ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

「ソウルと大阪の狭間でー語る人・高仁鳳」に参加してきました。

2012-08-24 21:25:10 | 日記


FBチングの高仁鳳さんの講演会に行ってきました。仕事を終えてすぐに自転車で走ったので開演15分前に到着しました。



 貴重な資料集をいただきました。



 「ソウルと大阪の狭間で」 タイトルを見るだけでも圧倒されます。

 席に着いてすぐ、偶然奥様とお会いできました。初対面ですがお互いFbで毎日顔を合わせているので、すぐわかりました。
 
 思っていたとおり可愛い方でした。とても気さくで丁重なご挨拶をいただき恐縮いたしました。



 まず主催者を代表して岡田さんが講演会開催の経過などを簡単に説明されました。



 インボンさんはお話の初めに、本当は今日ガン克服の勝利宣言をしたかったが28日が検査結果の発表などで勝利宣言できないのが残念だとおっしゃりながら、克服万歳を2回もされました。皆さん心の底から暖かい拍手を送っておられました。



 パンフレットの中,生い立ちから今日までが70数枚の写真に集約されておりました。それをパワーポイントで画面を見せてくれながらお話がはじまりました。

 1941年5月1日、大阪市此花区大開町で生まれたこと、その地域がどんなところだったかを地図を見せながら簡単に説明してくれました。戦時中は豊岡へ疎開したこと、そして戦中、戦後大阪の森町で住んでいたことも。

 1945年8月15日祖国の解放を迎え、1947年母、兄と共に韓国へ、父は財産整理などで日本に残られたそうな。



  この写真はインボンさんが6歳の時、帰国直前に撮ったらしい。オモニと兄仁守さん(15歳)と一緒に。

  帰国して到着したところが「イリ」という町、翌年「イリ中央国民学校」へ入学。3年生の時に6・25事変(朝鮮戦争)勃発。
  戦争を機にインボンさんの人生は急変していきます。3年生の時から学校へは通えず、兄さんは軍隊に駆り出され戦場へ、
  



 この慰霊碑は味方だと思っていた米軍が「イリ」を砲撃したため犠牲になった人々を弔うための慰霊碑だと説明してくださった。



 1952年2月10日オモニが治療も受けられず、病名もわからぬままお亡くなりになられたそうです。

 オモニが最後に残した言葉を女の方が朗読してくれました。

 「私は死なないからね。お前を残しては死ねない。お前を一人ぼっち、残して死ねないよ。死ねない、しねない 死ねない 」

 兄は軍隊の引っ張られ母は亡くなり、インボンさんは孤児同然になります。

 親戚を頼っていったけれど、どこも台所は火の車でいたたまれなくなったインボンさんは、親戚の家を出て駅などで野宿しながら乞食生活をします。

 物乞いだけはどうしてもできずゴミをあさって暮らします。普通なら涙ぐみながら言うところをインボンさんは笑いながら言います。
 
「おかげさまで私は胃腸が大変丈夫です、今回もガン治療が成功したのは胃腸が丈夫だったから」と笑いながら言います。

 お米屋さんの娘が米を手に握らせてくれるのではなく鶏に餌をやるように土間にばら撒き、それを拾って食べたみじめな過去、それすらも笑いながら言うのです。

 「私、ごみの中からお米拾うの上手ですよ」と言いながらジェスチャ―されるのです。胸を締め付けられるおもいでした。

 *1953年7月27日休戦協定

 *チョルンと友達になった話

 *1954年兄に逢おうとソウルに行った話。

 *散髪屋で働いた話

 *兄が戦地から戻った話

 *1957年5月17日、ソウルを出発し大阪に到着したあと、アボジと住むようになった話。

 *その年の9月27日、建国中学校2年に編入したこと。

 *1959年4月、建国高校に入学したこと。新聞部で活躍したこと。

 *1962年4月、合成樹脂工業新聞社に入社して本名で活躍したこと。

 *1963年4月、大阪経済大学へ入学したこと。

 *1966年故国での夏季学校に参加したこと

 *1967年4月林芳子さんと結婚したこと

 *1968年1月西成区で韓国語専門印刷・僑文社を始めたこと。

 *1969年6月大阪市生野区桃谷の父の家へ移転したこと

 *70年万博で韓国館の仕事をしたこと

 *1977年1月現在地へ移転したこと。

 *1982年9月、ハングル電算写植機を導入し韓国より早く世界で初めて実用化したこと。

 *1990年1月、僑文社からケイビーエス株式会社になったこと。

 そしてインボンさんはいいました。「できるかな?にいつもチャレンジ」してきたと。何事も成せばなると!

 できるとおもったらできる、チャレンジをしましょうと締めくくられた。



 最後の写真は愛するご家族の写真、家族お一人おひとりを紹介された。そして奥様の功があったからこそ今日の自分がいると2回もおっしゃった。



 主催者側の閉会の挨拶がありました。



 サプライズです。長男の社長さんからアボジへの花束贈呈です。





 友人からの祝辞と花束の贈呈がありました。





 最後にやはりインボンさんが奥様を皆さんに紹介し感謝の花束を奥様に捧げられました。





 奥様も控えめに皆さんに感謝をのべられました。





 今日感じたこと、高さんの楽天性を見習わなければならないと思った。

 インボンさんの根底に流れるものは自分の民族に対する愛情、特にハングルに対する自負心と愛情だということ、

 人生一回きりだけど、いろんな体験をできたことは、すべて自分のプラスのなっているという前向きな思考方法、

 それがガンをも屈服させることができた大きな理由だということ、

 やはり一番大きいことは自分の考えを持つこと、なせば成るという信念を持つこと、失敗を恐れないこと、常に何事にも好奇心を持つことかな。

 心の広い方、心の底から尊敬できます。

 朝メールがありました。講演会終わったらいつでも一緒にたこ焼き食べに行こうと。

 (前々からの約束なんです。元気になったらたこ焼き一緒に食べに行くことが)
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尹東柱の詩⑲ 「病院」

2012-08-24 08:19:00 | 日記



 (1941年12月の尹東柱です。)


「병원」
            윤 동 주

살구나무 그늘로 얼굴을 가리고,병원 뒤뜰에 누워, 젊은 여자가 흰 옷 아래로 하얀 다리를 드러내 놓고 일광욕을 한다. 한나절이 기울도록 가슴을 앓는다는 이 여자를 찾아오는 이, 나비 한마리도 없다. 슬프지도 않은 살구나무 가지에는 바람조차 없다.

나도 모를 아픔을 오래 참다 처음으로 이곳에 찾아왔다. 그러나 나의 늙은 의사는 젊은이의 병을 모른다. 나한테는 병이 없다고 한다. 이 지나친 시련, 이 지나친 피로, 나는 성내서는 안된다.

여자는 자리에서 일어나 옷깃을 여미고 화단에서 금잔화 한포기를 따 가슴에 꽂고 병실안으로 사라진다. 나는 그 여자의 건강이 –아니 내 건강도 속히 회복되기를 바라며 그가 누워ㅆ던 자리에 누워본다.

1940.12




「病院」

                                ユン・ドンジュ

杏(あんず)の木陰で顔を遮り、病院の裏庭に横たわって、若い女が白衣の裾から白い脚をのぞかせ日光浴をしている。半日すぎても 胸を病むというこの女を訪ね来る者、蝶一匹もいない。悲しみもない杏の梢には風さえない。

わたしもゆえ知らぬ痛みに久しく堪えて 初めてここへ訪ねてきた。だが老いた医者は若者の病いを知らない。私に病いはないと言う。この堪えがたい試練、この堪えがたい疲労、私は腹を立ててはならない。

女はつと起(た)って襟をただし 花壇から金盞花(きんせんか)を一輪手折って胸に挿し 病室へ消えた。私はその女の健康が―いやわが健康もまたすみやかに回復することを希いつつ 女の横たわっていた場所(ところ)に横たわってみる。


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