長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

棚橋庄介 ~飯時注意報~

2012年07月31日 | 戦国逸話
 戦国時代の合戦といえば、血沸き肉踊る話や知恵比べを楽しむ話などがありますが、実際の戦場の模様っちゃ結構悲惨だったんだろうな、ということはなんとなく想像できます。今に残る合戦図屏風でリアルに首とかを取られている人なんかもいたりする訳です。
 で、武功雑記を読んでいましたら、ひぇぇな話が出てきましたのでご紹介。
 あ、飯時の方は食べ終えてからの方が良いかも。

○棚橋庄介さん(武功雑記 巻三)
 金森出雲守が美濃の郡上へ後詰した際、家臣の棚橋庄介は腹を鑓に刺されて腸が出た。
 しかし棚橋。明日の戦いの為と言って、傷口の上に弁当箱を伏せて縄でくくりつけた。翌日の戦いでは一層素晴らしい働きをして名を挙げた。腸の傷も腹の中に戻って何事もなく治った。
 庄介は後に松平出羽守に仕え70ちょいで亡くなった。
 その折、子どもや親類を呼び寄せ「ワシは今日死ぬ。」と言って過去の武功の話などをして聞かせた後、「死んだ後の体を見せるのはいやじゃ。」と言って大きな袋の中に入った。
 「さぁ口を締めろ」といって口を締めさせ、死んだという。

 戦国時代というのを現在の感覚で推し量ると「うぇぇぇ」とドン引きしてしまうようなことが多い訳で。
 傷口に弁当箱当てて、「右の傷もとくと内へ入り平癒せり」と言ってるくらいですから、弁当箱の中に腸を詰めたんだろうな、ということが想像できます。この時代、ウインナーが無くて良かったな、と。
 棚橋さんがこの後弁当箱のウインナーを見ては「う・・・。」とならずに済んだ訳ですから。
 自然に腸が中に戻って何よりですが、腹膜炎などを起こして死んでしまう人もいるわけでしょうから、運が良かったという部分もあるでしょう、きっと。
 だいたい、腸が出た状態で人間戦えるんだな、と、いうことに驚かされます。まぁ、当時でも驚いたので記事になっているのだと思いますけど。

 その後、この棚橋さん、結構な変人振りを見せます。「ワシ死ぬ。」と宣言して、死ぬ際に自分で用意した袋の中に入って亡くなった、とのことです。
 いわば『入定』したようなもので、僧の即身成仏に近いものがあります。
 
 なんだかよくわからない状況ですが、この時期、勇気をどれだけ見せられるか、が、男の価値だったのかもしれません。だから弁当箱で傷口塞いだり、袋に入って死んでみたりと「俺、痛いの平気」「俺、死ぬの怖くないから」的な感覚があったように見受けられます。

 まぁ、そういう時代に産まれれば「そんなもんか」と思うもんなんでしょうか?
 平和な今の日本に生まれて良かった、と、思う話です。

豊臣秀吉と泥鰌

2012年07月29日 | 戦国逸話
最近本業で休みがほとんど無く、平日夜も仕事だらけでしたが一息つきました。久々にブログを書かねば、と、ネタ探しを。
最近話題にしている『甲子夜話(かつしやわ)』を読んでも「これだ!」というものがなく、甲子夜話の作者松浦静山の先祖松浦鎮信が書いた『武功雑記』を読んでいたら、「ほぉ」というものがありましたのでご紹介を。

○豊臣秀吉と泥鰌(武功雑記 巻十 2頁)
 徳川家康の配下に河合善右衛門というものがいた。自分の田んぼの畦(あぜ)を見事に作ったところ、豊臣秀吉がまだ身分が低かった頃、泥鰌を掬おうとして河合の畦を踏み壊して通っていくのを見て「憎い奴だ!」と、皆で秀吉をボコボコにした。
 秀吉が天下を取った後言うには、「三河に河合というものはいたが、今は何している?」
 皆「その者は既に無くなっておりまして、今は子孫も定かではありません。」と申し上げると秀吉は「その者がいれば、昔の話をしようと思ったのだがのぅ。」と言ったとか。

 秀吉が矢作川の橋で寝ていたところを起こされたのが蜂須賀小六との出会い、などという話が有名ですが(矢作川での小六との出会いは後世の創作の可能性が高い)、秀吉が三河をウロウロしていたことは間違いなくあったでしょうから、泥鰌はその時の話でしょう。

 河合善右衛門にしてみれば、田んぼに水を張るため苦心して水が漏れないように畦の泥塗りをし終えたのでしょう。やれやれ、綺麗にできたわい、と思っていたら、どこからともなく見慣れぬ男がやってきてぶち壊していかれた訳なんで「この野郎!」となったのも、いたしかたないのかもしれません。
 奥三河では「へぼ」という地蜂の子を食べる習慣があり、地蜂の巣を見つけるため追いかけていくときに、うっかり他人の土地を踏み荒らしてしまうことがあり、「へぼ追い禁止」という看板が立っているところもあります。
 秀吉はへぼではなく泥鰌を追っかけて、うっかりと畦を壊してしまったのではないかと思われます。わざと壊す必要もないですからね。それでエラい目に遭わされてしまったようです。回りが見えなくなるほど没頭すると言うのは若さの特権ですから。

 ところで、翻刻版には「・・・御尋候。何れも其者はとく相果・・・」とあり、どうも秀吉は河合について聞きまわっていた感じがあります。『何れも』と複数人が回答しているようなので。

 そこまでして河合を探していたのは何故なのか?
 と、いう疑問があります。

 「・・・秀吉公其もの今に居はば。昔の体を云ふものをと被仰候。」と締めくくられています。秀吉の述懐にある「昔の体を云ふものを」という件ですが、
①昔は貧乏でぼこぼこにされたが、今となっては、あの頃の嫌味を言うことで、こんなに偉くなった自分を確認しよう。
②昔は貧乏でぼこぼこにされたが、未だに恨みが消えていないので、恨みをはらしてやろう。
 という二つが考えられます。
 徳川家康の配下であれば、そうそう秀吉も②のような対応が取りたくても取れない可能性がありますので、①っぽい感じもしないではないのですが、そこは戦国時代。聚楽第の番所に『猿関白』と落書きされて犯人探しをして捕まらなかったので、番所に当直していた全員の殺害を命じた秀吉です。②、ということも十分考えられます。

 ちなみに似た話が徳川家康にもあります。
 駿河での人質時代、隣の家に徳川家康が飼っていた鷹が間違って降りることがあり、「三河の小倅は大概だ。」と罵っていた今川家家臣孕石主水は、今川⇒武田と領主を変えた後徳川家に捕まり、家康は孕石だけは許さず切腹させたといいます。

 ま、今となっては、秀吉がどちらであったのかは知る由もありませんが、やっぱり戦国の世。
 「昔の話がしたかったのだがの・・・。」と言った秀吉の笑顔は怪しく歪み、目の奥には鋭い光が宿っていた、という方が戦国時代ではないかと。

古宮城に春風亭昇太現る!!

2012年07月18日 | 奥三河
7月21日(土)7:30からのNHKの『ウィークエンド中部~春風亭昇太さんと行く城めぐり~』に古宮城が登場します!

※肖像権の関係があると思いますので、写真には目線が入っております。

笑点でおなじみの春風亭昇太さんですが、城マニアとしても高名です。よく中井均氏などと対談をされていますが、玄人はだしの知識を披露されています。
最近、NHKで城めぐり番組をやっているなぁ、と、思っていたのですが、いつも朝起きたら「あ、終わってた。」という感じでした。

今回は、たまたまこのロケを行うにあたり、昨年度実施した「山城デジタルスタンプラリー」で古宮城の現地解説を担当してくださった『作手の山城案内人』原田純一さんが案内することになったそうで、原田さんから私に連絡がありました。

原田さん自身も相当な城好きですから、二人の話がどんな内容になっているか、今から楽しみです。早速録画しなければ。

こないだ、別の番組のロケで我が家にホンジャマカの石塚さんがやってきたし、色々と有名人がやってくる新城市です。

武士の魂

2012年07月15日 | 日記


こんなものを購入しました。
『日本サムライ刀傘』だそうです。
雨にぬれると武将の家紋が28も浮かび上がるそうです。
そして外観は刀。

たまたまチラシを見てたら「399円」と書いてあり「欲しい!!」と。
前にどっかでもっと高い状態で見たもんですから、こりゃ安い。
で、本日ようやく時間を見つけて買いに行くことができました。

妻は「こんなものは在庫が山のようにあるはず。」などと抜かすのですが、私は「いや、きっと大人気だ。」とお互い譲りませんでした。妻は「城旅メンバーが皆持ってたら笑えるから安いし買ってったら?」と6本ほどを購入するつもりで店へ。私は息子が車で寝ていたので待機していました。

すると、しばらくして1本だけ妻が持って帰ってきました。
聞けば「人気商品で最後の一本だった。」とか。
ほらみたことか。そりゃ、こんなアラフォーのおっさんが欲しがるかどうかは別としても絶対人気商品の筈なんだよ、と、安いから皆狙っていたな、と、納得。まぁ、皆で持ち歩く異様な集団を形成することには失敗しましたが、個人的には大変満足しております。

誰がなんと言おうと、私は満足しております。

甘利晴吉 ~甘利のあまりな行動~

2012年07月03日 | 戦国逸話
 久々に名将言行録からの逸話登場です。
 武田信玄の部将で、板垣信形と並ぶ筆頭家老クラスだった甘利虎泰の子どもが今回の主人公甘利晴吉です。
 若くして亡くなっており、享年31歳。三方が原の戦いの後、病死したとも落馬によるものともいわれています。信玄からの軍功の証文を9通得ており、優秀であり、有能さは武田家中1,2を争い、3以下にはならないともいわれたそうです。さて、そんな彼には部下を大事にする話があります。

『士を愛す』
 関東松山を攻めた時、晴吉の部下米倉丹後守の子、彦次郎が鉄砲に撃たれた。
 従者が(彦次郎を)担いで退いたが、まだ息はあったものの血が体内に溜まり、腹が大きく膨れており、時間の問題と思われた。その時、側にいた者が「芦毛の馬の糞を水に溶かして飲めば、血が抜ける事がある。」というので芦毛の馬糞水を彦次郎に与えた。
 彦次郎は父に劣らず大剛の者であったが、眼を開いて言うには、
「胸元を前から後へ打ち抜かれて助かるものか。死ぬとわかっているのに、『彦次郎は命惜しさに馬糞を飲んだなどと死んだ後も嘲られては無念じゃ。武士が戦場で死ぬのは本望だ。」といって飲まなかった。
 すると、甘利晴吉は米倉彦次郎の所へ行き、
「彦次郎の普段の言葉とも思えぬ。もし血が抜けて傷が治れば主君には忠、父母には孝となる。死後の謗りにこだわり忠孝の重さを忘れるとは、武勇ではない。」
 と彦次郎へいうなり、晴吉は馬糞水を柄杓に受けて、ごくごくとふた口飲み、舌鼓を打って
「よい風味だ!」といって、手づから彦次郎に与えたので、彦次郎は涙を流して
「間違っておりました。お心遣いのありがたさ。たとえ命果てても、次の世でも忘れません。」といって押し頂き一滴も残さず飲んだところ、忽ち腹の中の血が一桶分ばかり出て、傷は暫くして治った。
 これを見た晴吉の同僚部下は感涙を流して、益々晴吉を慕った。
 信玄はこれを聞いて、晴吉の忠節と士を愛する志を誉めた。

 部下を愛する為、馬糞汁を口にする将。
 部下はその心遣いに感謝し馬糞汁を飲む。
 そして部下を愛する心が奇跡が呼び起こす。

 全米が泣いた。
 と、キャッチコピーが付けられそう。

 主君の恩にむせび泣いた米倉家では以後「馬糞」を馬印にするかもしれない。

 ・・・。

 なんか誉めれば誉めるほど「誉め殺し」感が出てしまうのは、なぜか?
 それは『馬糞』が主題だから。

 そもそも、誰が「血出しには芦毛の馬糞汁」なんて言いだしたのか。

 いくら治るからと言っても『殿、馬糞汁を!』などと勧めれば、『貴様、無礼討ちじゃぁ!』となるのが普通。どう考えても罰ゲーム的なものが歪められて伝わって広く信じられたっぽく感じてなりません。
 ちなみに、この芦毛馬の糞が体内の血を出すのによい、という話は江戸時代に書かれた武士の心得や実務的な内容を描いた「雑兵物語」にも出てきます。この時代は広く流布していた治療法のようです。ひょっとすると雑兵物語は甘利晴吉の話を基に書かれた可能性もあります。
 しかし、私に医学的な知識はありませんが、なぜ鹿毛ではダメで芦毛だとよいのか、だって、同じ馬の内臓で芦毛と鹿毛で何か違いがあるとは思えない。芦毛の馬糞汁は迷信で、下手をすればむしろ逆にトドメとなりかねないような気がします。もし、あなたが明日撃たれても「あ、芦毛の馬糞汁を・・・。」と懇望する前に救急車を呼ぶことをオススメします。

 ちなみに晴吉が早死にした理由は、これが遠因だったとしたら・・・?(了)