長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

古宮城の整備活動、今年もやります!4年目に突入!!

2015年08月28日 | 古宮城
愛知が誇る超絶技巧の土造りの城『古宮城』。
城界のマエストロ、千田嘉博奈良大学学長も古宮城について中日新聞の連載記事に1回分費やし、はたまた、千田学長同行の古宮城ツアーを開催予定など、その筋からの評価は着実に上昇傾向にあります。

そんな新城市作手地区が誇る名城も、数年前までは特に注目されることもなく、ひっそりと植林の中に佇んでおりました。
しかし、折角の地域の宝、このまま朽ち果てるには惜しい存在、と、考えた有志が地権者の同意を得て整備活動を始めてから、はや四年。
※昨年の様子






そして、今年も古宮城の整備活動を開催します!!
既に日程の告知は行いましたように、平成27年10月17日(土)の午後1時30分から午後3時30分の間。
完全ボランティアによる活動ですので、お好きな時にお好きなだけ、気の向いた作業をお手伝いいただければ幸い、という活動です。

草刈機やチェーンソーをお持ちの方は、ガソリン代なども自腹になりますがお持ち頂き草刈作業に従事していただき、慣れない方でも、刈った草を集める、あるいは見学しやすいように通路の邪魔になる枝を除けたり、ゴミを拾ったり、と、お手伝いいただける作業は多数あります。

地元の方、市外の方、学生の方などが集まって作業を行い、希望者には『作手山城案内人』原田純一氏による古宮城解説ツアーも作業後に開催いたします。
詳細については、以下の画像です。


 読みにくい方のために、以下に内容を記載します。
1.日時 : 平成27年年10月17日(土)13:30から15:30まで(小雨決行)
 ※1 台風等による雨天の場合は、翌18日(日)10:00~12:00に延期します。
    参加登録された方には、開催状況はメールでご連絡します。
    また、ブログでも開催状況を掲載しますのでご覧ください。
 ※2 ボランティアで行いますの、開催時間中都合つくだけ御参加たれば結構。

2.集合場所 : 新城市作手清岳宮山白鳥神社境内前 集合(作手郵便局付近)
 ※ 神社境内前の駐車場が利用可能です。

3.作業内容 : 以下の作業を予定しています。
 ① 見学路部分の木枝やゴミ拾い(怪我防止)、② 刈払機による草刈(遺構の明確化)※本作業は危険なため刈払機所有者のみで行います、③刈った草を集めて見学路確保する(見学の容易化)

4.参加条件 : 全て手弁当で行いますので、以下の注意点に御同意いただける方となります 。
 ① 事故や怪我の責任は全て自己負担です。当方では責任を持てないことを御了解ください
(心配な方は、事前の御自分でボランティア保険等に加入ください。作業ボランティア申込受付はありません。)
 ② 軍手や作業着、手拭、お茶等は各自でご用意ください
 ③ 作業時には、蛇、蜂 、蚊 等に注意が必要です。服装は長袖ズボン、帽子を着用してください。

5.参加申込 : 参加条件同意と予め作業者の人数を確認するた10月9日(金)までに下記申込先まで裏面の内容を御記入上、御連絡ください。
 ※1 申込情報は、本作業以外の目的に利用しません。
 ※2 中止連絡はメールで行いますので、メアド記載に御協力ください。



当日飛び入り参加も歓迎ですが、できましたら、事前にご連絡をいただければ幸いです。
その際は、下記の項目を御記入の上、「furumiyajou@gmail.com」までメールしてください。
御連絡いただいた方には、受付確認として当方の連絡先を御連絡します。受付確認メールが来ない場合には、ブログ「長篠落武者日記」のコメント欄にその旨御記入ください。

 申込期限:平成27年10月9日(金)

事故や怪我等は自己責任となることに同意の上、参加を申し込みます。

氏名(ふりがな)
氏名(漢字)
当日連絡先(メール)
当日連絡先(携帯電話番号)
住所(市町村名まで)
事故等発生時の緊急連絡先(ご家族等への連絡先)(続柄:     )
年齢及び血液型(事故発生時に備えて)年齢:       、血液型:      

皆様のご参加をお待ちしています。

井伊直虎 ~大河ドラマになる女戦国武将~

2015年08月27日 | 日本史
再来年の大河ドラマに柴咲コウが主演で『井伊直虎』が決定したそうです。

どエライマイナーやな、と、思うものの、奥三河にも結構影響があるかもしれませんね。

ちなみに、井伊直虎という名前で、なぜ柴咲コウ?と、思われる向きもあるかと。この人、実は女性です。直虎という名前ですが。井伊家の当主がいなくなってしまい、女性ながら井伊家を継いだ際に、男っぽい名前を名乗ったそうです。ゲームで人気が出たような感じ。

※戦国無双の井伊直虎。こんな武将は現実にはありえないが、柴咲コウにこの格好して欲しいかも。

ウィキペディア情報ですが簡単にまとめると、
井伊家の当主の家に生まれるが女性なので次郎法師と名付けられ、いとこの直親を許嫁にして当主を継がせることが決まっていた。しかし、井伊家が今川義元に疑われて直虎の父直満は殺害され、直親は信州へ逃亡。信州へ逃亡している間も操を守った次郎法師でしたが、直親は信州で結婚してしまい、次郎法師は婚期を逃してしまい、結局生涯結婚をしていないことになってしまったそうです。
さらに直親も今川氏真に疑われて殺害されてしまい、さらに跡を継いだ傍系の直平までもライバルに毒殺されてしまい、とうとう当主候補がいなくなり直虎として当主就任。
ちなみに、直親の子供を養育しており、その子と共に鳳来寺に逃げ込んだりしているようです。
結果的に家康を頼り、井伊谷三人衆を味方につけた徳川家康が遠州へ侵攻した後に、家康に養育していた子供を見出され所領の返付を受けます。が、武田信玄の遠州侵攻でまた奪われるなどの苦労をしますが、最終的に養育してた子供が、後に徳川四天王の筆頭に挙げられる『井伊直政』となって、最後は安寧に暮らせたようです。

と、まぁ、かなりドラマチックな人生の上に、奥三河もめちゃくちゃ関係しているんですよね。

鳳来寺に逃げ込んだり、遠州攻略の際は東三河の徳川勢、特に山吉田の鈴木氏なども活躍しますから。

ところで、後家好きの徳川家康ですが、井伊家再興の際に直虎に目をつけた訳ではなく、直政に目をつけます。やはり、後家好きだけに未婚の直虎には食指が動かなかったのかもしれません。
浜松で鷹狩りしたあと、家康が見かけて「ありゃ誰じゃ?」と、聞いたところ「井伊家の後継です」と聞いて驚いて部下にしました。

で、家康は、その後井伊万千代を寵愛するのです。。。
その後、井伊直政は「男色無双」との称号を得たようで、当時の武将たち(男性)から相当モテてかなり言い寄られていたようです。

まぁ、井伊直政はその後大活躍しますので、ある意味人を見る目があったようですが、直政自身は結構なパワハラ上司になったため、部下にされた井伊谷三人衆も苦労したことでしょう。
※井伊直政の話はこちら「やさぐれひこにゃん」「続やさぐれひこにゃん」。

さぁ、奥三河の皆様!
再来年の大河ドラマ特需に備えて、今から御準備を!!

健康コーラ ~自由すぎる飲み物~

2015年08月23日 | 日記
自由すぎる飲み物を見つけて思わず買ってしまいました。
その名も『健康コーラ』



職場の売店でレジに並んでいた際、ふと隣に目をやるとこの商品が。

思わず二度見する。

パッケージから発せられる情報が、あまりにも氾濫しすぎたこの商品。
値段を見ると特価で1つ50円だったので、とりあえず購入して深く考えることとする。

まずこの商品名。
『健康コーラ』

健康とコーラ。
職場の隣に座るS君に見せると「コーラと健康ですか…。真逆の感じがします。」
とのこと。
全く同感。太田道灌。(←太田に意味なし)
あんまりこの二つのフレーズが順接的に並び立つ場面を厄年まで生きてきて意識することがなかった。

さらに「毎日続ける大豆の健康」というキャッチフレーズがあるように、
これ豆乳です。

豆乳とコーラを組み合わせるっていう発想が自由すぎて、自分の凝り固まった頭を反省させられる。スマホだって最初はキワモノ扱いだった。
コーラを飲みたいけど毎日飲むのはちょっと、と、いう層を狙っているのだろうか。
やはり、そうなるとコーラというのは毎日飲むのは如何なものか、という健康面での心配を突こうとしたのであれば、やはり「健康」と「コーラ」というフレーズは真逆の訴えかけなのでしょう。

さらに混乱に陥れるのが「無炭酸」。
その昔、「さわやかになるひととき」というキャッチフレーズのコカコーラでしたが、そのさわやかさの元となるべき炭酸が、無い。

それにこのパッケージ。
やはりコーラは赤なんですね。
そして、鳥が太陽に向かうイメージ。
なんだか健康っぽい。

どこまでも挑戦的なこの商品。

手に取ることを逡巡しましたが、一つ50円という金額が背中を押して、人生に挑戦し続けることを選択することができました。

そしてお味は。

コーラ味の飴を舐めながら豆乳を飲んだらこうなる、というもの。

ちなみに紀文のブランドですが、醤油で有名なキッコーマンの商品。
コーラ関係無いやん、と、思いましたが、まぁ、醤油とコーラは外見が似ていなくはない。
その辺りが謎を解く鍵なのかもしれない。

こういう挑戦はなかなかできないところを、やってしまったキッコーマン。

その意気たるや良し。

わたしもその気概を買ったようなものです。
味も想像どおりの直球勝負で、コカコーラを上回る高校球児のようなさわやかさです。

こうした挑戦を受けて立つ自分であり続けたいと思う。

が。

二度目は無い。

岡城 ~子供と百名城 その3 ~

2015年08月18日 | こどもと百名城
子供を城好きにしたい。そのため、子供が好きなスタンプラリーで釣って城へ連れて行こうという計画が発動されたのは昨年度のこと。
昨年度は名古屋城長篠城という近隣の城で済ます。ついでに小牧城にも息子を連れて行く。百名城には撰ばれていませんが、百名城級の価値はあると思うので。

今回訪れたのは、なんと九州。
子供をホテルのプールに泳がせて満足をさせることが主眼。そのついでに近隣の百名城を落とす、ということで最終目的地を熊本城に設定したのです。

別府温泉のホテルでプールと温泉を堪能し、阿蘇へ異動する途中に百名城を発見。わざわざ下道になるが、田舎道。さほど時間はかから無いだろうと踏んで立ち寄ることに。
山道を行くので子供の車酔いが心配でしたが、前日の疲れで眠ってしまいドライバーとしては思う存分カーブを攻めることができました。

この日の目的地は、滝廉太郎がインスピレーションを受けた城。
荒城の月で有名な岡城。


元々は文治元年(1185年)に緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるために築城したと伝えられます。惟栄は嫗岳大明神の霊力を受け継ぎ、背中に鱗があったと伝えられているとか。もっとも義経を迎えに行った船は難破してしまいこなかったようです。

その後、大友宗麟で有名な大友氏の一族である志賀氏の居城となり、天正14年(1586年)の島津対大友の戦いの際に、あの猛将島津義弘の攻撃を凌いだことで一躍堅城として有名になったようです。志賀親次(しがちかよし)は豊臣秀吉や島津義弘から絶賛されるのですが、主君の大友義統が朝鮮出兵時の振る舞いにより秀吉により取り潰され、志賀も浪人してしまったそうです。

最終的には中川清秀の子孫の中川秀成が入城し、その後城の石垣化と城下町整備が行われたそうです。(参考;「豊後岡城物語」吉田健二 PHP研究所、「岡城跡と城下町竹田 歴史の道」大分県竹田市発行)

まぁ、そんな能書きは、まだ3歳児には通用しない。
起きぬけで御立腹の息子。


とりあえずスタンプを押すことで宥める。


やはり幼稚園児と小学一年生を真夏の炎天下の城に連れて行くのは相当辛い。
覚悟の上でしたが、ご機嫌が悪いと本当に叶わない。

※写真左側のかまぼこ型石塁は岡城の特徴だとか。

まぁ、連れて行く親が悪いのですが。。。

とにかくこの城の石垣の凄さに驚く。


父親は一人で興奮しておりますが、妻子は暑さもあって低調気味。
必死にこちらも「これはすごいよね。景色が良いよ」などと言って気を引こうとする。

※入口で言われましたが、石垣の際まで行けてしまうのでくれぐれもご注意を。

子供らも少しご機嫌になる。


ただ、この城、想定してたよりもずっと大きかったのです。
こんな巨大な近世城郭だとは思っていなかったのです。すいません。めちゃくちゃ広い。

徐々に機嫌が悪くなる妻子。
暑さの汗と冷や汗に濡れる私。

子供との百名城には季節を選ぶ必要があるな、と、改めて認識する。そりゃ、7月末の夏休みに九州へ行けば焼け付くような日差しになりますわな。

しかし、城好きの業。この城、大手門が東向きだったのを視察に来た藤堂高虎が朝日が眩しくて敵と戦いにくいという助言をして現在の位置に大手門が変わったそうです。

※旧大手門

伝承では加藤清正が助言したという話らしいですが、実際は藤堂高虎だそうです。実際は、この石垣の積み方は一直線に立ち上がるので藤堂系だよな、と、思う。反りと勾配の清正系ではない。

暑さで熱中症も怖いので大急ぎで本丸まで向かう。
なかなかに立派な城で桝方虎口が尾根状に出てくる様は、なんとなく竹田城を思い出させます。


一人旅ではないのでゆっくりは見れませんが、来れただけでも感謝。

※無事に本丸の神社に到着。

石垣の見事さに惚れ惚れさせられました。






眺めも良くて、案外子供達も暑いながらも頑張ってくれました。
荒城の月を学校で習った際に、思い出してくれると良いのですけどねぇ。。。

※滝廉太郎銅像と。

厄年の扁桃炎は恐怖。

2015年08月15日 | 日記
扁桃炎になってました。

喉が痛いことに気付いたのは先週金曜夜。
ウインドウズ10のアップグレード作業がうまくいかずにクーラーの風が直撃する場所で長時間座っていたところ、喉に痛みを感じる。

いかん、これはいかん。

動揺する。
なぜなら翌週は妻が子供を連れて実家へ帰る。お盆休みが無い業種なので私は独り名古屋に。
ひゃっは~。
深夜番組みようが飲みに行こうが、いや、こっそり休みを取って独りだけ山城へ行ってしまうこともできる!と、一月前から楽しみにしていたゴールデンウィークが始まるというのに風邪なぞひいてはおれーん!

寝れば治ると寝るが土曜日喉は痛いまま。

今までの自分はここで寝ていた。しかし、こんなことではダメだ。今の自分は週4で走っている。気合だ!気合で治すのだ!

と、いつもより多めの6キロを走る。

走ると体温が上がるので何か治った気になる。
が、夜には喉が痛いのはむしろ痛い。
で、風邪薬投入。これなら治るに決まっとる、と、寝る。

が、日曜日。喉痛い。
これはいかんと少々日曜はおとなしくする。

月曜日は喉が痛いが、仕事でどうしても外せない案件があり全力で仕事をする。空調がケチられている我が社では汗だく。喉の痛みは相当なもの。近くの病院に昼抜けしていくと「うちでは耳鼻咽喉科がないから早めに行ってください。」とのこと。しかし、夜は娘が初めて独りでキャンプに送り出されて帰ってくる迎えがあって病院へ行けない。

火曜日。
喉は痛いし喉が腫れている感じがひどい。しかし、どうしても仕事を午前中にやらないけないものがあるので出社。熱はその間無いか微熱程度。だから日常生活ができてたのです。
来客があり話をしていると喉の痛みがなくなる。

「おや、喉が痛くなくなった。これは良い。気合で治ったか?」
と、喜ぶ。

が、その数十分後、異変が起こる。
話をしていれば唾液も出ます。通常、無意識でそうしたものは嚥下しているかと思います。嚥下の運動が発生したのに唾液が全く動かない。

『?』

再度意識して筋肉を動かすが、喉の奥が全く動いていないことに気がつく。
こんなことは人生で一度も無い。
激しく動揺する。

幸い、息はできている。しかし、唾液がたまるので来客に断り近くの流しで唾を吐く。
「ヤバいヤバいヤバい」
と、頭の中でヤバいが踊る。

喉の痛みが無くなったのは治ったのでは無い。むしろ危険水域に達したのだろう。
そういや、土曜日に最近ダイエットで痩せたはずなのに顔が膨らんで2キロは太ったような感じになっており不思議に感じていたのです。それは本日もそう。

「喉が腫れて浮腫んでたのか?!」
と、気づくが遅い。

そうこうしていると唾液が気道に入りそうになって少々むせるが喉の反応が悪いので苦しい感じに。太っているときに唾液が喉に入り込んで死にそうになったことが二度ほどあったのですが、あのときのように職場でのたうち回ると迷惑をかけるな、と、つい、救急車をお願いしてしまいました。

しばらくすると、落ち着きを取り戻し一瞬嚥下ができるときなどがあり、ああ、ただの迷惑な救急車を読んでしまう人では無いか、と、反省したがもう遅い。職場に救急車は来てしまいました。ただ、嚥下ができないのは続いていたので、救急隊の人に今はそこまでではなくて、と、謝りながら話すと
「大丈夫ですよ。喉の関係は呼吸も関係するので危ないので気にしないでください。」
と、優しく言われる。

もう、こうなるとこちらは益々恥じ入るしか無い。
結果的に近くの病院まで行くことをお勧めします、とのことだったので、人生初の救急車乗車。しかし、もう、もう少し落ち着いてから判断すればよかったと反省しきり。

そして耳鼻咽喉科へ行って処置される。
「どうする、入院する?とりあえず良いかと思うけど。」
と、医者に言われる。
入院は断ると
「わかりました。まぁ、よっぽど良いとは思いますが喉は怖いからね。気をつけて。もし調子が悪くなったらすぐ来て。ただし、その場合、入院になるから準備してきてね。一応金曜の朝に予約入れておくから。」
と、言われる。

幸い、処置と薬が効きまして、翌日には少し良くなっている。
入院は避けられたか、と、安心。

で、金曜に診てもらうと
「まぁ、よっぽど良いです。ただ、喉って意外と危ないののでおかしくなったら、すぐに医者に行ってください。」

ようやく、本日朝、違和感がなくなって治った感がありました。今までの朝起きると微熱があったのが無い。

喉が腫れているなんて、と、バカにしていたのですが、こんな迷惑をかけまくる事態になるとは、と、社会人として恥じ入るばかりです。金曜に出社した際は迷惑をかけた職場の人たちに平謝りに謝る。幸い、皆さん心の広い方ばかりで、こちらの体調を心配してくださる。

昼に同期と話したら
「まぁ、私らも歳だからねぇ。。。もう若くないんだよ、うらにわ君。」
と、言われる。

そのとおりです。
そして、扁桃炎。思いもよら無いことを引き起こすこともあるようです。

自らの恥を晒すことで、皆様にもお気をつけいただければと。

竹田城 ~ 40代からの弾丸一人旅 in 山陰 ~

2015年08月05日 | 落城戦記
天空の城として近年大人気の竹田城。
日本のマチュピチュとも言われています。


城が一過性のブームではなく観光目的となったことを象徴する城に思えます。
なにせ、この城には天守がない。建物がない。石垣のみ。でも、大量の人々が押し寄せると。城にさして興味がない人から「こないだ竹田城へ行ってきてね。」という話をよく聞くのです。

これだけ城が好きと公言している私がまだ未制覇。。。

姫路城、熊本城、竹田城は、観光ルート化されており、結構多くの人が行っているにも関わらず、城好きを公言する自分が行ってないことに、いつしかコンプレックスを抱いておりました。
『いつかはクラウン』的に大事に取っておきすぎた城なのです。

鳥取城から名古屋への帰路に位置し、宿泊地の城崎温泉からも近い。
こんなチャンスはない。己の引け目を解消するまたとないチャンス!

大人気だと聞くので早朝を狙い、6時起きで出発。
年間数万人だった観光客がマチュピチュとか天空の城とかの売り込みで人気大爆発。年間数十万人に膨れ上がった城だけに、じっくり見学するためには工夫が必要と考える。

城崎温泉から山沿いの道を気持ちよく走り、9時頃に麓の道の駅に到着する。
すでに第1便のバスが出立して、30分後に第2便がでるという。タクシーでも行けるということだが、歩いても30分程度と聞く。ほんなら歩いて行くべし。


道は太閤ヶ平のときと同じく既に舗装がされており歩きやすい。この道はバスと観光タクシーのみが走れるそうです。
テクテクと歩き続けていくと石垣っぽいものが見えてくる。いやが上でもテンションがあがる。


たまに降りてくる人とすれ違う。
その人たちの表情を見ていると、なんとなく暗い。
城好き、という感じの人達ではないように見受けられる。

そこで推測。

①無理やり城好きの彼(旦那)に付き合わされて登ったものの、見所がわからず一人だけ先に下山することとした。
②今、話題の場所だから行ってみたが、何が良いのかよくわからず、あっという間に見終えてしまい、バスの時間がかなりあるので歩いて帰ることとした。

竹田城は案外ハードルが高い城だと思っていたのです。石垣と縄張りの妙を楽しむ城なので、それなりの知識がないと楽しさがわかりにくい。なのに大型バスが連なって大挙して観光客が押し寄せる、という事態になんとなく違和感を感じていたのです。

と、そんなことを考えながら歩いていくとバスの降車場が。
そして、ここからは、全ての人が歩いていかねばならないようです。


車で行ける道と違い斜度が増す。舗装はされているので歩くに不便はないのですが、結構な斜度だなと思いながら歩いていく。果たしてこの斜度を名古屋城などの観光系の城と同じ感覚で訪れた人は結構後悔するんじゃないだろうか、と、思いながら歩くに。


まぁ、丁度朝飯前の運動としていい程度なのですが、シャツは汗ばんだ状態で到着。
案内看板を見て興奮する。


この山の頂上を要塞化したような三方に睨みを利かす造り!
素晴らしい!

目の前に現れるこの石の光景。この有無を言わさぬ迫力は一見の価値あり。

もっとも、この城は最初から石造りであった訳ではなく、土の城から石垣化されたようです。
和田山観光協会作成の『国史跡 竹田城跡』によると永享三年(1431年)に山名宗全が造らせたようです。山名四天王と呼ばれる重臣のひとり太田垣氏の光継が13年もかけて作ったそうです。嘉吉三年(1443年)に土塁の城が完成し、太田垣氏が守っていたようです。羽柴秀吉が織田の部将として進出してきた際、元々尼子氏をめぐって同盟関係にあった毛利と山名は連携して織田に対抗したようですが、わずか3日で落城したようです。そして羽柴秀吉の弟秀長が城を改築しこの際に石垣の要塞化が図られた様子。その後、桑山重晴が入城し、最後は赤松廣秀が城主で廃城となったそうです。

近くに生野銀山があったことが極度の要塞化を招いたようです。

この城に入って連続する枡形虎口を体験すると、なんか秀吉っぽい、と、感じる。
この感覚は名護屋城でもあったぞ。と。秀吉の作る城は、なんとなくですが城の入り口である虎口に侵入する前に180度のターンをさせ、攻撃導線を伸ばしていることが多いように感じます。城に入るときに一本突き出た石垣をぐるっと回らさせられる感じです。


折れの連続で迷路が連続する感も城の置かれた緊張状態を現しているようにかんじます。


そして石垣の城としての凄みを感じたのがここ。


遠景だとこの写真。


ちょっとわかりにくいのですが上の写真の左側の中程から伸びる城の道なんですが、ものすごい斜度の絶壁に造られています。土だと崩れてしまうようなところを石垣で補強している。石垣によって、より城の作りが作り手の意図通りになっていく感があります。

まさに芸術作品と言って良いかと。

と、個人的にへー、ほー、ふーんと歩いていると別のグループが。

話の内容を盗み聞きしていると写真の愛好家の集団のようです。なるほど。
城そのものにはあまり興味が無い様子。

観光客が増えるということは、こういう城には興味が無い客層が増えるということなんだな、と、改めて実感する。

そして、天守があった本丸は立ち入り禁止になっている。


まぁ、承知の上で来たのですが、なんとも無念。
ボランティアガイドの方にお聞きしたところ、あまりに人が来すぎて生えていた草が踏まれてなくなり、土が露出した状態に雨が降ったところ土が流れて石垣が崩落する危険が発生したため、やむなく立ち入り禁止にしたそうです。

実際、この写真にありますように通路部分には黒い養生シートがずっと被せられていました。


その昔、本丸の石を400個くらい直すのに数千万円かかったとお聞きしました。
いやー、維持費がかかる!
そりゃ入場料取るのも仕方ないわ、と、納得。むしろ取るべきだわ、と、思う。

足助城も木を切って土の剥き出しで展示していたら土が崩れたと聞いたことがあります。
新城市の名城古宮城は木が生えており見通しは悪いのですが、その分、雨による土の崩落が防がれている、と、作手山城案内人の原田純一氏が述べておられるように、城にとって土が剥き出しになるということは、かなり保存のうえでマイナスになるのだな、と、改めて実感。

そもそも城は崩れたりすることは普通にあったようで、その都度付近住民がかり出されて修繕に当たっていたわけです。現在でも見やすいように木を切り草を刈った状態で人が殺到すれば土が痛むし雨にも晒されて城が壊れるのは当たり前なわけですね。

保存と観光とのバランスについて改めて考えさせられました。

そして、ボランティアガイドの方に最後の山道、舗装されて整備されているとはいえ結構きついですよね、と、話を振ってみたところ、山城ですので当然厳しい傾斜があるのですが、観光名所となったのでハイヒールの女性や老人が姫路城のような平城の感覚で訪れるので途中で断念せざるを得ないことも多いとお聞きしました。

だよねぇ、週3から4、朝に4km走ってる自分でも汗ばむ斜度。夏の暑いさなかに訪れれば木が無いだけに直射日光を遮るものもなく飲み物も売ってないので、結構ヤバい。今後訪れることを検討されている方は十分な準備を。


しかしまぁ、この城、本当に素晴らしい。

石垣で急斜面と狭い道、そして複雑に折れ曲がる通路によって山上の要塞と化している竹田城。間違いなく名城です。
建物はなくても感動する城がある。
それをまさに現している城と言えます。城が一過性のブームで終わらないのは、こうした城がクローズアップされていることからも伺えます。



本丸部分の立ち入り禁止が一刻でも早く解除され、縄張りの素晴らしさを堪能できる貴重な観光名所として輝き続けていただきたいものです。