長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

亀山城 ~ 間違って壊された城 ~

2013年12月31日 | 落城戦記
なかなか寝付かない、あるいは夜泣きする子どもなので昼間に遊ばせて寝かそうと企む。

妻実家の帰省中、当初は電車好きな子どもを電車に乗せようと思ったのですが、妻の実家は美味し国、三重。
伊勢神宮という近年稀に無い観光スポットを抱えているときに電車で遠出するとえらいことになる、と、考え断念。

結果的に公園で走らせようと思ったところ、よさげな公園を見つける。
亀山公園、だそうです。

そしてよく見ると
「おお、亀山城跡じゃないか!」
と、気づく。

一度行ったことあるんですが、相当前。
記憶も薄め。
ただ、「間違えて天守を壊された城。」というエピソードの現場が見たかった、ということがあります。

亀山城の天守閣を壊してこい、と、命令された堀尾吉晴。
「わかりました。」
と、三宅氏が治めていた伊勢亀山城の天守を破壊する。

が、「伊勢じゃない!丹波だ!」
と、気づいたときには後の祭り。
天守は既に無かったとか。

亀山城、という名前の城が複数あったが故の悲劇(喜劇?)として語られますが、現地案内看板では「真偽のほどはわからない。」と言ってます。

そりゃそうだ。

何の理由も無く自分の城を壊され始めたら
「ちょっと、ちょっと。」
と、普通は確認しますわな。

さて、亀山城はこんな城。

※現地案内看板

現在は、本丸と二の丸の一部がその姿をわずかにとどめています。


※現存多聞櫓跡。立派です。

昔、訪れたときよりも整備された気がします。

娘は、城よりも公園。

※そりゃそうだ。

その間に、前回は見た記憶が無い天守代用御三階櫓跡を見る。

※あったっけなぁ・・・?という感じ。

前回訪問時には、たぶんなかった整備された二の丸帯曲輪を発見。
娘に、
「あ、なんかあっちの方に楽しそうなものがあるよ。」
と騙してつれていく。

途中の切岸を見て
「すごいねぇ。」と、いうが娘の反応は薄い。

※この見事な切岸を・・・。

帯曲輪こんな感じ。


で、虎口が!見事!

ここは流石に娘もすごいと言ってましたが、
「もっと遊びたかったー。」と、ぶーたれられる。

※抗議の寝転がり。

帯曲輪の切岸


石積


排水溝


などなかなか見所あり。

その後公園に戻り娘を遊ばせる。

※父は土塁と思しき跡を撮影。

亀山神社には1300年代の宝キョウ印塔などもあって、油断がならない。


最後は移動して、何とも長いローラー滑り台を滑る。

※結構怖かった。

さぶかったです。
結果的に、城と家族サービスを一挙に。
と、今年最後まで城に行けて満足の父ちゃんでした。

今年も本ブログにお付き合い頂きありがとうございました。
それでは、良いお年を。

勝間田城 ~尾根筋を極度に嫌う城~

2013年12月29日 | 落城戦記
年末に独身として身軽な1日がある。
12月28日(土)。

が、確定したのは23日。
要は、妻子が自分より先に実家へ帰省するわけです。そうなると、自分は妻には悪いが解放Dayとなる。
そして、突然25日に城面子での飲み会が開催されたので、突然設定されたので28日に城いこまい、と、わめく。

佐渡は残念ながら家庭の予定があるため、紀伊、団にょと行くこととなる。
当初の行き先は琵琶湖の北端、菅浦。
戦国時代の村同士の争いで有名な場所。大変に風光明媚な場所らしいので前々から行きたいと思ってました。

が、帰宅して天気予報を見て驚く。
28日から冬将軍が襲来して北陸は大雪の予報。滋賀も雪だるまのでかいのが「どん」と予報欄に鎮座されてます。

冬は冬毛(スキー仕様)になるフォレスター時代ならばともかく、昨年からファミリー向けのフリードは、ハナから雪道の利用を捨てている。FFだしスタッドレスもタイヤチェーンを買う予定もない。

天気予報は、太平洋ベルトのみ快晴の予報。
伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河ならば大丈夫そう。

で、いろいろと検討した結果、遠州勝間田城をメインに据える。

この城、5連の堀切が見事、と、聞いていたので一度行ってみたかった。「静岡の山城ベスト50を歩く」の縄張図を見ていても、尋常じゃない堀切の数があって迫力ありそう。しかも、道が整備されていてさほど苦労せずいける、ともある。
目標が決定したので行軍ルートと合流時間が決定する。合意が確定したのは27日の夜10時頃。

仕事納め直後で腑抜けになっている皆に早めの出発を促し、結果的に朝8時半に名古屋発。
豊橋で団にょと10時に合流。

勝間田城へ向かい高速を降りたのが11時ちょい過ぎ。
このまま城へ向かうと昼飯を抜いた状態で向かうことになる。
昔のように気合の入った状況ならともかく、既にこの旅も始めて10年。肩の力も抜けてきているので「まず飯にしよまい。」と、飯を優先。

そんなことを話していると「静波海岸」なる看板が目に入ったので、「海、見に行こう。」と、いきなり進路変更。海岸端ならうまい魚でも食えるのではないか、と、ノープランで突撃。

看板があるものの、走っても走ってもなかなかつかない。
「遠くねぇか?」と、私が懸念を示してナビを見るために路肩に車を寄せてハザードを炊く。

紀伊が言う。
「このぐだぐだ感。目的地にたどり着けないのがこの旅の原点だったはず。ここで諦めるのか?」

① 寄り道を諦めて目的地に行く
② 目的地に行ければラッキーで本能の赴くまま寄り道を優先

この2つの価値観、通常ならば迷わず①。
『が、そんな人生で良いのか!』
と、いう重大な問いを紀伊がした。
と、思った。

城は見たい。
海も見たいし、魚も食べたい。

目的地を忙しく見るのが大事ではない。寄り道しながら道中の花を愛でることを優先するのが、本来のこの城旅のはず。実際、この寄り道で古宮城を偶然見たり、金子みすずの生誕碑に行って「こだまでしょうか。」と叫んでみたり、と、旅に彩りを添えたのは寄り道。

「このままいこう。」
と、私が決断したのは紀伊の発言から10秒後だった。

やはり、仕事から離れてのんびりするのであれば、あくせくする必要などない。

そして、地元のスーパーを発見。
我々の旅では、特に海沿いの町の場合、地元のスーパーで魚系を見ると見たこと無いものが売ってたりして面白いし、店で食べるより安いので、寿司を買って景色の良いところで食べることが多いのです。

今回は、刺身の切れ端が安いのと、自分でご飯をよそって購入できる惣菜コーナーがあったので、迷わず両方を購入。刺身をご飯に乗せて海鮮丼を作ることを想定。ついでに、地元の特産と書いてある魚のすり身のフライも購入。

※車の中で広げているので見苦しいですがご容赦を。

それらを景色の良いとこで喰おう、と、海岸へ。

さぶいので車の中で男三人が年末に海を見ながら、スーパーのお惣菜を食べる。

と、いう画面はなかなか強烈なものがあるよねぇ、などと、話しながら食す。
美味い。

※食後の一服をする紀伊。勿論煙草は携帯灰皿に。

なんとなく学生時代を思い出させて良いです。

※波打ち際に行く紀伊を車中から撮影。さぶいので私と団にょは車中のまま。このあたりが学生と違う。

さて、飯も食った。海も見た。

目的地へ向かう。
勝間田城下の駐車場に到着。
勝間田城ってこんな城。

※現地案内看板

さて、非常にざっくりとした概要をお話しますと・・・。
勝田(かつまた)氏という一族のお城でしたが、文明8年に駿河の今川義忠が遠州に侵攻。勝田・横地の一族は抵抗しますが落城させられてしまいます。城に関する記録上はその程度のようです。

しかし、勝田・横地の一族がすごいのはここから。
浜松まで征伐に行き念願の遠州を手に入れて意気揚々引き上げる今川義忠を、なんと、帰路の塩買坂で奇襲。
討取ってしまうのです。

その後の今川家は大混乱に陥り、そこに伊勢新九郎が介入し後北条氏となるのです。

今川義元って、先祖に似たような人がいるな、と、前から思っていたのです。
その後の勝田一族はよくわからないようですが、桶狭間に似たような話が強烈で、その舞台の一翼を担う城を見ておきたかったと言うことがあります。

しかし、この城の造作を見てみますと、非常に技巧的。
その後の城を改変した記録がないとはいうものの、明らかに義忠時代の城ではない。

この改変者が武田、という人がHPなどでは多いようですが、徳川という人(「静岡の城 研究成果が解き明かす城の県史」加藤理文 126頁)もいます。

さて、まず城を見てみます。

駐車場から見事な茶畑を見ながら歩いていくと富士山が!


茶畑と富士なんて静岡だよね、と、思いながら、ここが出曲輪。
下からの攻撃に対して、いわば馬出的な役割も持っていたのではないかと思います。
富士だ富士だと、富士山を見ながら歩いていくと、いよいよ城の本体部分へ。



三の曲輪の下をぐるりと回らされていきます。曲輪は切立っており取り付くのが難しそう。攻撃され放題、という感じです。

三の曲輪に到着。


まず、広さに驚く。
これはどう考えても大軍の駐屯を想定して削平した感があります。
自然地形を生かして三の曲輪は横矢が掛かるようにもなってます。

そして三之曲輪西側にある堀切を見に行く。

※分かりにくいですが結構な大きさの堀切。見るとすごいです。

その途中、三の曲輪から目をやると、先ほど歩いてきた谷を隔てて出曲輪が丸見え。

※草木で分かりにくいですが、明るい部分が出曲輪。

私達が「富士山だ。富士山だ。」と無邪気に喜んでいる後ろから、おもいきり攻撃されてたわけです。
無念。

二の曲輪と三の曲輪の間には結構な土塁が。

※切れている場所は虎口ではなく後世の道をつける際のものらしい。(by 山城ベスト50)

この土木量と削平地の広さは勝田氏時代には必要ないようい思われます。
二と三の曲輪には建物跡の露出展示もあります。

※寝るな。

三の曲輪の周囲をあるくと尾根筋に繋がる部分は全部堀切が作ってある。

その後、いよいよ本曲輪へ向かう。
縄張図だと非常にでかい感じの二の曲輪と本曲輪間の堀切ですが、後世につけた道から見るとこんな感じ。


掘りきった分を本曲輪側に盛り上げたのでしょう。二の曲輪からはさほど高低差が無かったです。ただ、本曲輪側は切立った形になるので極めて取り付きにくい。
この本曲輪の腰曲輪的なところは、現在の道がついている方に土塁があることから、昔からこちらが道として使われており、後世に埋めたか何かで拡幅したのだろう、と、推測されます。

その後、本曲輪へ行く場所で三叉路みたいになる。


本曲輪と反対側の尾根筋に向かうと、もう、富士山が綺麗に見える。



※富士山はなんか写真撮ってしまいますね。

で、この尾根筋が、5連の堀切がある場所という。
確かに、ずどんと落ちるように切られている。その向こうも見渡せる。


紀伊、団にょは行く気なしなので、独り5連を確認に行く。

※1つめの堀切を渡った反対側から見る。

最初の2つは高低差がすごい。



※うしろからよこからどうぞ。

徐々に高低差は小さめのものとなっていきますが、尾根筋を切ろうとする堀切上のものがあります。


さて、見所の5連堀切を堪能したあとは、いよいよ本曲輪へ攻め込む。

※この斜度!削って盛って、てしてますね。

本曲輪からみて南東にある馬出状の曲輪があるのですが、その間を削ってその分を盛っているようですね。
この間を抜け回りこむ形で本曲輪に入る形状は明らかに敵の攻撃導線を伸ばそうという意図かと。

※人一人分の細さです。

本曲輪へ侵入する細い道沿いに高い土塁が構築されていました。この状況からも、我々の侵入経路が本来の道と見て良いでしょう。

※ 無事落城。

その後、自分ひとりで本曲輪北東の堀切を見学に行く。
なるほど、立派だ。


そこから先ほどの本曲輪へ回り込む道へと繋がる。


そこを歩いて戻ろうとすると上から声が。
「敵だ!」
との声とともに枝が降ってくる!
紀伊と団にょが攻撃を仕掛けてきた!こえぇぇぇ!細いし逃げ場ないし。て、いうか石も降ってくる!

※良い子は決して真似しない。小石といえども危険です。

その後、南東の尾根道を探索。

※登り出すのを見つけて、そこでストップ。

尾根道方面からの攻撃はこの馬出状の曲輪と本曲輪間の堀切で守るのでしょう。

※これでは攻撃側は死ぬしかない。

正直、この城から感じるのは
『尾根筋からの攻撃を徹底的に断ち切る』
という思想。

すさまじいまでの執念を感じます。とにかく尾根筋に繋がる部分を徹底的に、隙無く遮断しようとする意図を強く感じます。

この城を見ると直感的には武田の城っぽく感じます。
二の曲輪や三の曲輪は、私の乏しい経験からすると新府城っぽい。(どこが、と、言われるとこまりますが。)
あと、堀切の感じも三河の城にはない感じです。

が、この城の防御がどこに向かっているのかと考えると駿府方面。
本曲輪南東の馬出状の曲輪の続く尾根筋の方が本曲輪に近く高くなっていく感じです。堀切が道がついていたからかもしれませんが、5連のときのような「尾根を切ってやる。」という感じではない。こちらは、いわば高天神の方面へ向かっている。諏訪原城も防御が弱い方向側。(方角は違う) 

そう考えた場合、この城が向いている方向が武田だと変。

はてねぇ・・・?と、不思議に思って『静岡の城 研究成果が解き明かす城の研究』(加藤理文)を読んでいると、徳川家康が高天神を落城させた後、小山城が武田の拠点として活用されていた、と、ある。

なるほど。
小山城はまさに防御方向!

この本の説明が、一番しっくりきました。

そして、武田の城を接収した徳川方が武田敵築城術を身につけた、あります。
武田っぽいと感じたのは、こうした技術の転用によるものなのかもしれません。
ただ、この武田っぽい城だけど、年次や築城方向が謎、という城については、今後、徳川の視点でよく考えてみると面白いな、と、改めて確認した次第です。

さて、この後、小長谷城へ向かう!と、思っていたのですが、50km以上の移動距離・・・。
着く頃には日が翳り始めそうだったので、中止。
さて、どうしたものか、と、思っていたら、
「富士山静岡空港が見たい。」
と、紀伊が言う。

滑走路予定地上の木で揉めたりと話題の空港だけに一度見ておくのも悪くなかろう。何より
「これを逃したら、この空港来ることないだろう。」
と、いう紀伊の一言に団にょと自分も納得。

やってきました富士山静岡空港。
とてつもなく強風が吹きつけ、どっさぶい!

※さすが綺麗です。駐車場無料も嬉しい。

息子がいれば「ひっこ、ひっこ」と喜ぶだろうなぁ、と、父としての感情がでる。
お土産屋もあるので、これは便利。


そして、フライトシミュレーターがある。100円でできるのでチャレンジしてみる。

当然、急降下、急上昇、急旋回をして墜落を二度ほどして建造物をなぎ倒して、結果的に強制終了。
紀伊に「あんたやらんのか?」と聞くと、
「ワシも同じことをやるだけだから、もういい。」とのこと。

その後、食堂でフリードリンクを注文し、まったりモードへ。

※飛行機が来ない・・・。

飛行機が来ないと嘆いていたら、FDAのカラフルな飛行機が到着!
富士山と飛行機、というお好きな方にはたまらない画!!


なかなか見ごたえがありました。
その後はゆるゆると帰宅。

久々のゆるい旅。
こういう時間の無駄遣い旅が一番の贅沢と感じる今日この頃です。

いよいよいよいよ9連休スタート!

2013年12月27日 | 日記
いよいよ9連休!

年末年始もお仕事の方もおみえかと思いますが、当方は9連休となります。
ことしは3連休も仕事でほとんどつぶれ、秋は土日もつぶれ連休自体があまりなかっただけに9連休はすごい。
暦の関係でGWもしょぼ気味の近年、この9連休はすごい!

と、興奮気味ですいません。
なにせ、今、妻子は妻実家に行っており、今夜、明日、明後日は花の独身生活。
たまにはこういうのも良いですね。単身赴任のような恒常的な独身生活は、ちょっと耐えられそうにないです。
子どもが小さくて、かわいい今は。

まぁ、妻子と合流すればなかなか自由時間はないでしょうけど、久々に集めた資料をじっくりと読む時間が取れます!何が嬉しいて、これが嬉しい。
しっかりと読書時間が確保できるように、今日は定時ダッシュ後に散髪した後、スーツを購入しにいく。
これで、とりあえずやらなければならないことは済んだ。

久々に今川関連のものを読んでおります。

斉藤、今川、武田、織田。
そして、徳川。
と、このあたりをしっかり抑えないと、奥平や菅沼の動向を正確に把握できないと考えています。

今川⇒松平⇒今川⇒織田⇒今川⇒徳川⇒武田⇒徳川、と、風になびく葦のように弱小領主は悲哀を感じていた、という流れで語られることの多い奥平・菅沼ですが、織田まではわりと独立志向が強く、織田従属はない、と、私は考えておりまして、そんなに柔な領主達ではなかったのでは、という考えなので、その考えが正しいかどうかを確認したいだけなのです。

一人コタツに入って本を読む。

咳をしても一人。
劇団ひとり。
新党今はひとり。

久々の一人で顔がにやつく年末。
今、泥棒が入ってきたら、気持ち悪がって逃げていくと思います。

さぁ、今から読むぞぉ!
3分くらいで意識を失うかもしれないけど・・・。

県大山村ゼミと

2013年12月24日 | 落城戦記
愛知県立大学山村ゼミの『遠足』に同行しました。

山村先生から当初提示のあった希望ルートは、
「野田城⇒野田館⇒野田の渡し⇒大野田城⇒昼食⇒古宮城⇒塞之神城⇒文殊山城⇒亀山城」

これは・・・、相当な強行軍。
1日6城ともなると、相当な城攻めのツワモノであっても難しい。
まぁ、プロと素養のある人達ならば
これは、相当な強行軍になるな、と、思っていたところ、直前に、塞之神城、文殊山城を取りやめて、亀山城とその周辺遺跡に変更になりました。

当日、雪の心配がありましたが、見事な快晴。
通常、クリスマスシーズンは雪が降ることが多く、先週はちらほらと雪が降っただけに心配していたのです。

山村先生曰く、
「晴れ女なんです。」
とのこと。さすが。

しかし、晴れているだけあって、冷えます。

※気温は7度。凍える一行。

さて、野田城。

ここでは、地元ではベテラン観光ガイドとして活躍している高田さんが概要を説明。

※本丸井戸の前で武田の金堀人夫が水を枯らした話を。

元亀四年に城主菅沼定盈が武田信玄の大軍を相手に籠城し1ヶ月持ちこたえたことで有名な城です。
しかも、この城を攻めた後信玄は死亡。
そのため、信玄はこの城で鉄砲に狙撃された傷が原因で死んだとも言われています。信玄を狙撃したとされる鉄砲も設楽原歴史資料館に所蔵されています。狙撃したかどうかの真偽は不明ですが、火縄銃の古さで言えば間違いなく日本で5本の指に入るものだそうです。

この城は徳川家康の領国である遠江国と三河国の中間地点吉田(現在の豊橋)のすぐ北。ここを信玄が落とせば家康は領国真っ二つ。戦略的重要拠点になります。

城の堀と土橋の状況、わかりやすい連郭式の形状について図面を基に確認しながら進む。
やはり歴史地理学の方々だけあって、現場の状況が相当に気になる様子。
通常は、現在地元の方で整備の進む本丸を見れば満足して帰る人が多いのですが、三の丸の三日月堀周辺の土塁の状況や道路と反対の桑淵方面の見学を希望されました。

ここはかなりのブッシュが生い茂っており、夏は蛇、蜂等の危険生物にも要注意な場所。

※ここが見たいとは皆さんもお好きですね。

冬なので木だけを気にすればよいとは言うものの、二の丸・三の丸は近年あまり手が入っていないせいか、ブッシュの険しさが2年前に比べて増していた気がします。城が手入れされないとこうなりますが、地権者との関係もあって難しい。

このあたり、土塁と言いつつも開発もされているためか、かなり高低差がなくわかりにくい状態になっていることを確認。

そのまま、本丸との境の堀切まで進み実際に城を攻めた感じを体験。
本丸と二の丸をつなぐ土橋から見た堀は大したことなさそうに見えながらも、二の丸から進み、実際に堀を越えようとすると「無理。」という感想が多数。

※土橋から堀を見る。
まずは城郭機能を体感していただけました。

そして本丸城址碑で記念撮影。

※若干光が入り込んで見づらくてすんません。

その後、舌状台地の突端側の馬出形状の郭を見て伊那街道へ。
現在の151号を伊那街道と記したものがあり、山村先生的に違和感を感じられたとのこと。私が直接ここの地元の方に聞いた話では、城から降りて到着した道を旧道と呼んでいて昔はバスが通っていたとの話を伝える。実際、ここから車が1台通るのがやっと、という細い道になりますが、確かにこの道がバス道だったと、その道の前に住む方から聞いています。
ので、むしろ、伊那街道と呼ばれる道はこちらでしょう、とのこと。

しかし、この時点で大幅に時間超過。
侍屋敷跡や伊那街道関係を山村先生は個人的に全速ダッシュで確認されてました。笑。

結局、野田の渡しや野田館、大野田城はバスの中からちらりと見る程度で終了。
野田城も単純な造りに見えますが、しっかりみると見所満載なのです。
山村先生が言うには「縄張図では描かれて無い高低差がかなりあるので、かなり遺構も残っている可能性がある。」とのこと。確かに。

その後、作手へ移動。
標高500mを上がりますので、気温は平野部に比べ5度下がる。
ので、気温計は昼でも2度表示。
スキー場並。

まずは体力の残存状況を考慮し、作手最大最強の城、古宮城へ。
ここは作手山城案内人の原田さんによるガイドになります。

いきなりクライマックスの両袖枡形虎口を見学。
36名という大部隊なので2隊に別れ、1隊は土塁上、もう1隊は虎口内にとどまり、土塁上の部隊は号令で杉の葉っぱを当たらないように投げてもらいました。


「キャー」「怖い」
というの悲鳴があがる。
軽くて遠くまで飛ぶことは無い杉の葉っぱを投げられるだけでも結構怖いのに、あれが鉄砲や弓だったら、と、感じていただけたのでは無いかと。こういう城の体験は大人数見学時でないとできない。

東郭で大堀切を見おろし、仕切り土塁を見た後、謎の閉鎖的郭(人質郭?)を上から見学。その後、再度枡形を通過して土橋を渡り西郭へ移動。行き止まりの堀や何重もの堀で囲まれた西郭を見下ろし、その土木量を感じてもらう。堀底を歩き土塁の巨大さを体感。その後、大堀切を歩いて神社境内へ戻る。

時間の関係で、全部見学ルートの半分程度となりました。

その後、市場地区の旧道を歩き、原田さん宅前では奥様からお菓子を皆が頂く。アミダマヘなどを通過して蔵屋敷跡などを見学。そして、亀山城の城下町区画とも言われるものの、何かがよくわかってない馬呂遺跡跡を見学。


そして、最後は亀山城の見学となりました。


その後、自由時間となり、山村先生と有志で善福寺近くの古い町割のあった場所へ。
街道を挟んで字名が町と町尻に分かれているのが、戦国時代の古い形状を表して珍しいものだとか。
区画整理がされているようで、ざんねんながら短冊状の特徴あるものは確認できませんでした。
そして、城屋敷の名称が残る地区に。痕跡は無いのですが、浅野古城之図などには、文殊山城と塞之神城との間に屋敷的な城があります。そのあたりに普段は生活していたと考えられます。その場所を確認するのは私も初めてでした。

自由時間は時間に限りもあるので、相当な猛スピード、途中小走りでの見学となりました。
寒さにもやられて、学生の皆さんもかなりお疲れだったようです。

さて、折角なので参加者の皆さんにアンケートをとってみました。
属性は

若い女性が半数を上回るという、多数の方が参加する城見学では珍しい構成です。

城の評価は以下のとおり。

古宮城は満場一致の「すごい」でした。
亀山城は「まぁまぁ」が多数派。やはり古宮城のすごさが突出しているのがわかります。亀山城も単体で存在していれば、それなりに見所がある城なのですが、古宮城という化け物がいるせいで低くなってしまったと言えます。

草刈ボランティアに関する意識もお聞きしました。

条件があえば参加してみたい、と、の意見が多数です。
「無料バスの運行」が圧倒的な理由として上がっています。
まぁ、条件があえば、という回答は、アンケートの回収が直接手渡しだったので、皆さん気を使って回答している分もあるだろう、と、割り引いて考える必要もあるかと思います。笑。ただ、中には実施する際には情報を送ってもよい、とアドレスを書いてくださった方も2名おられました。

無料バスの運行は元々設問にあったため、解答しやすかったと思われます。
今回のバスツアーを開催する際に、山村先生が気を使われていたのが、学生さんの資力状況を考えてできるかぎり安価に催行できるように、ということから、事前に設問として用意することができました。

やはり交通費、その次が日程、そして、気分、という3つの要素がうまく会えば、多数の方にご参加いただけるのではないかと思います。
その他、自由回答も色々といただきました。
今後の参考データとさせていただきます。
ご参加の皆さん、お疲れのところ貴重なご意見ありがとうございました。

神田古書店めぐり

2013年12月21日 | 日記
こないだ、久々に東京へ行く機会があったので古書店街を巡りました!


近年、自分が欲しい本が高かったり、絶版だったりすることが多く、必然的に古書店を巡ることが多くなりました。名古屋の場合、鶴舞のあたりに古書店が集まっていますが、そんなに数は無い。

同じく本好きだった大学時代の連れが「神田はすごいよ。」というので、始めて訪れたのは4年前。
JR山手線神田駅で降りたら遠いんですね。知りませんでした。
どえらいウロウロと歩き回って諦めかけた頃、なんとかたどり着いたことを覚えています。

いい加減足が疲れていたのですが、興奮状態であちこち回り、甲子夜話を15冊くらいと、その他掘り出し物の本を購入。それを抱えて帰ってきたことを覚えています。

しかし、その後調べたところ、私が放浪した場所以外にも靖国通り南面にも集中している、ということを知りまして、いつか行きたい、と、思っていたところ、今回少し時間が取れたので挑戦することに。

今回は中央線の御茶ノ水で降りて適当に歩いて目指してみる。前回と同じように放浪する羽目になりましたが、なんとか辿りつきました。(下調べが面倒なので嫌いなタイプなのです。)

前回行ってない店があるわ、あるわ。
またまたフィーバー状態になって歩き回りました。

ただ、あれもこれもと買ってしまうと重いし金かかるし、で、吟味を重ねて購入することと決めてました。

あの、どことなく敷居が高い古書店に入っていくのもなれました。直接見てはいないのですが、明らかに気配を消しながらもこちらの動向を伺う店主とうず高く積まれた本。意外と手前の無造作に積まれた平積みの中にも掘り出し物があったりします。
そして、「おお!」という本があっても、値段を見て「おお・・・。」となって、すごすごと本棚に戻す。この作業の繰り返しがたまらない。

こちらも古書店巡り歴が長くなってきたので、店の専門性と雰囲気を見れば高いか安いか、欲しい本があるか無いかが判断できる。欲しい本を1冊見て、値段を見て高いと思えば、その店は全ての本が高い。歴史を専門的に扱っているところも高い。どちらかというと、専門外だったり総花的に扱っている店に、偶然紛れ込んだ系統の歴史関係の本がお買い得になります。

どうしても欲しい本であれば、専門的に扱っているところへ行く必要がありますが、多分、こうした店は研究者を対象にしているのでは無いかと思います。研究費で買える人達は多少高くても関係がないでしょう。しかし、こちらは自腹。『多少』でも高いのは無理。最近図書館を愛用しているので、無理して高い本を買う必要も無い。

ただ、掘り出し物があれば、買えば良い、と、考えて探しているのです。

結果的に、今回初めてアタックした靖国通南面では欲しい本がありませんでした。
「お。」と言うものはあっても、それを購入しなければならないようなものはほとんどなく、また、あっても高かった。ただ、古書店にあれだけ入り浸れたのが嬉しい。

その後、前うろうろしたところへポイントを変えて、以前大量購入した店に入る。
と、今回も「うぉ!」というものを見つける。
松平記と四戦紀文が一緒になったやつ、織田信長家臣人名辞典、甲陽軍鑑です。
松平記は自分が色々と調べている時代については、信憑性が高い方なので、安ければ欲しいと思っていたら、安かった。武田、上杉系は高めですが、徳川は人気が無いようです。当然購入。
織田信長家臣人名辞典は前から気になっていた本。定価だと高いので、値段を見たら半値以下。中身をちら見したら調べものに非常に便利なつくり。さすが事典、当然購入。
甲陽軍鑑は、別の店で3冊1万8千円だったものが、この店では8千円。状態はほぼ同じ。かなり迷いましたが、今回は見送りました。

本を購入するとき、バイトと思しき人がレジに座っていました。
自分も東京の大学に行ってたら、こういうところでバイトしたかったなぁ、と、しみじみ思う。

その後、スタバで一休み。
で、購入した本の相場をネットで検索する。(こういうところに自分の小ささを感じる。)

松平記はネット最安値より気持ち安い。
人名事典は、どうやら初版版のようなので単純比較はできませんが、最安値より圧倒的に安い。
甲陽軍鑑は微妙。単体を集める場合と比較すると高いが、質的な面で現物を見ている安心感からすると、割高感は無い。

今回の古書店めぐりは『勝ち』と見ました。

にやりと笑いながら抹茶ラテを飲む。
うまさが引き立つ。
尻に気を使って刺激物のコーヒーを避けてみた。)

もっとも自分にとっては本の値段そのものよりも、古書店を巡る、という行為そのものが娯楽なのです。お目当ての歴史関係の本でなくても、思わず吹き出すような内容の本とかを見つけたりすると、「一体誰がなんの目的で買ったんだ。」とか思いを馳せるのも好きなのです。買いはしませんが。

神田古書店街も良いのですが、次回は国会図書館にチャレンジしてみたいと思っています。
我ながら変な趣味だとは思ってますけどね。。。

2013年12月17日 | 日記
別にこんなことをネットで報告する必要など全く無いのですが、

痔になってしまいました。
(食事中の方すいません。)

人生初。
やはりまもなく前厄に突入するともなると未体験ゾーンに突入するのですね。

ことの発端は日曜日の夕方。
車を運転していて臀部に違和感を覚える。

まぁ、この違和感、今までも経験したことがあるのですが、今までに無く強く感じる。
はて、どうしたのか、と、思って帰宅して風呂に入り確かめると・・・。
とんでもなく大きな瘤に触れる。

『!!!!!』
激しく動揺する。

「もしや、これが世に名高い『痔』なのか?確か、痔って案外大変な病気で、ヤバイとか聞いたことがある。新採の頃、関係部署で痔になった人達が破れて血まみれになったとか話してたが、それか、それなのか?」
と、頭を駆け巡る。

いやー、これは、困った。どうしたものか。
痔になるなんて恥ずかしい。

と、この頃は思いました。(今となっては、隠すものでもなし、と、思って必要も無いのにネットに晒していますが。)

妻にも言えず、とりあえず寝れば治るのではないかと思いながら寝るのですが、臀部の違和感ときたらもう・・・。この時点ではあまり痛みは無く、尻に何かが挟まってる、という感じ。

起きたら治って・・・、ない。

むしろ痛みが少々ある。これはマズイ。
とりあえず、妻には痔の可能性について述べると、別に驚かない。
ネットで調べると早く薬使って楽になったほうが良い、と、ある。

これ以降は食事中の方は、食事後にご覧ください。

月曜日は仕事していると、徐々にちりちりとした痛みなどが現れ始めたので、定時ダッシュで薬局へ向かい市販薬を買う。
そして、しばらくすると、違和感や痛みが小さくなったので眠る。
ああ、良かった。明日にはなくなっていれば、と、思って記憶が無くなる。

私はなぜか電車に乗っていました。
そして、座っていると、突然、大が漏れてしまう。

「うわぁぁぁぁ!」

と、思ったところで目が覚める。
心臓はどきどきしてました。そして尻に何か挟んでいるような感じがするので、もしや、と、思って確かめましたが、幸い、粗相をすることはありませんでした。
時計を見ると、丁度薬の効果が切れるあたり。

薬の効果が切れて縮小していた瘤が大きくなったのでしょう。その、感覚が明け方の悪夢となって現れたようです。

しかも、痛みは昨日よりも強くなっている。
私は焦りました。

木曜日は東京出張が予定されている。そして、夜は折角なので大学時代の仲間と久々に飲む約束をしている。
しかも、日曜日は長年調整していた作手の古宮城を始めとする城郭等に大学の先生とそのゼミ生等を案内する催しが開かれることになっている。

どちらも言いだしっぺ。
特に日曜日のは、そう簡単に止めることなどできない。

そんなことが頭を駆け巡って混乱していると、私が寝ている間にネットで色々と調べた妻が「病院へ早く行けというのがほとんどの結論。癌とかだったら大変だから早く病院にいけば。」と言う。

正直、あの大きさの癌だったら、私は1年持たずに死ぬ、と、思いましたが、そんなある日突然巨大な癌が現れるなどということはありえないので、癌の心配はしておりませんでした。
が、痛みが出始めたこと、市販薬では症状が改善されなかったことから、早く治らないものかと病院へ行くことに決めました。

朝、ネットで「痔 病院 名古屋」で検索をかけて、比較的近くでネットの口コミの評判が良いところを見つけ、朝職場へ行き時間休を取って飛び込む。

その昔、上司で痔になった人の体験談で「座禅を組まされて、そのまま転がされて肛門を検査されて、恥ずかしさで死にそうだが、身動きが取れないという大変な状況だった。」というものがありました。
私もその羞恥プレイに耐えねばならぬ、と、覚悟を決めておりましたが、今はそんなことはないのですね。尻だけだして横たわっていると、1分もたたないうちに診察は終了。

「外痔核ですね。軽いほうです。」
とのこと。
「うっ血してできる瘤によるものです。軟膏だしときます。痛みはすぐにひきますが、腫れは暫く残ります。お大事に。」

3分も経たないうちに診察室から出てきました。
やはり、処方された薬がよく効くのか、痛みは現在のところ消えました。

どうやら、運動不足や冷えが良くなかったようです。
特に日曜日は、今度の日曜日の打ち合わせや設楽原ボランティアガイドの講演会を聞いていたときに座っていたのですが、どちらも結構冷え込んでおり、冷え防止のためにスポーツ用タイツを履いていたため、血行が悪くなってしまったことが、原因のような気がします。

ま、最近歩いてないので運動不足だったのが一番の原因では無いかと。
実際、歩いたりすると、楽になるのです。寝てるとかえって酷くなるような気がしました。

ぼちぼち治っていくことでしょう。

皆さんも痔とおぼしき違和感を感じたら、すぐ病院に行かれることをお勧めします。
調べてたら女性専用外来の時間もありましたし、コメントは女性のものばかりだった気がします。

痔って、突然来るもののようです。皆さんもご用心を。

城の景観論争

2013年12月13日 | 
12日の昼飯食ってるときにTVをなにげに見たら、テレ朝のワイドスクランブルがやってました。

すると、天空の城で人気の竹田城についてやってるので、おお、なんだ?!と、見入る。
この内容に少々疑問を感じて一言書きたくなりました。

途中から見たのですが、趣旨として、
①竹田城に現在安全確保のための柵と寅ロープを行政が張り巡らしたが、景観が悪くなりけしからん。
②行政が石垣下の木を切ってしまったので写真映りが悪くなったけしからん。
と、いう構成になってました。

ちなみに、①には地元の自治協議会の会長がコメントしてまして景観が悪くなるから元に戻して欲しい、②は、どっかの写真家と称する方が写真の景観が悪くなったとコメントしており、なおかつ、石垣が崩れたらどうするんだ、とか言ってました。
で、最終的には朝来市役所の課長にインタビューしてました。

私は知らなかったのですが、どうやら竹田城の見学者が転落して重傷を負ったことが最近あったらしいですね。たぶん、①の柵対策は、この事故がきっかけだと思われます。

写真家と称するコメントした人は知らないのでしょうけど、通常、城に木は植えません。
なぜなら、木があれば敵が攻め寄せたとき見通しが悪くなる上に、敵が身を隠してしまうので切り払います。そもそも、木が生えていることがおかしいのです。
また、そもそも木が無い状態で石垣作っているのに、木を切ったら石垣が崩れる、という主張は変じゃないかと。
まぁ、造った石垣がゆるくて壊れることは昔もあったようです。壊れたら治す、というのが当時の城。しかし、これだけ長いこと存在し続けるのは木が生えたから、という理由だけではないと思います。石垣にとって、むしろ木は根っこが侵入して破壊する厄介な敵でもあるんです。実際、石垣の上に木が生えて石垣が膨らむ(孕む、と、いいます。)ことがあり、最終的に崩れることにまで繋がることがあります。
むしろ、石垣が崩れることを心配するのであれば、後世に勝手に生えてきた木が無秩序に生えて、地面の環境が悪くなって土が流れてしまう方を心配すべきです。
間伐をなぜ実施しているのかを考えれば、お解かりいただけるのでは。

ちなみに、木を切ったのは地元の要望だと朝来市役所の課長はコメントしてました。
すると、インタビューしているTV局は「石垣が崩れたらどうするんですか?!」と責め立てて、わざと感情的になるように質問していました。

・・・。

ま、私も専門家ではなく、実際、現在の土の強度、傾斜角度からすると石垣が崩れてしまう心配が土木工学だかに基づいて結果が出てるのであれば、TVの批判は妥当だと思います。が、そのような説明は私が途中から見たからかもしれませんが、ありませんでした。そして、たぶんですが、城にあまり詳しくなさそうな一写真家の意見が全てであるかのように扱っているように感じます。
また、柵の設置については地元の自治協議会の会長コメントがあったので、当然、木を切るにしても地元の意見と行政が言っているので、自治協議会にも取材しているのかと思ってみていたら、そこは何のコメントもなし。

普通、地元の意見で行政が動いた場合、自治会とかの要望でやるだろうから、木を切ったのがひどいというのであれば、せっかく柵の件で自治協議会会長に取材してるから、そのうちコメントが出るだろうと思っていたら、それはない・・・。

まぁ、自治協議会長に取材した後、写真家の意見を聞いて、そこは会長に聞いてないのかもしれませんが、なぜ、そこは聞かずに朝来市役所のみの責任にして取材が終わってしまうのかが疑問でした。
地元の意見と観光客の意見では、史跡保存に常日頃協力しているのは地元なので、そちらが優先されてしまうのは仕方ないことではないかな、と、思うのですけど。。。
うがった見方をすると、最初に番組が構成したい意図ありきで取材して、都合の良い部分を繋ぎ合わせたように見えてしまいます。

柵の設置も非難していましたが、転落防止の要請も一方であったから措置したと思われます。

物事は必ず両面あるはずです。
そのあたりについて、もう少し配慮がある内容だとよかったと思いました。

ちなみに、柵の設置は寅ロープと工事用の鉄パイプの柵だったので、あれが殺風景なので批判が出たのではないかと思います。今は事故後の緊急措置なのでやむをえないと思いますが、例えば、城には当然柵があったわけです。史跡であっても、ものを置くのはできるはずなので、例えば、地元の間伐材を利用して城に通常設置されるような柵を作るとか、あるいは、大人の脛くらいまでの低めの立ち入り禁止柵を設置すれば、景観ともマッチしつつ、地元材の有効活用もアピールしつつ、観光客の安全も確保できるのではないかと。

城に生えている木については、私は昔の城の状態が見たいので、元来、全部ばっさりやってくれ!と、いう意見なので、どんどん切って欲しい。笑。石垣が崩れると言うのであれば、技術的に崩れる証拠を示した上でなおかつ崩れる結果が出た場合、例えば山中城のように芝を張ってみたりしてはどうなんでしょうか。

それもこれも、人気が出すぎて観光客が急増したゆえの問題かと。

しかし、だからといって外部に対して全く閉ざしてしまうのでは、今後の日本の人口構成を考えた場合、田舎は衰退してしまうと思います。
外部の声に振り回されず、地域の宝を残し続けるように皆で考えていくことが大事かと。
前向きな姿勢で皆で考えれば、必ず良い知恵が出ると思います。

今後の対応に期待です。
頑張れ竹田城。

『象牙の箸』と『安物買いの銭失い』

2013年12月12日 | 日記
昔、中国の王様が箸を象牙で作りました。
すると、賢臣が、
「国が滅びる!」と、嘆く。
皆が理由を聞くと、
「箸を象牙にすれば料理が豪華で無いとつりあわない。料理が豪華になれば調度品が高級になる。調度品が高級になれば、良い服が要るだろうし、良い家に住みたくなる。そして、どんどん出費がかさむ。そうすれば、結果的に重税をかけざるを得なくなり、国が滅ぶ。」
と。
結果的にこの賢臣は、王様に殺されます。
そして、歯止めを失った王は、予言どおりの行いにより国を滅ぼしてしまいます。

と、いう話を宮城谷昌光さんの小説の天空の舟だかなんかで読み、やたらと印象に残っています。

比較的慎ましやかな生活をしてきた自分とすると、生活水準は一度上げると戻せないためコストがかさむ生活になる、という恐怖心から、低コストを心がけています。
実際、車も今後の子どもの学費の出費を考えて排気量とタイヤサイズを独身時代に購入した車からダウンさせてます。

一方で『安物買いの銭失い』という諺もあります。

勤め人にとって、スーツ、靴、カバンというものは必需品です。
皆さん、結構頭を悩ませる品ではないでしょうか?

私もこれらの品を購入し続けて、既に20年近くになります。
常に『象牙の箸』か『安物買いの銭失い』かで悩み続けております。
なんのことかと申しますと・・・。

うちの会社には転職組も多く、社会人としては先輩になる同期もいます。
新入社員当時、給料が安い自分としては、彼らが購入するものを見て『高!』と思うことも多く贅沢だなぁと、思ってました。

城仲間の紀伊守は、同期ですが5歳上で、スキーやらインラインスケートやら昔から一緒にやっておりましたが、常に良いものを買っています。聞くと、
「結果的に良いものの方が、満足度も高くて買い換えずに済む。」
と、言う。

当時はそんなものかねぇ・・・、と、思ってましたが、5年後に同じ歳になると、彼と同じ考えになって来たのです。

歳をとれば、それだけ買ってきたものが増える。置き場にも困る。それが安いものであれば、躊躇無く捨ててしまう。

「勿体無い・・・。」
そう思うことが増えてきたからです。

そして、歳をとれば体型が崩れてくる。
結婚する際、なにかと私生活でもスーツを着る機会が増えます。
流石にいつもよりも高めのスーツを購入したのですが、これが型崩れもしないし、なかなか良い。
なにせ体型を隠してくれる。
このことに気づいてから、スーツの更新に併せて従来よりも値段をあげ、その代わり購入サイクルを長くし始めました。
値段を上げはしましたが、おしゃれな同期などは最初からもっと高い値段のスーツ着てましたけどね・・・。
スーツも流行があるので買い換える、という人もいるかとは思いますが、私の場合、昔からおしゃれでは無いので、そこは構わないのです。
自転車通勤でスーツがすれて尻がテカテカになることも安物を選んでいた理由です。最近は職場が近く、ちょい乗りしかしなくなったこともスーツ選択の方法が変化した理由です。

そうすると、シャツも靴も、と、なる。
自分の資金状況と相談しながら、徐々に買い替えを進めております。
そしたら、カバンのファスナーがバカになってしまいました。
自転車通勤のため、あまりビジネス的なカバンを買ったことが無く、やたらと物を持ち歩く癖があるため重量が重くなり、安いカバンだったことと相まって、すぐ壊れるのです。

自分はセンスが無い方なので、「いや、そんなカバン持ってるからオタクだと思った。」と言われたこともあります。
て、いうか当たりですけど。。。
別にアニメ系の絵が付いているわけでなく、当時は自転車通勤用に購入したカバンしかなかったので、とあるスポーツメーカーの名前が入っているものだったんですけどね。

まだ、2年も行ってないので勿体無いと思って使っていましたが、とうとう買ってしまいました。

※わーい。

紀伊守の言うように、また、自分の経験からも、高いと満足度も高くて愛着も湧き、修理代が安く感じるので修理してでも使い続ける、と、結論付け、今回は、今までよりも高めのものを購入してしまいました。と、いっても、そんなめちゃくちゃ高いわけでもないです。
オシャレな20代の若者ならば、もっと高いものを持ってると思います。

まぁ、世の中の皆さんからすると
「何をそんなにコイツはビビッて物買ってるんだ。」
と、思われるかもしれません。
根が貧乏性なのと『象牙の箸』の逸話から、罪悪感があるからなんですね。。。
なんとなく、そちらの方向に行っているようにも感じてしまいますけど。

あ、一つだけ言い訳しますと、今回はあくまで仕事用の話。
プライベートは相変わらずの生活でダサダサの安物、しかも、銭失いが嫌だから買い替えもしない状況です。

だいたい、プライベートの行き先は、城くらいですから人目を気にする必要全くないですからね・・・。

子連れ狼 ~ 育児と城旅 ~

2013年12月08日 | 
子連れ狼。
いや、子連れ城旅。

子連れの場合、馬出だの虎口だの城郭機能を堪能するような城を訪れることは難しい。
城は、人の移動を妨げるようにつくられるので当たり前と言えば当たり前。
甲冑代わりに子どもを背負って・・・、と、いうのは、子どもがまだ小さくて歩かない時まで。歩くようになれば、背負っていても「歩きたい」と騒ぎ出す。では、と、降ろすと小さな体ではとても無理な傾斜や足元の悪さで、とても連れて行けたものではない。

また、整備された城へ行く場合でも、あまりに遠方では子どもが耐えられない。
車で移動するため、夕方の変な時間に寝てしまわれた日にゃ、夜起きてフィーバー状態になってしまうのです。

そう、考えると、子連れの城旅と言うのは難しい。

しかし、方法が無いわけではない。

城は何も城郭機能を見るためだけに見に行くのではないのです。
ある歴史的事実が行われた場所へ行き、距離感や高低差を感じる、というものもあります。
都市化された場所などは、宅地化が進み、訪れてもただの住宅街で何の情緒も無い。
こんなときは、折角の休日を無駄遣いした気になります。
また、カメラ提げたおっさんが車でうろうろしていると、明らかに不審者扱いの視線でじろじろ見てくる住民もいます。山の中の城ならば、観光か山歩きだろうと思われるのですが、住宅地では不審者と思われても仕方が無い。

休日は子どもの体力を奪い、家で暴れないようにするため、晴れていれば外へ連れ出す、というのが鉄則では無いでしょうか?
都心部の休日の公園には、お父さんが子どもを連れて公園でひっそりと佇んでいる光景が見られます。きっと、奥さんに「家の掃除するから、あんた子どもの面倒見てよね!」と言われて出てきたのでしょう。私も出て行くわけです。

そんな時、都市化された城跡は、かなり公園になっている場合が多く、いつもの公園から幾分足を伸ばせば城跡にいけてしまうのです!
しかも、子連れなので近所の不審な目も、むしろ和やかな目線に変わる。
いつもなら仕方無しにいく公園が、妻のご機嫌とりにもなるので、休日が有意義に過ごせます。

都市化された城跡は子連れの方がメリットが多いのです。

が、注意点として、子どもの行動パターンをよく把握する必要があります。
子どもがおなか空く時間、昼寝の時間、オムツの限界、等々を把握しておかなければ、泣き叫ぶ子どもを乗せた地獄の車に早替わりしてしまいます。
子どもが二人いると、このパターンが2パターン、そして自分の城へ行きたい行程という3つを組み合わせる必要があり、難易度が高くなりますが城数を1つか2つにすればよいわけです。

そして、本日、娘は妻がお菓子の城作りに連れて行くことになったので、息子一人だけみればいいので、大チャンス。5城に挑戦しましたが、一つわからない城が出てしまい、結果3城で終了。まぁ、午前中だけで3城ならば十分かと。

ちなみに、志賀城。


竜泉寺城。


守山城。


の3城です。
小幡城がどうしても見つけられませんでした。もう少し事前の準備をしておけば、と、悔やまれます。時間があれば末森城も狙ったのですが、いずれ。
これらの城については、また、別の回で。

夜、妻が友人の結婚のおめでとう会でいなくなるため、早く寝かせるため子ども達を疲れさせようと画策。午後は子ども二人を連れて実家へ行く。
犬とさんざん遊ばせて、ついでに親にも子どもの面倒を見てもらう、という一石二鳥を。
犬の散歩も行きたいと言うので親が犬を連れて行くのに同行。電車が通るものですから、寒さも忘れて興奮して眺めてました。さらに寒い中遠距離を知らずに歩かされている。

案の定、夕飯を食べた後に眠そうな顔をしているので、風呂に入れて布団に連れて行くと、あっという間に二人とも沈没。
おかげで、ネットに向かうことができるわけです。ククク。

このまま、子ども達が知らず洗脳されて城好きになると、言うこと無いんですが。。。

「森蘭丸」をググッてみた。

2013年12月06日 | 日記
ここ数日やたらとブログ訪問者数が多いのでなんじゃらほい、と、思っておりました。
gooブログには人気記事のランキングが表示されるようになっておりまして、私のブログは、ほぼ9割は「森蘭丸~信長との愛の軌跡~」が不動のエースとして1位を占めています。

皆さんに読んでいただけて、ありがたい限りです。
しかし、なんでこんなに皆さんが来ていただけるのかが不思議でした。

自分のパソコンはヤフーで検索することが多く、検索画面の1頁目の7番目です。
わざわざ7番目をクリックするというのは酔狂な方が多いのだな、と、思っておりましたが、たまたま出先のパソコンでグーグルで検索をかけたら、ウィキペディアについで2番目に私のブログが来る状況になっているのを見て驚きました。



これには自分がびっくり。

森蘭丸はコアなファンが多そうなだけに、検索画面の1頁目にいるだけでもありがたいと思っておりましたが、まさか『ググる』とウィキに次いでの2番目に来ているとは知りませんでした。

それもこれも、皆さん方が検索して読んで頂いているお陰かと。
誠にありがとうございます。

と、いっても、森蘭丸を追っかけてるブログではなく、戦国時代のどうでもいい話を追いかけたり、長篠に関係するものすごくマイナーなところを気儘に調べているだけのブログですので、森蘭丸情報はそんなに無いのが申し訳ないところでもあります。

ま、とりあえず発見して驚きとともに嬉しかったのでご報告まで。
末永くご愛顧ください。