 稲尾様ともてはやされて勿論最高殊勲選手も・・
父親は 稲尾より三原監督が凄いと お酒を飲みながらうれしそうに話していたのが忘れられない。三原マジックといっていた。

 中学生になり一年生の遠足で益田に行った時のこと。雨の遠足だった。午前中の日程を何とかこなしたが雨足はひどくなる一方 その時の1年担任の先生方が相談して午後の日程を取りやめ、益田の石見館で映画を見せてくれた。
その時見たのが 「鉄腕投手 稲尾物語」だった。内容はほとんど覚えてないけど、伝馬船をギッチラオッチラ漕いでいたのだけ覚えている。これで腕の力が強くなったと言ってたのだけ覚えている。(因みにもう一本は大映の“春を待つ人々”だった。)

話はそれてしまったが、年間130試合そこそこの時に、シーズン最多の43勝をあげたのも今では考えられないが、今日の新聞によると、打者の打つ気を読み取って冷静に組み立てる頭脳的なピッチングだったらしい。
それじゃないと14年間で276勝は出来ないよね。昔はダブルヘッターで連投もしてたもの。
きっとあちら世界で三原監督と逢っているでしょうね。
ご冥福をお祈りいたします。

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