長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

昼の風景

2015年02月22日 | 日記
先週のことです。

朝に子供を幼稚園の送迎に使った自転車を返しに行きがてら、昼に飯を喰いに家に帰っております。
昼からは歩きで職場に戻るので健康を気にして階段を使って7階から降りてくるのです。
もう取り壊す予定の人気の無い社宅が建ち並ぶのが南側に見えるのはいつもの景色なのですが、スーツ着た男性と背が低い社会人と思われる女の子が私に背を向けて歩いているのが見えました。
手をつないだり、くっついたり離れたりとラブラブな様子。
こんな平日の昼間に元気なものだな、と、思った瞬間。

いきなり男性が女性に覆い被さる。

『きゃー!!ちゅー?!ちゅーなの?!こんな真っ昼間に?』

私は混乱した。

向こうは背を向けているが、こっちは向こうを見下ろしているので丸見え。
なぜか、私は罪悪感を覚えてドギマギする。

いや、女の子はこちら側を向いているので、ことが終わると私が見えてしまうかもしれん。
が、こんな場所、こんな時間帯にしてる方が悪い、などとぐるぐると考えが巡る。

思考と同様に階段をぐるぐると回って降りているため、私は彼らの視界に入るタイミングがある。
どうか、次私が彼らを見下ろすときには終わっていてくれ、と、願う。

まだしてるし!

思わずツッコミたくなりますが、騒げない。
結果的に2階分を降りて、ようやく彼らは離れた。

その後、私は同方向に歩かねばならず、丁度つかず離れずの距離で同じ方向に歩いて行くことになり、まるでストーカーのよう。
結果的に、男性は私の会社の隣のビルに消え、女性は地下鉄方面へ歩いて行きました。

なぜか私が動揺してしまいました。

が、若いって、いいね、と、ほほえましく思ってしまった自分は、既におっさんだ。

満光寺の鶏 進捗状況

2015年02月20日 | 日記
満光寺の鶏の話を書き始めましたが、これまた名倉船渡橋のときと同じように、迷走の森に突入し始めました。

それなりに考えて書き始めるのですが、書き始めてから、再度史料やら本やらを読むと
「え?」
と、いう事態が発生するのです。

ただ読んでいるだけだとスルーしてしまうことも、ブログに書くと決めてから読み直すと、今まで気が付かなかったことが一杯出てくるのです。

元々元亀2年を巡る話が複雑なので、このあたりをしっかり調べようと思いつつ、あまりにも説が多くて整理するだけでも大変。結局書き始めた方が早いと書き始めましたが、やっぱり素人の手には負えない。

と、いうか、面白すぎる。

奥平貞能と武田氏の文書のやりとりを見ていると、なんとなく推論が浮かんでくるものがあったり、そうなると古宮城の存在って、奥平氏にとっちゃなんじゃそら、という感じになるかもしれんよね、とか、長篠の戦いに至るまでの長篠城を巡る争奪戦をしっかりと整理して無かったとか、自分の中で「元亀2年の武田信玄本隊による奥三河侵攻は無かったとしても『秋山虎繁単独犯行説』は、どうやって整理しよう。」とか、よくよく考えても見ると三方ヶ原の戦いをよく理解していなかった、・・・、とかもう、それこそ次から次へと浮かんでくるんですね。

だから、ブログを簡単にまとめて肉付けしようとしたら、何を書いてるんだか自分でもわからなくなってきました。
これは、整理するのに時間がかかるわぁ、と、泣きそうになる。

それこそ、3日程度集中して読み込めば、ブログの記事としてまとめることができそうですが、そんな時間を確保できるような余裕はない。細切れ時間の中でのろのろと進んでいくしかないとなると、自分の中の湧き上がる疑問を整理しながら「満光寺の鶏3」を書こうとすると、後1ヶ月はいるかな、というのが予想です。

まぁ、好きでやってるわけですから、1年かかろうが2年かかろうがどうでもいいのですが、今回改めて思ったのが「書くと整理される。」ということ。
現時点で一度整理しておけば、そこから修正を加えて発展させることが可能ですが、書かなければいつまでたっても知識がスライムのようにぐねぐねとしたまんま。

なので、一度ものすごく粗い内容でも満光寺の鶏シリーズを年度内に書き上げたい、と、思っている次第です。

と、全く書けない事の言い訳を。

満光寺の鶏 その2

2015年02月14日 | 日本史
前回からつづく。

元亀年間(1570年~1573年)が厄介、ということで前回は終わりました。
なぜかというと、奥三河を巡る元亀2年(1571年)の武田の動きに議論があるからです。

武田氏は元亀2年に奥三河に侵攻して、足助やら長篠やらを荒らし回り、豊橋の吉田城やら遠江も攻め込んだ挙句に、ぷいっと帰った、と、されていました。この話が本当だとすると、徳川家康がこの時に武田信玄から逃げていった可能性も考えられる。

が、元亀2年(1572年)というのは元亀3年の1年前。(当たり前。)
元亀3年に何があったかというと、この年の12月に徳川家康が小豆餅の食い逃げ未遂や馬上脱糞疑惑を引き起こしたのです。細かすぎて伝わりにくいと思いますが、武田信玄が浜松城まで迫って来たものの、謎の反転をしたため城から出た徳川家康がフルボッコにされた三方原の戦いが発生したということです。小豆餅や脱糞はその際の逸話として有名です。

その翌年元亀4年(1573年。7月から天正に改元。)には、三方原の勢いで野田城を囲んだ武田信玄が鉄砲で撃たれたとか撃たれてないとかの事態が発生します。そして、元亀4年4月に武田信玄は死にます。
「げんき」年間なのに。。。
まぁ、この歳は天正でもあるので、天正に昇天(てんしょうにしょうてん)したのでしょう。

・・・。
皆さんが呆れている顔はよくわかりますが、すごく言いたかったので書きました。お許しください。

さて、市町村史を読んでいると、元亀2年に侵入した割には翌3年の侵入にあたって、前年のことは無かったかのような記述が多いので不思議に思っていたのです。そしたら、2007年に回答を出している人がいました。

東大准教授(当時)の鴨川達夫氏です。

たまたま小和田哲男静岡大学名誉教授の話を聞いていた際、鴨川氏の話が出て「元亀2年の侵攻はなかった。」と言ったことにえらく仰天して、それこそ家康並みに脱糞しそうでした。(「しそう」であって「してません」。)

そのあたりの話は、3年ほど前に一度書いております。

鴨川氏の「武田信玄と勝頼 文書にみる戦国大名の実像」(岩波新書)の174頁に


駿河を手中に収めたあと、元亀二年(1571)の初めから翌年にかけての信玄の行動は、いまひとつはっきりしない。一般には、元亀二年四月に、三河の足助城や吉田城、つまり徳川家康の領国を攻めたとされる。

と、当時の通説に疑問を呈した後、

四月の三河攻めは、天正三年の勝頼の行動なのであって、「元亀二年四月の信玄の三河攻め」は、まったくの虚構なのである。

と、きっぱりと否定しています。その理由として175頁に

「「家忠日記増補」と呼ばれる書物がある。その元亀二年四月の項に、次のような記事がある。
 信玄兵を信州より発して足助の城を攻めんと欲す 
 「四月」と「足助」の二点で、書状と記事がぴったりと一致する。これが根拠となって、元亀二年説が生まれたのだと思う。しかし、「家忠日記増補」という書物は・・・(中略)・・・後世にまとめられた著作物である・・・(中略)・・・作者はそれ(うらにわ注;足助城攻略の書状)を読み、元亀二年のものと判断して、さきほど掲げた記事を書き上げた。ところが、その記事が鵜呑みにされて、今度はまったく反対に、記事をもとにして問題の書状が判断されるようになったのである。


とあります。

要は、徳川家康の配下だった松平家忠の孫が、祖父が関係する古文書を見ながらブログを書く際、ある古文書の年代を間違えてブログに書いた。そしたら、後世の研究者はブログを信じて、ある古文書を孫が間違えて書いた年代のものとして扱うようになった、と、いうことです。
ちなみに、昔の文書は月日は書いても年号は書かないのが一般的なのでこういうことが起こるそうです。そして、

「元亀二年の段階では、信玄は依然として上杉謙信とも北条氏康・氏政とも敵対していた。その上さらに家康・信長とも敵対し、進んで三方を囲まれるような状況に陥ることは、さすがの信玄も避けざるを得なかっただろう。」
「もっとも、北条氏との敵対関係はまもなく解消され、元亀三年に入ると、三河や遠江に攻め込むことも、比較的安全に実施できるようになった。」
「元亀三年十月五日付けで、信長が信玄に届けた書状が残っているが、その文面にはまったく異常がなく、信長が信玄とはなお友好関係にあると認識していたことを示している。
」(以上176頁)

信玄は永禄11年(1568年)に、それまで同盟を結んでいた今川氏と同盟を破棄。駿河に侵攻します。
これにより武田、今川、北条の三者間同盟が破れ、小田原を根拠に関東地方を抑えていた北条氏が敵になります。元亀2年の年末に北条と和睦して再度同盟を結ぶことで、信玄は東が安全になり西に向かうことができる状況ができると言ってます。
なので、元亀2年の2月に信玄が三河などを攻めていると、北条は容赦なく信玄の領国である甲斐や駿河に攻め込んでくるので、状況的に無理でしょう、と、いう解釈です。

さすが東大の先生だけあって、明快です。私のようなものでも大変わかりやすい。

ところで、面白いのはこの説が発表されると、研究者の皆さんが元亀2年を否定した場合の論文を発表し始めます。と、いうことは、きっと誰もが

「元亀2年の武田の三河侵攻は変。」

と、うすうす感じていた、ということでは無いかと思います。笑。

まぁ、戦国遺文武田氏編や愛知県史資料編が編纂されたことで、古文書が年代毎に整理され、比較できるようになったことから辻褄が合わない部分が昔よりもわかりやすくなったことも研究が進んだ一因では無いかと思われます。

そして、改めて自分の目で元亀2年とされている文書を戦国遺文武田氏編3から読んでみる。
遠州・三河に侵攻したことが書かれている文書は文書番号1702~1705と1710、1725です。
特に1703と1704には山家三方衆が武田方の案内者として記載されているうえ、作手を拠点に武田軍が出発している様子が記載されています。
1702~1704の文書は内容が鴨川氏の言うように長篠の戦い直前の状況と酷似。天正3年の文書と考えると確かにすっきりする。(1702は勝頼、1703は信豊、1704は山県が発給者)

が、信玄が発給している1705、1710、1725は元亀3年の三方原の後の文書のように読めます。
これらが多分ごっちゃになっているのも混乱の原因かもしれません。

そして1775の元亀3年1月28日文書では、信玄から信長の秘書武井夕庵あてに「北条と私は和睦になりました。三河とか遠江に関して噂があるようですが、たとえ日本の半分が自分のものになっても、なんで信長さんを裏切るようなことがあるでしょうか。変な人の噂を信じないように取り成してください。」などと言ってます。
もし、元亀2年に三河と遠江に侵攻していたら、こんな文書を出す事自体がありえない。攻めておいて家康の兄貴分の信長に「いや、噂ですから。信じないで。」というのはいくらなんでも無理があるでしょう。て、いうか、そんな気を使う必要が信玄にあるとは思えないし、信長が「そうですね。」と信じたら戦国大名失格でしょう。

と、いうことで、武田信玄の軍勢に徳川家康が山吉田近辺で追い回される事態は、元亀元年と元亀2年にはなさそうだ、ということはわかりました。

では、次は実際に追い回されたと思われるところへ話が進みます。
つづく。

古宮城取り上げられる!

2015年02月12日 | 古宮城
満光寺の続きを書こうかと思いましたが、ちょっと嬉しい記事がありましたので変更して御報告。

本日中日新聞朝刊をご覧になった方も多いのではないでしょうか!



お城博士の千田奈良大学学長が連載している「城に歴史あり」で古宮城が大きく取り上げられています。

古宮城を「信玄の城の最高傑作は山梨県ではなく、愛知県新城市にある」とまで表現されています。

土の城の一つの到達点、ともあって、古宮城の素晴らしさが遺憾なく表現されています。

惜しむらくは発掘調査がされていない、と、書いてありますが、その通り。
とは、いうものの、個人所有地もあるわけですから、そうした兼ね合いもあるのでおいそれとはいかないでしょうが、やはり、城の第一人者に認められただけに、是非実現されると良いと思います。

地元の人たちによる清掃活動についてもちらと触れられていますが、今年も実施したいとおもいますので、是非ご参加を。

満光寺の鶏

2015年02月11日 | 日本史
 最近、ブログの更新が滞っているのは、本業が忙しかったこともありますが、気になったことを調べだしたらドツボッた、ということもあります。

 それは「青龍山満光寺」。

 新城市山吉田にあるお寺です。
 

 遠州流の見事な庭があります。

 
 なかなか面白い逸話を持っているので、まずはご紹介。

〇 家康公の危機を救った満光寺とニワトリ

 1570年頃(元亀年間)家康が若い頃、武田信玄の軍勢に追われて逃げる途中、満光寺に一泊し、一番ドリが鳴いたら起こせと頼んで寝ました。ところがその夜半に突然ニワトリが鳴いたので、住職が家康一行を起こした。一行は大急ぎ闇の中を出発した。夜明けと共に武田軍が寺を包囲したが、家康一行は危機一髪命拾いした。家康はこの恩がえしとして、満光寺のニワトリに三石の扶持を与えた。その後、1649年(慶安二年)家光から寺領二十石が与えられた。「山の吉田の満光寺さまのとりになりたや、にわとりに」と、今でも民謡として歌いつがれている。
(満光寺パンフレット)

 お寺にあった説明書きではもう少し詳しく書かれており、
「家康は慶長六年(1601年)伊奈備前守忠次を通じ、鶏に三石の黒印状を与え感謝したという。」
と、あります。

 ちなみに、このお寺、鶏がいました。今、三石は与えられていなさそうです。


 さて、この話。
 いつ徳川家康が逃げたのか、そして、どういうシチュエーションで、具体的にはどこからどこへ何の戦いで逃げたのか、ということが気になっていました。
 どうせ、調べればすぐにわかるだろう、と、思って調べてみると、意外にも「元亀年間」という、ぼやっとした話ばかり。「なぜ?」と思い、そのうち調べよう、と、思っていたら名古屋へ帰る羽目に。
 一度、同じように調べている人がおり、その人は浜松から長篠へ家康が向かったと思っていました。

 が、私は根拠がある訳ではないのですが、浜松を放棄して家康が信玄から逃げていく、というシチュエーションは考えられないので、それは無いだろう、と、内心思ったことを覚えています。(浜松を放棄して家康が逃げたら、遠江は家康領国として存在しえなくなります。)

 久々に気になってネットで調べていたら、「山吉田の部屋」という謎の頁を見つけました。たぶん、山吉田財産区のホームページだと思われます。
 かなり詳しく書いてあり、現在更新されているかは不明ですが、何がすごいって、黒印状の写しと思われる写真も載っているのです。
 
 この写しを読んでおりましたら、山吉田村は八名郡だったんですね。
 新城市に住んでいるとき、長篠付近の方々と山吉田の方々は交流があまりない印象を受けました。と、いうか、山吉田が地域の中で浮いている、という感じです。その時鳳来町史を読んでいたら、鳳来町になるための合併時に、山吉田村の取り扱いが問題となり、山吉田は独立して存在する案もあったと書いてありました。それだけ、独立の気風が強いのが不思議だったのですが、豊川西側の設楽郡と郡が違う。どうにも、この郡が違う、というのが風俗や気質の違いにつながり、地域的な交流がない、というのが印象です。

 話が逸れました。
 
 山吉田の部屋なるHPによれば、満光寺パンフの中の民謡は、領主交替で年貢が苦しくなったのを受けて、三石の扶持を受けている鶏を羨んで詠んだ、と、されており、パンフだとただ単に羨ましい、という話ですが、結構切実な響きを持った歌と言うことが分かります。

 また、伊奈備前がなぜ登場するのか、という点も、検地奉行として当時天領だった山吉田を訪れた伊奈備前が逗留先として満光寺に泊まり、話を聞いたら色々と由来があるので三石の黒印となった、と、理由がそれぞれ書いてあります。ちなみに、寺領の発給文書としては黒印状を用いられるそうなので、黒印状を貰っている、ということは、かなり正確性を持っていると考えてられます。

 が、ここまで精確に書かれているのに、私の知りたい「いつ鶏が鳴いたのか。」という肝心な点については、
「元亀元~3年」
 と、残念ながら幅を持たせて書いてあります。

 無念。

 久々に、史料を読みながら調べてブログに書こうと思ったのが運の尽き。
 元亀年間は、厄介なのです。

 久々に、つづく

セクシー牛蒡

2015年02月07日 | 日記
新城のアグリホリックさんから宅配野菜を購入しています。

なかなか珍しい野菜も多くて、名古屋では滅多にお目にかからないものを食べることができるのが嬉しい。

この歳になると野菜を食べたくなることも多くて重宝しています。

そんな中、こんな牛蒡が。



妻が妙に反応していました。

ちなみに他にも


こんなのが。

夜中に起動するかもしれません。