ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

「金熙麗回顧展」 の ご案内

2012-08-26 09:48:27 | 日記



   「金熙麗回顧展」


(絵のタイトルは「密航」)

@2012・9・4(火)~9(日)
  11時~19時(最終日16時迄)入場無料

@大阪府立江之子島芸術創造センター ルーム2「4階」
  大阪市西区江之子島2-1-34 ☎(06)6441-8050

 (地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車 ⑧番出口から西へ約150M)


金熙麗(김희려 キム・ヒリョ 1926-2007)

    1926  朝鮮済州島に生まれる
    1942  渡日
    1944  大阪府立高津中(旧制)卒
    1946  大阪市立美術研究所設立と同時に本科入所
    1954  在日朝鮮美術会(53年結成)大阪支部結成
          事務局長を務める
    1959  在日本朝鮮文学芸術家同盟大阪支部結成
    1960  この年から上記同盟 事務局長・委員長を
          1980年まで務める(以後 顧問)
    1969  日朝友好美術展を開催
          以後2000年の30回展まで朝鮮側代表として
          同展の運営に尽力した
    1980  朝鮮民主主義人民共和国 功勲芸術家称号 授与
    1981、87 個展 大阪グランドギャラリー 


@主催「金熙麗回顧展」実行委員会 ☎06-6772-3860
@後援 在日本朝鮮文学芸術家同盟 大阪支部常任委員会
    在日本朝鮮文学芸術家同盟 中央美術部
    朝鮮大学校 教育学部美術科
     


 1972年から1981年まで約10年間一緒の事務所で働いた上司でした。温和な素晴らしい方です。
 是非お運びください。1世にしか描けない歴史があります!



(キム・ヒリョ画伯はちょうど右からも左からも3番目の方です。左の方は詩人のホ・ナムギ先生です。1976年私は27歳でした。)

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尹東柱の詩⑳ 「は る」(童詩)

2012-08-25 16:12:08 | 日記




(北間島明東小学校卒業記念写真 右側がトンジュ)


 「봄 」 (동시)


윤 동 주

우리 애기는
아래 발추에서 코올코올, 발추=발치의 사투리

고양이는
부뚜막에서 가릉가릉

애기 바람이
나무가지에 소올소올

아저씨 햇님이
하늘 한가운데서 째앵째앵

     1936.10


(습작기의 시 )

                                 


「は る」  (童詩)

            ユン・ドンジュ

うちのあかちゃんは
へやのすみで* すやすや、

ねこは
かまどで ごろごろ、

そよかぜが
きのえだに さやさや、

おひさまが
なかぞらで きらきら。


  *へやのすみ=オンドル部屋の一番温かいところの意。


*習作期の童詩です。


*ユンドンジュの詩を20作掲載しましたがしばらく休みます。


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「ソウルと大阪の狭間でー語る人・高仁鳳」に参加してきました。

2012-08-24 21:25:10 | 日記


FBチングの高仁鳳さんの講演会に行ってきました。仕事を終えてすぐに自転車で走ったので開演15分前に到着しました。



 貴重な資料集をいただきました。



 「ソウルと大阪の狭間で」 タイトルを見るだけでも圧倒されます。

 席に着いてすぐ、偶然奥様とお会いできました。初対面ですがお互いFbで毎日顔を合わせているので、すぐわかりました。
 
 思っていたとおり可愛い方でした。とても気さくで丁重なご挨拶をいただき恐縮いたしました。



 まず主催者を代表して岡田さんが講演会開催の経過などを簡単に説明されました。



 インボンさんはお話の初めに、本当は今日ガン克服の勝利宣言をしたかったが28日が検査結果の発表などで勝利宣言できないのが残念だとおっしゃりながら、克服万歳を2回もされました。皆さん心の底から暖かい拍手を送っておられました。



 パンフレットの中,生い立ちから今日までが70数枚の写真に集約されておりました。それをパワーポイントで画面を見せてくれながらお話がはじまりました。

 1941年5月1日、大阪市此花区大開町で生まれたこと、その地域がどんなところだったかを地図を見せながら簡単に説明してくれました。戦時中は豊岡へ疎開したこと、そして戦中、戦後大阪の森町で住んでいたことも。

 1945年8月15日祖国の解放を迎え、1947年母、兄と共に韓国へ、父は財産整理などで日本に残られたそうな。



  この写真はインボンさんが6歳の時、帰国直前に撮ったらしい。オモニと兄仁守さん(15歳)と一緒に。

  帰国して到着したところが「イリ」という町、翌年「イリ中央国民学校」へ入学。3年生の時に6・25事変(朝鮮戦争)勃発。
  戦争を機にインボンさんの人生は急変していきます。3年生の時から学校へは通えず、兄さんは軍隊に駆り出され戦場へ、
  



 この慰霊碑は味方だと思っていた米軍が「イリ」を砲撃したため犠牲になった人々を弔うための慰霊碑だと説明してくださった。



 1952年2月10日オモニが治療も受けられず、病名もわからぬままお亡くなりになられたそうです。

 オモニが最後に残した言葉を女の方が朗読してくれました。

 「私は死なないからね。お前を残しては死ねない。お前を一人ぼっち、残して死ねないよ。死ねない、しねない 死ねない 」

 兄は軍隊の引っ張られ母は亡くなり、インボンさんは孤児同然になります。

 親戚を頼っていったけれど、どこも台所は火の車でいたたまれなくなったインボンさんは、親戚の家を出て駅などで野宿しながら乞食生活をします。

 物乞いだけはどうしてもできずゴミをあさって暮らします。普通なら涙ぐみながら言うところをインボンさんは笑いながら言います。
 
「おかげさまで私は胃腸が大変丈夫です、今回もガン治療が成功したのは胃腸が丈夫だったから」と笑いながら言います。

 お米屋さんの娘が米を手に握らせてくれるのではなく鶏に餌をやるように土間にばら撒き、それを拾って食べたみじめな過去、それすらも笑いながら言うのです。

 「私、ごみの中からお米拾うの上手ですよ」と言いながらジェスチャ―されるのです。胸を締め付けられるおもいでした。

 *1953年7月27日休戦協定

 *チョルンと友達になった話

 *1954年兄に逢おうとソウルに行った話。

 *散髪屋で働いた話

 *兄が戦地から戻った話

 *1957年5月17日、ソウルを出発し大阪に到着したあと、アボジと住むようになった話。

 *その年の9月27日、建国中学校2年に編入したこと。

 *1959年4月、建国高校に入学したこと。新聞部で活躍したこと。

 *1962年4月、合成樹脂工業新聞社に入社して本名で活躍したこと。

 *1963年4月、大阪経済大学へ入学したこと。

 *1966年故国での夏季学校に参加したこと

 *1967年4月林芳子さんと結婚したこと

 *1968年1月西成区で韓国語専門印刷・僑文社を始めたこと。

 *1969年6月大阪市生野区桃谷の父の家へ移転したこと

 *70年万博で韓国館の仕事をしたこと

 *1977年1月現在地へ移転したこと。

 *1982年9月、ハングル電算写植機を導入し韓国より早く世界で初めて実用化したこと。

 *1990年1月、僑文社からケイビーエス株式会社になったこと。

 そしてインボンさんはいいました。「できるかな?にいつもチャレンジ」してきたと。何事も成せばなると!

 できるとおもったらできる、チャレンジをしましょうと締めくくられた。



 最後の写真は愛するご家族の写真、家族お一人おひとりを紹介された。そして奥様の功があったからこそ今日の自分がいると2回もおっしゃった。



 主催者側の閉会の挨拶がありました。



 サプライズです。長男の社長さんからアボジへの花束贈呈です。





 友人からの祝辞と花束の贈呈がありました。





 最後にやはりインボンさんが奥様を皆さんに紹介し感謝の花束を奥様に捧げられました。





 奥様も控えめに皆さんに感謝をのべられました。





 今日感じたこと、高さんの楽天性を見習わなければならないと思った。

 インボンさんの根底に流れるものは自分の民族に対する愛情、特にハングルに対する自負心と愛情だということ、

 人生一回きりだけど、いろんな体験をできたことは、すべて自分のプラスのなっているという前向きな思考方法、

 それがガンをも屈服させることができた大きな理由だということ、

 やはり一番大きいことは自分の考えを持つこと、なせば成るという信念を持つこと、失敗を恐れないこと、常に何事にも好奇心を持つことかな。

 心の広い方、心の底から尊敬できます。

 朝メールがありました。講演会終わったらいつでも一緒にたこ焼き食べに行こうと。

 (前々からの約束なんです。元気になったらたこ焼き一緒に食べに行くことが)
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尹東柱の詩⑲ 「病院」

2012-08-24 08:19:00 | 日記



 (1941年12月の尹東柱です。)


「병원」
            윤 동 주

살구나무 그늘로 얼굴을 가리고,병원 뒤뜰에 누워, 젊은 여자가 흰 옷 아래로 하얀 다리를 드러내 놓고 일광욕을 한다. 한나절이 기울도록 가슴을 앓는다는 이 여자를 찾아오는 이, 나비 한마리도 없다. 슬프지도 않은 살구나무 가지에는 바람조차 없다.

나도 모를 아픔을 오래 참다 처음으로 이곳에 찾아왔다. 그러나 나의 늙은 의사는 젊은이의 병을 모른다. 나한테는 병이 없다고 한다. 이 지나친 시련, 이 지나친 피로, 나는 성내서는 안된다.

여자는 자리에서 일어나 옷깃을 여미고 화단에서 금잔화 한포기를 따 가슴에 꽂고 병실안으로 사라진다. 나는 그 여자의 건강이 –아니 내 건강도 속히 회복되기를 바라며 그가 누워ㅆ던 자리에 누워본다.

1940.12




「病院」

                                ユン・ドンジュ

杏(あんず)の木陰で顔を遮り、病院の裏庭に横たわって、若い女が白衣の裾から白い脚をのぞかせ日光浴をしている。半日すぎても 胸を病むというこの女を訪ね来る者、蝶一匹もいない。悲しみもない杏の梢には風さえない。

わたしもゆえ知らぬ痛みに久しく堪えて 初めてここへ訪ねてきた。だが老いた医者は若者の病いを知らない。私に病いはないと言う。この堪えがたい試練、この堪えがたい疲労、私は腹を立ててはならない。

女はつと起(た)って襟をただし 花壇から金盞花(きんせんか)を一輪手折って胸に挿し 病室へ消えた。私はその女の健康が―いやわが健康もまたすみやかに回復することを希いつつ 女の横たわっていた場所(ところ)に横たわってみる。


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尹東柱の詩⑱ 「十字架」

2012-08-23 07:25:56 | 日記




「 십자가 」

윤 동 주

쫓아오던 햇빛인데
지금 교회당 꼭대기
십자가에 걸리었습니다.

첨탑이 저렇게도 높은데
어떻게 올라갈수 있을가요.

종소리도 들려오지 않는데
휘파람이나 불며 서성거리다가,

괴로워ㅆ던 사나이,
행복한 예수 그리스도에게
처럼
십자가가 허락 된다면

모가지를 드리우고
꽃처럼 피어나는 피를
어두워가는 하늘밑에
조용히 흘리겠습니다.

( 1941.5.31)




「十字架」

          ユン・ドンジュ

追いかけてきた陽の光なのに
いま 教会堂の尖端(さき)
十字架にかかりました。

尖塔があれほど高いのに
どのように登ってゆけるのでしょう。

鐘の音(ね)も聴こえてこないのに
口笛でも吹きつつさまよい歩いて、

苦しんだ男、
幸福なイエス・キリストへの
ように
十字架が許されるなら

頸を垂れ
花のように咲きだす血を
たそがれゆく空のもと
静かに流しましょう。

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