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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしは空気を無料で吸っている。吸いたいだけ吸ってもいる。

2020年07月27日 14時45分50秒 | Weblog

わたしが吸う分の空気はいつもわたしの鼻の周りにある。

しかもそれが充満している。

わたしはいつもこれを無料で吸っている。

これがもしスーパーにしか売っていないとすれば厄介だったろうと思う。

今週は値段が上がったので、いつもの半分にとどめておこう。などということにはならないですんでいる。

ああ、よかったよかったと胸を撫で下ろす。

遠慮しないでいい。腹一杯に吸える。

肺が新鮮な空気を吸ってそれを全身に送る。そして全身で燃焼された炭酸ガスを吐き出す。

だったらこの地球は炭酸ガスだらけになってしまいそうだけどそうはならない。

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植物が炭酸ガスを吸ってくれる。そして新鮮な酸素を供給してくれる。

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酸素は腐ったりもしない。減ったりもしない。生じて滅せずを貫徹してくれている。

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で、何処にいたって呼吸困難にならないですんでいる。有り難い話だ。

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でもこの有り難さはあまり気にも留まらないでいる。あまりにも当然なことだからだろう。

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いまは呼吸に必要な空気のことを取り上げたけど、これはそのほんの一例に過ぎない。

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すべてがこうである。わたしが生きていくために必要な条件整備が完全に整っているのである。100が100,1000が1000整っているのである。不足をしないでいるのである。

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これは表現を変えれば、「わたしはこの世の一切に護られている」「この世のすべてから生かされている」という表現になる。

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吸いたいだけどれだけたくさんでも吸っていいですよ。でも、肺はその数量を心得ていて、欲張って一度にたくさんたくさん吸い込むことはない。

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そうしなくてもいいことを知っているからである。すべてが充足しているということがどんなに有り難いことなのか。今日は、ちょっとだけ味わってみたくなった。

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わたしは虫のいいことばかりを考えているならず者である。

2020年07月27日 13時37分35秒 | Weblog

「十方の諸仏に護念されているわたし」という設定はここちよい。

その設定は、しかし、わたしがたくらんだ設定ではない。

仏陀がわたしに説いているのだ。口を酸っぱくして説き聞かせているのだ。

わたしは面食らう。「え、この悪ガキのわたしをですか?」と聞き返したくなる。

「そうです」「あなたを諸仏が護念されています」と重ね重ねに念を押される。

経典の始めから終わりまでがこの仏陀の主張になっている。

7「恐れることはありません。安堵をしていていいのです」。これに終始している。

仏陀がことあらためて仏典に書き込んでいなくても、ことは同じである。わたしに言い聞かさなくても、ことは同じである。

同じだが、聞いた者は安堵を深くする。それだけの話だ。

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仏陀は平等である。従った者だけを優遇するということはない。従わなくても優遇は変わらない。変わるようだったら、仏陀とは言いがたい。

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念仏を唱えようと唱えまいと救うのが仏陀だ。わたしはそう理解している。仏陀の仕事は苦悩する衆生を救出することだ。救助隊なら、溺れている人から救うはずである。

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苦悩の深い者を差し置かれるはずはない。道を間違った者を、「それはあなたの自己責任でそうなったでしょう?」などと見捨てられるはずはない。無条件である。条件なしである。

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わたしはそのように受け取っている。そして「十方の諸仏に護念されているわたし」の安らかさに浸る。

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そうしてもらうだけのわたしか? ときどき疑問が湧き起こる。するととてもとても肯定ができなくなる。そうしてもらうだけのわたしではない。それにふさわしいわたしではない。その正しさがない。

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イクオールのマーク=では安定しない。揺らぐ。かずら橋が風に揺らぐように大揺れに揺れ出す。仏陀に護念されるわたし=それだけのことをしているわたし。この=が揺らぎに揺らぐ。かずら橋から脱落してしまいそうになる。

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息をしている。息をしているのは、わたしが仏陀に護念されているからである。もしも護念されていなかったのなら、わたしが此処にいて息をしていられるはずはないのである。そのようにも思う。

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すでに仏陀の手が回っているのだ。護念というのは観念の遊びではない。すでに仏陀の護念の完了の中にわたしが位置しているのだ、とも思う。

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わたしは仏法を聞いている者である。仏道を歩もうとしている者である。しかしながら、どんな修行もしていない。実践がない。ただ仏陀の声を聞いて、それで安堵をしようとしているに過ぎない。

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だから、ならず者である。遊び人に過ぎない。虫のいいことばかりを考えている者である。

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もっとも値しない者がここにいる。仏陀の護念の対象にふさわしくない者がここにいる。その最低のわたしでなければ、しかし、仏陀の護念のただ中を意識することもないのである。

 

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庭の餌場の雀のくず米が残り少なくなっています。

2020年07月27日 11時02分56秒 | Weblog

よく降るなあ。大空には大池があるのかなあ。その大池だってもう底をついているんじゃないのかなあ。

よく降るなあ。どしゃぶりが続くなあ。雨音が高く響いています。

こんなに雨が降り続くと僕は庭に下りても行けません。庭に設置している雀の餌場の、餌も残り少なくなっています。補充しに行かねばならないのですが、ためらっています。

小降りになったら傘を差して行きましょう。餌はくず米です。米屋さんで10キロを3000円で買い求めてきました。

雀は毎日遊びに来てくれます。雨が小降りになったら飛んできます。その数が日に日に増えて行っているように見えます。大群です。何家族かわかりません。

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猫のAちゃんはすこぶる甘えん坊です。

2020年07月27日 10時54分49秒 | Weblog

我が家に居着いている猫はAちゃん。Bちゃんはとうとう居着かないでどこかへ行ってしまった。もう何年もいます。雌猫です。おばあちゃん猫です。

Aちゃんは甘えん坊です。にゃあにゃあ鳴いて甘えます。独特の鳴き声を出します。人間とコミュニケイトをとろうとしている声です。

わたしたちもそれに敏感です。あ、いまは日頃の何倍も親愛の情がこみ上げてきているんだな、ということを声から察知します。

Aちゃんはこの大雨で外出ができません。ベランダの濡れ縁の段ボール箱に寝ています。寝るのが仕事です。

わたしの方を向いてはときどき甘え声を出して誘います。遊んでよ遊んでよ、顎を撫でてよお腹を撫でてよを主張します。

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「十方の諸仏に護念されているわたし」に泣く。

2020年07月27日 10時16分11秒 | Weblog

若(も)し毎日、(観世音菩薩の陀羅尼を)一百八遍を誦(じゅ)すれば、万病消滅し、寿命長遠にして、常に十方の諸仏に護念さるるなり。    「仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経」より

いいですねえ。十方の諸仏がいつも護念してくださっている、というんですよ。十方とは上下2方向と左右、東西南北の8方向。つまり全方位です。全方位にたくさんの仏陀がおられて、わたしを取り囲んで、わたしに手を合わせて心に念じて守り抜いてくださるというのです。そういう図式をわたしは描いてみます。その図式の中心にはわたしがいます。

十方の諸仏に囲繞されているわたしは、病になるはずがありません。平等を尊重される仏陀は、わたしをも仏陀にしてくださっていますから、仏陀と同じくわたしの寿命も計り知ることができないくらい長遠です。

陀羅尼を一百八遍唱えているというのは、諸仏に同位しているということです。諸仏になりきっているということです。「無生法忍(むしょうほうにん)のわたし」ということに安らいでいるということです。

十一面観世音菩薩は、その成仏の方法を熟知しておられる方です。衆生を仏陀と等しくするというスキルを熟知して、これを衆生に実践付与して利他行を勧めておられる方です。

陀羅尼(だらに)はサンスクリット語でダーラニー。その音写語です。真言とも意訳されます。口に唱えるマントラです。マントラを唱えてこころを統一調整するのです。身をただすのです。この世を生きる者はみな「仏陀と等しい存在」であるということを体感してしまうのです。仏に成り切ってしまうのです。それ以外の邪念を放棄してしまうのです。

十一面観世音菩薩の陀羅尼は、オンマカキャロニキャソワカです。陀羅尼を唱えるのは方便です。通過点です。そこを通過してその先の大宇宙、無始無終の「いのちの世界」「仏のいのちの世界」に出るのです。

観音菩薩は仏陀の実行部隊の隊員です。わたしたちが理解できるように変化をして出現されます。わたしたちが理解できるような方法を駆使されます。わたしたちと仏との橋渡しをされている方です。キリスト教でいうならさしずめ大天使に相当するでしょうか。

わたしたちは仏陀を直接的には理解し得ません。掴み取ることはできません。ですから、方便が介在していなくてはなりません。わたしたちは方便の石ころを伝って向こう岸に渡って行くのです。石ころを見てそれが正しい正しくないというふうに考えているとそこで立ち止まってしまいます。陀羅尼も方便です。経典も方便です。渡されている手綱です。手綱に引かれて涅槃の岸へ渡って行きます。

今日はそんなことを考えました。これはわたしの理解です。普遍性はありません。だから他者に強制できるものではありません。

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7月の台風がありません、これはいいことなんですが。

2020年07月27日 07時38分01秒 | Weblog

おはようございます。雨が降り続いています。

大洪水が起きそうなほどの豪雨レベルの雨量でした。これが夜中ずっと降っていました。雨音が高くて凄くて何度も目を覚ましました。

地球規模の異常気象ですね、これはやはり。どうなるんでしょう、これから?

しかし、今週いっぱいで梅雨明けするとの予報もあるようです。明けたら今度は真夏日が照って、照りつけて、暑さで辟易してしまいそうですね。

7月に入っているのに、まだ台風が来ていません。一回も。有り難いことです。なんだかしかし、恐いですね。そのうち超大型台風が発達しそうで。

 

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