<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

誰に言えばいいのか それは分からない

2018年12月31日 17時11分46秒 | Weblog

誰に言えばいいのか。それは分からない。どう言えばいいのかも、分からない。分からないがとにかく言いたい。お礼を言いたい。頭を下げたい。ふかぶかとしばらくそうして頭を垂れていたい。

 

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黄金白菜を抜いて来て鍋料理に

2018年12月31日 17時09分08秒 | Weblog

家に入る前に成長した見事な黄金白菜を1個引き抜いて来た。巻かない白菜だ。中心部が黄金の色合いをしている。土を落として、外葉をもぎ取って、捨てて、捨てられない部分を洗って、何度も洗って、その中心部の黄金部分だけを切り取って短く切った。これを今晩の鍋料理に加えてもらうことにした。中国菜のターサイも3個引いて来た。濃い緑色をしている。これは牛肉と同じようにシャブシャブして食べられるらしい。

 

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外へ出て行って外回りの掃き掃除をした

2018年12月31日 16時48分05秒 | Weblog

外へ出て行って外回りの掃き掃除をした。清潔感を覚えて、満足した。箒でわざと力を込めて箒目をつけながら掃いた。家の周囲の小径を一回り。芥(ごみ)はゴミ捨て場まで運んだ。それから今度は草取りをして過ごした。夕暮れになるとさすがに気温が下がる。鼻水を垂らした。で、切り上げてきた。風邪を引けば元も子もない。この老爺は草取りが似合っている。そこに漂っている静寂。ここに潜(ひそ)まる。これで落ち着く。

 

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大晦日のわたしの即興詩 「とろりんとろりん」

2018年12月31日 14時32分29秒 | Weblog

大晦日のわたしの即興詩 「とろりんとろりん」

とろりんとろりんは とける音 かたちがなくなって行くときの音 わたしの 形がなくなって行くときの音 とろりんとろりん 消えて行く 消えて行く 雪解けのように解けだして 一時間ほども掛かって なくなって すっかりなくなって 雲の中へ 消えて行く 雲の中へ消えたということも わからなくなる いままでわたしの形があったところには ふうわり春風が吹いている 蝶々が舞っている 花園の花が咲いている

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っまあまあ、大晦日だというのに

2018年12月31日 14時23分08秒 | Weblog

ふううっ。ふううっと居眠りしていた。炬燵に座ったその姿勢のままで。とろり。とろとろり。眠りに融けていた。まあまあ、大晦日だというのに。猫の手も借りたいほどの忙しいときなのに。それを素知らぬげに。

入眠ということばはよいことばだ。眠りに入って行く。眠りが迎えてくれる。眠りがふうわり抱きとめてくれる。眠りに融かしてくれる。ほんのりほんのり。するとほんのり心地よくなっている。午後2時半を回っている。

さてと、重たい腰を上げて、外へ出て、外掃除でもしようか。箒で箒の目をつけて。いかにもいかにも掃除をしましたよという形をつけて。表裏西東、庭の小径を。

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わたしに仏を念じる力などあるはずがない

2018年12月31日 13時25分20秒 | Weblog

ときどき、親鸞聖人の和讃を音読してみる。刺々しくして暮らしている老爺の暮らしを、これで暫時改めることにする。暫時もなかなか改まらない。改まるまで繰り返してみる。

無慚無愧の此の身にて まことのこころは なけれども 弥陀の回向の 御名なれば 功徳は十方に 満ちたまふ      親鸞聖人「愚禿悲嘆述懐」より

「回向(えこう)」は回し向けて下さること。「御名(みな)」は阿弥陀仏のこと。念仏を唱えること。「功徳(くどく)」は、阿弥陀仏が回向された功徳のこと。「十方」は、四方と四隅と上下。すなわち全方位。

「わたしが仏の御名の念仏を唱えると、念仏の及ぼす力がわたしの全方位に満ちて来る」というのである。わたしが力があったからではない。わたしは慚愧のこころすらない悪党である。わたしという悪党に力があるわけがない。仏を念じる力などあるわけがない。

回向とは、わたしがよいことをして、その善業を、相手に、若しくは死者に、振り向けてやることとされているが、浄土真宗では、そうではないのである。仏の方からわたしへという方向なのである。

わたしには仏を念じる力はない。仏の方がわたしを念じておられるのである。仏を念じることが出来るようにと六字の名号を差し向けて来ておられるのである。

そんなことこんなことを思って、しばらく、こころをやわらげてみる。

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仏とわたしとでは勝負にならない

2018年12月31日 12時06分58秒 | Weblog

願力無窮に ましませば
罪業深重も おもからず
仏智無辺に ましませば
散乱放逸も すてられず
親鸞聖人 「正像末和讃」より

願力は阿弥陀仏の誓願の力のことである。無窮は、窮まることがない。終わりがない。罪業深重は、わたしのことである。罪業の深く重たいわたしのことである。仏智無辺は、阿弥陀仏の智慧のことである。無辺だから、際限がない。散乱放逸は、わたしのことである。心が乱れて散り散りで、我が儘放題なわたしのことである。

阿弥陀仏とわたしとでは勝負にならない。同じ盤上に並べても並べることなど出来はしない。

その勝負にもならないわたしを正位置に据えて、願いを掛けて下さっている方がおられる。対極の罪悪深重の、わたしにお慈悲を垂れて掬い取って下さっている方がおられる。救われないのではないか、相手にされないのではないか、と、不安に思う必要はないのである。

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このブログを読んで下さっていた読者の皆さん どうかよい一年をお迎え下さいませ

2018年12月31日 11時53分52秒 | Weblog

この一年ブログ「おでいげにおいでおいで」を読んで下さったみなさん、有り難うございました。一年が今日でお終いになります。明日は、はや2019年の元旦です。みなさん、どうかよい年をお迎え下さい。

「おいでおいで」と呼び込んでいますが、読むに値する作品に乏しかったことをお詫びせねばなりません。

今日は穏やかな日和です。日射しがぽかぽかしています。無風です。来年一年が今日の日和のように穏やかであってほしいと願います。

この一年、わたしは、病気や怪我などはあったものの、ともかく無事に今日の大晦日に漕ぎ着けました。こうしてともかくも平穏な年の暮れに辿り着けたことを有り難く思います。

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飽食はしないでいい

2018年12月31日 11時41分06秒 | Weblog

いよいよ今日は大晦日。12月31日。お天気がいい。風もない。日射しが射して、おだやかである。寒くなると言う予報だったが、寒くない。

午前中に、家内に頼まれて、小さなスーパーまで出掛けて行って、正月用の刺身を1パック買って来た。3000円でも、そんなにたくさんはない。飽食はしないでいい。あるものを食べておけばいい。何を喰わなければならないということもない。お正月は、来るべくして、来る。店は客も少なく閑散としていた。

山里は、大晦日と雖も静かなものだ。そろそろお昼。お昼はうどんを茹でてもらって、釜揚げうどんで食べよう。醤油と鰹節を丼の底に敷いて。

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若者の歌う歌 「それからだった」

2018年12月31日 07時55分38秒 | Weblog

若者の歌う歌 「それからだった」

 

娘さん 声を掛けても いいですか 若者が 小さく 声を掛けた 娘さんは 若者の 勇気を 認めて 小さく肯いた それからだった 

手を取り合ったのは それからだった 愛し合ったのは それからだった 子どもが生まれたのは それからだった

娘さん 声を掛けても いいですか 若者が 小さく 声を掛けた 娘さんは 若者の 瞳の 小箱で 小さく 肯いた それからだった

手を取り合ったのは それからだった 愛し合ったのは それからだった 子どもが生まれたのは それからだった

作詞をしてみました。誰か、曲を付けてくれないかなあ。

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