もんく [とある南端港街の住人になった人]

宮崎アニメの鑑賞法

先日「天空の城ラピュタ」の感想を「面白さがわからない」と書いたが逆に「面白い」と評価する人も多いらしい。

以前から映画関係のblogは見ているが「面白い」と書いてあっても何が面白いのかその文章からつかみとる事ができなかったので最近は見ていなかった。これを機会に少し研究してみた。

1.「動く絵に再現されたディテールへの心配りがある」
主人公の女の子の三つ編みの動き、人物の食事のし方、飛行機の細部などの動く絵の世界に魅了される。

2.「不安定さにはらはらドキドキ」
ストーリーの展開する場面が空中であったり地下であったり崖であったりと、とにかく危ない場所でしかもスピード感がある。こう言う場面を見せられると只でもはらはらしてしまうものだが、主人公が女の子であればなおの事だから、どうしても引き込まれる。映画には必要な演出である事は間違いない。

3.「やさしい色使いの安心感ある絵のタッチ」
子供の頃からテレビアニメで見慣れている色と線で描かれた絵を映画に合わせて洗練させているために見た目の安心感がある。この絵で不十分と言う人はあまりいないだろう。

4.「定まった評価による安心感」
「宮崎アニメの新作」と聞いて怪しむ人はいないだろう。親が評価する前にでも子供に見せられるだろうとの安心感がある。宮崎アニメを見ている人は新作もだいたい見ていて、前作までのものがその評価基準になっている。ある意味水戸黄門や寅さんのようでもあり、監督であっても突飛な作品を作ることは許されないのだろう。

5.「倫理的」
主人公のキャラクタが日本人が普通に倫理的と思えるものになっていて、逆に敵方はその正反対であるところが受け入れられ易い。よく考えなくても見ている方が感情移入できる方が決められているので分かり易い。


主人公の動きに連られて視点を移動していく事でジェットコースターのように場面展開する見せ方がうまいと言う事だと思う。逆にストーリーや作者の主張はあまり重要ではない。宮崎アニメはそう言うアクの無い映画だ。

そのようなアクの無さは個人の強い主張を好まない日本独特の風潮によるものだ。そのために映画でも小説でも「描く」と言う手法が使われるのが一般的だ。絵を描くように全体を表現する中に主張を入れる。見る方はそれを解釈すると言う立場になる。行間を読むとも言う。そこには作る者と見る者に共通する認識が存在していなければならない。

共通認識を前提にすると言うことはパロディや物真似のその元を知っていなければならないと言うことだ。ここで共通認識になっているのはありきたりの倫理観のようななものだ。「平和」や「愛」や「自然との共存」、「勇気」など割りと普通どこにでもあるもので構成され、それ以上に作者独特のものでも強いものでもない。

子供の頃に先生から「友達と仲良くしなさい」「自然を大切にしなさい」と言われた、それに似ている。「そんなのわかってるよ。じゃあいったいどうすれば良いの?」「ボクは何をすれば良いの?」それには答えがない。

その結果「描く」手法だけが一人歩きしてしまい、その奥にあるはずの解釈は「見る方の自由」に委ねてしまっている。作る方も見る方も「いろいろな解釈がある」で一件落着にしてしまうので、そこに残るものはただの絵だ。

「天空の城ラピュタ」は昔の作品だからこんなのでも良かったのだろう。「ハウルの動く城」は逆に「描く」から一歩踏み出している面があって割りと現代的な作品だと思う。宮崎アニメの中で見ていない以前の作品は見たくも無いがこれからの作品の方により多く期待します。
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