長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

箕輪城

2012年09月03日 | 落城戦記


×噛みつけ。○上毛野。

上毛野(かみつけ)とは群馬県の古い国名です。後に上野(こうずけ)となり、そちらの方が有名化と思います。こんな名前を持ち出して我々を試してくるとは、なかなか侮れないぞ箕輪城。
まずは、我々が上州へ侵入したことを改めて認識させてくれた看板です。

そんな箕輪城メモ。
箕輪城は、武田信玄を退け続けた関東管領上杉氏の重臣、長野業正の居城として有名。業正の子業盛の代で武田に滅ぼされてしまい、その後には武田四天王の一人内藤昌豊が入ります。武田滅亡後は一瞬、後北条氏が占領しますが、織田信長が当然のように進駐し、部将滝川一益が入城。本能寺の変後には後北条氏の部将北条氏邦の持ち城になります。この氏邦は、豊臣秀吉の関東惣無事令発令後に真田家の名胡桃城へ突如侵攻。激怒した豊臣秀吉に小田原征伐の口実を与えてしまいます。天正18年(1590年)の小田原攻めの際、落城。
その後、徳川家の関東国替に伴い、やさぐれひこにゃん井伊直政が入城し、慶長三年(1598年)高崎城落成と伴に廃城となります。

めまぐるしい。しかも、名のある武将が次から次へと。
それだけ重要な地と言えるのでしょう。

さて、駐車場から伸びる道は箕輪城搦手口でした。
持参した『日本名城百選』(小学館)の地図には、搦手口方面に見事な丸馬出が描かれているため、まず見に行く。なんと、関東地方で唯一の現存丸馬出だとか。やはり、武田や徳川の手が入っているからだろう。ならば見に行かねば。

と、やってきたのですが、鬱蒼と草が生い茂り地形的にも高低差があまりなく、よくわかりませんでした。。。どうやら耕作などで本来の高低差がなくなっているようです。

ちょっとがっかりしながら、搦手口から城内へ侵入。
しかし、本丸へ至る堀を歩いていくと、そこはまるで五叉路。


堀底から周囲の曲輪を見てみると、どえらい高低差があります。


呑気に城内へ侵入した我々は、ここで殲滅されるわけです。
四方八方から矢が飛んできて前へ進めない。何とも恐ろしい。こんな枝分かれの激しい巨大迷路みたいな城は初体験と言ってよいかも。攻撃側にしてみれば、どこへ行ったらいいのか検討がつかない。と、いうか、身を守ることもできずに呆然としているうちにやられてしまいそうです。
これは自然地形ではなさそうですが、人工物だとするとこの土木量を可能にしたのは、武田?北条?徳川?はたまた長野?
一体誰がこんなマニアックなもの作ったんだ、いう疑問が残ります。

本丸へ至る遊歩道が整備されていたので、我々は矢玉が飛んで傷だらけになっている自分を想像しながら、進みます。


遊歩道の終点には公園として見事に整備された曲輪が現れました!堀底の険しさからは想像も付かない削平地です。


しかし、そこは本丸ではなく「御前曲輪」なる場所でした。


ここは、本丸の更に奥にあたり、いわゆる詰丸(つめのまる)。実際、武田の攻撃を受けた長野業盛はこの曲輪で自刃したそうです。
井戸もあり、


本丸との高低差はなく、堀で区切られ土橋的な細い通路でつながっています。水も確保でき、本丸から退避して時間を少し稼げる場所だけに、城における最期を飾る場所としてはふさわしい感がありました。
そしてこの曲輪からは大手側から堀底を回りこんできた敵が一望できる場所があります。

堀の左右は絶壁に近く、御前曲輪と左右の曲輪から攻撃された敵は相当なダメージを受けることになります。

御前曲輪から本丸へ。
本丸は北と言うか東側、川と反対側に土塁が設けられています。長野氏時代にはこちらが大手だったという話も聞きますので、防御が厳重なのでしょう。


この本丸がとにかく広い。軍事拠点ではなく居城だとするとコレくらいの広さはいるのかもしれません。


本丸から二の丸へ至る虎口の辺りに石碑が建っています。

ちなみに、この辺りには関東では珍しい石垣が見つかったそうです。

本丸虎口を越えるとちょっとした広場があります。馬出と説明されていますが、ちょっとわかりにくい。広場からは二の丸へ向かう道と長野氏時代の大手へ向かう道に分岐しているようです。柵や塀などの建造物があると、もっとこの広場の意図がはっきりするかもしれません。

さて、広場の反対側を眺めてみると、本丸土橋に対して横矢がかかるように本丸が飛び出ています。

急傾斜の土塁と組み合わさって相当なものです。なんか名古屋城的な近世城郭を見ている気がしました。そして、この辺りから我々のテンションが上がり始める。やはり大手側に工夫が凝らされているようで、見ごたえがあるのはこちらなんですね。

二の丸からつながる馬出曲輪へと向かう。


見事な土橋。相当な高低差があります。堀底から見上げるとこんな感じ。


二の丸の橋頭堡と言えるこの馬出曲輪。しかしながら、外へ出る土橋は1方向となっています。馬出というより、直角に折れた土橋の角部分が巨大に膨らんで曲輪化したような感じです。「馬出」というよりも「複雑な郭配置」と言った感があります。正直、図面を見ながらでないと馬出と認識しにくい。この後訪れる北関東の城には、こうした工夫・曲輪が多く、この辺りの特徴のように感じました。

とにかく、土橋、曲輪、土橋、曲輪、で、何がなんだかわからなくなってきます。

※珠光の今回の旅の決めポーズ。意味は無い。

とにかくこの城は横矢掛かりまくりの迷いまくりで、考えている間に秒殺されてしまうことでしょう。


その後、二の丸から三の丸へ向かいます。


すると、奥に石垣発見!


関東には石垣の城が少ないだけあって、なかなか貴重なものをみせてもらいました。高さは2~3mといった高さでしょうか。さほど高さは無く、石の組み方も野面というか、なんとなく素朴な感じを受けました。

その後、本丸下の堀底を通っていると、またまた石垣発見!


草で見えにくくなっていますが、上部が破壊されているようで城割のあとではないかとの指摘もあります。(『日本名城百選』小学館)
ここまで来ると、最初の五叉路部分に戻ってまいります。

いや、とにかく規模がでかいのと、郭配置がわかりにくくなっています。途中途中で見る景色は、いつまでたっても迂回が続いて本丸に続かない、そんな感じです。
また、堀も大規模。鉄砲などの使用を想定しているのかもしれません。

所有者が変転したことで、一体誰がこの城をここまでにしたのか、が、わかりにくい部分がありますが、一度見て回ると、そのすごさが実感できます。
信州や三河とは違った城の感覚を受けます。

それぞれ特性があるんですねぇ。

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