長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

信長塀

2012年04月30日 | 日本史
GWの前半は、息子の初宮参りのため熱田神宮へ。
長篠近辺に現在は住んでおりますが、出自は名古屋近郊。尾張国の一宮といえば真澄田神社ですが、名古屋で神社といえばダントツで熱田さんのネームバリューが高い。私らの親世代は熱田さんにこだわりがあるので、初宮参りは熱田神宮となりました。

熱田神宮といえば『草薙剣』。三種の神器の一つ。この剣に天照大神がよりしろとして合体したものが熱田大神となり主神となるとか。伊勢神宮に次ぐ格式を誇るいわれが、皇室の大切な神器を護持しているからとのことです。

さて、この熱田神宮と戦国といえば織田信長。

この塀『信長塀』と呼ばれる塀です。
桶狭間の戦いのとき、清須を出発した信長は熱田神宮で一旦休憩をとり、軍勢の集結を待ちます。銅銭の表を張り合わせたものを投げて占いを行ったりしたことで有名ですよね。で、この戦勝祈願の御礼として信長が寄進したのがこの塀。

熱田神宮へ行くときは是非寄られることをお勧めします。

ちなみに、この熱田神宮の宮司は当初は尾張氏だったものが、藤原系の千秋氏になります。この千秋氏は源義朝の妻を出し頼朝を産むと共に、新城市の野田あたりにやってきて、一時期支配しています。その千秋氏を滅ぼしたのが富永氏で、そのあたりの話はこちら

なんだかんだで、つながるもんですね。

ぱぴこ現る!

2012年04月24日 | 日記

最近本業が繁盛気味で更新が滞り気味でした。
で、久々にブログを除いたら、以下のようなコメントが付けられていました。↓

ぱぴこ papiko75w@yahoo.co.jp

はじめまして!ハロッo( ̄▽ ̄o)(o ̄▽ ̄)oハロー 初めてコメント残していきます、おもしろい内容だったのでコメント残していきますねー私もブログ書いてるのでよければ相互リンクしませんか?私のブログでもあなたのブログの紹介したいです、私のブログもよかったら見に来てくださいね!コメント残していってくれれば連絡もとれるので待ってますねーそいじゃ。。+゜゜。。+゜゜。。+アドレス残していくのでメールしてね!そいじゃ。。+゜゜。。+゜゜。。+

うーむ、私のブログを面白いと感じる客層が書くコメントとはとても思われない。
しかも、このコメントをつけたのはタケノコ掘りの日。通常の歴史の話ではない。そもそもブログも見に来てください、と、書いてありながらアドレスがない。そもそも、何がどう面白かったのかは普通書くだろう、と、思い当たる。

きっとこれは業者系の怪しい奴に違いない、と、思ってメールアドレスを入力して検索を掛けたところ、出るは出るは。「怪しいパピコに気をつけろ。」「パピコ来ました」などなど。一体これでメールを送らせて何をどうしようと思っているのかは不明ですが、カモり易い人として名簿業者にでも売るんですかね?

ネットも実社会は全く一緒で、油断もすきもないですねぇ。
世知辛い。

ちなみに、コメントは削除しておきました。

タケノコ掘り

2012年04月21日 | 奥三河
新城市内に新城総合公園という公園があります。
こちらで毎年タケノコ掘りという、先着順の申し込みですが無料という素晴らしい企画があります。
今年度も無事に申し込みができました。
冬の寒さからタケノコの生育が心配されたのですが、昨日の雨に最近の暖かさがプラスされて見事にタケノコが一杯。

無事に5本を掘り終えることができました。
地元のボランティアの方の補助もあって、4本程度でくたくたになっても、サービスで限度の5本になるよう1本大きなものをいただけたるという、なんともサービス精神旺盛な対応です。

就園児以上同伴ということから、参加した人々の光景がほのぼのとしたものでした。
大抵、娘「お父さんは?」、母「お父さん熱中してどっかいっちゃった。」という会話が繰り広げられていましたが。

徳川秀忠 ~将軍どっきり(秘)報告~

2012年04月19日 | 戦国逸話
 徳川秀忠。家康の息子で2代目将軍。
 非常に謹厳実直で穏和な人柄で知られますが、初代家康と三代家光に挟まれて地味な存在です。そんな彼のエピソードはこちら。

『常時従容(じょうじしょうよう)』
 秀忠は小さい頃から仁徳が厚かった。13歳の時、家来に本を読ませて聴いていたところ、突然牛が乱入してきて障子や戸を全部なぎ倒して、モウモウ泣いて、周りの近習は驚いて我を忘れたが、秀忠は沈着冷静常ならずであった。(以下略)

 突然の牛の乱入にも沈着冷静。すごいです。
 しかし、本を読んでいる殿様の子どもの部屋に牛が乱入する大名家って、どんな大名だ。しかも全部扉や障子をなぎ倒した、って尋常ではない。秀忠の沈着さよりも牛が乱入するような部屋に住んでいて、その牛は暴れ放題だった、その事実にこちらは驚かされてしまいます。

『家臣の処遇』
 秀忠が鷹狩りの時、左が山、右が崖、となっている細い道を馬に乗って通った時、家来の石谷長門が秀忠の馬を誘導していたが、崖に落ちては大変と馬を山側へ抑えていたら、抑えすぎて秀忠は山側に落馬してしまった。「上様落馬!」との声で家来衆が駆けつけて大騒ぎになった。石谷は手討ちの覚悟をしていたが、秀忠は笑いながら起きあがり、「長門が予を大事に思いすぎて落馬させてしまった。少しも迷惑に思っていない。幸い痛いこともなかった。長門よ。予の砂を払え。」といったそうな。(以下略)

 ええ話や~~。(涙)穏和な大将です。
 が、崖に大事な殿様を落とすまいと必死になって殿様を落馬させてしまった石山長門。なかなかナイスなキャラです。多分、秀忠も内心『ちょっちょっちょっと。儂、落ちてまうて』と思っていたのかもしれません。ちなみに、うらにわの高校生時代の同級生早川君は話している人の方に寄っていく癖があり、同級生の下堂園君を田圃に落としたことがあるそうです。冬だったので水が無くてよかったとか。そんな高校生の頃の記憶を呼び覚ましてくれました。 

 最後にこんなこともあったそうです。

『そらねむり』
 秀忠が鷹狩りでとった鶴を野田玄縁に賜ったことがあった。玄縁は有り難さのあまり頂いた鶴の汁物を押し頂きすぎて、自分の頭から襟首にかけて熱い汁をぶちまけてしまった。
 秀忠はそれを見ていたが、たまたま脇差しを杖に頬杖をついていたので、そのまま眠ったふりをして玄縁を見ないふりをした。これは玄縁が御前を気遣ってどうしようもなくなることを気遣ったからである。

 部下への優しい気配りがうかがえます。
 が、なんでこうも秀忠の周りには珍事が続出するのか。

 牛が部屋に乱入して障子や扉を倒すは、部下が心配のあまり馬のハンドリングを誤って落馬させられるは、褒美の吸い物をありがたさのあまりぶちまけて大やけどしている部下が出るは・・・。
 実は皆「秀忠は驚かないのだろうか?」という興味から賭けでもしていたのではないか。そう、疑いたくなってしまいます。しかし、秀忠は驚かなかった。どっきり潰しだったんですね。

 そんな秀忠が唯一慌てたと思われるのが、真田昌幸に翻弄されて、肝心の関ヶ原の戦いに間に合わなかった時。きっと真田昌幸が、ヘルメットかぶってプラカード持って『てってれー』という音楽と共に「大成功。」と秀忠の前に現れたことでしょう。

本多忠勝 ~生涯無傷の男の心の傷~

2012年04月18日 | 戦国逸話
 『家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八』

 敵からこのように讃えられ、徳川四天王の一人に数えられる名将本多忠勝。
(唐の頭とはヤクの毛をつけた兜のこと。南蛮渡来のヤクの毛は豪華品として珍重された。)
 飛んできた蜻蛉が止まったら、そのまま「すぅっ」と切れてしまったといわれる名槍「蜻蛉切」を振り回し、鹿角の兜を被って戦場を縦横無尽に駆けめぐり、生涯一度も傷を負うことが無かったものの、平和な時代となったとき、爪を切っていて小刀で小指を傷つけてしまったことで、自ら死期を悟ったといわれます。 
 ちなみに、こんな画像が残されています。

 この画像、何度も何度も書き直させて、自身の怖さを強調させた、という逸話が残っています。ちなみに、この画像をみた私の友人紀伊守は「かなりのしゃがれ声だと思う。」という感想を述べています。

 さて、忠勝の強さはどんなものだったのか。

『長湫(ながくて)の戦い』
 小牧・長久手の戦いで森武蔵、池田勝入斎等が家康と戦って敗れたと知った秀吉は大いに怒り、自ら八万の軍勢を率いて急行した。(中略)
 忠勝は部下に向かい、「今ここで命を落としても、秀吉の軍勢を一旦食い止めることができる。その間に家康公が体制を整え秀吉と戦えるものだ。忠臣の死すべき所は今こそ来たれり。潔く一戦をとげ、屍を戦場に晒し、その名を後世の残すのだ!!」と時々秀吉の大軍に鉄砲を放ち戦を挑むが、寡兵の忠勝を無視して秀吉は軍を進めた。
 竜泉寺へ10町あたりの所で、忠勝は竜泉寺の川の端へ馬を寄せ、例の鹿角の兜を夕陽に輝かせ、落ち着き払って馬に水を飲ませた振る舞いを見た者は、皆感心した。(中略)
 秀吉は「五百に足らぬ兵で儂の八万の軍勢に戦おうとするとは千に一つの勝ち目も無かろう。しかし、儂の軍勢を足止めして主君を勝たせようとするその志、勇気、比類無き忠臣本多かな。あのような者を撃つでない。」と弓鉄砲で本多隊を攻撃することを禁止した。(以下略)

 夕陽に煌めく鹿角の兜。見る者全てを魅了し、敵将すら感動させたその忠心。比類無き名将の名を欲しいままにしています。

 そんな無傷の名将にも、今の世ならば心の傷になったんではないかと思われるエピソードを発見。

『臭気に伏兵を知る』
 ある戦いのおり、家康は忠勝を連れて物見に出たところ、忠勝が言うには「これより先へは行ってはなりませぬ。今、私は人糞を踏んだのですが、細かくて臭いがひどい。多分、敵が近くにあるものと思われます。」
 その忠勝が報告する声を聞いて、敵の伏兵が現れた。家康が引き上げる時もあぶなかった。

 さすがは無傷の男。うんこからでも見えざる敵を発見します。
 戦場であっても出る物は出る訳で、敵ももう少し遅ければ真っ最中を家康や忠勝に見つかったかもしれません。
 家康にしてみれば、人糞を踏んだ直後の忠勝から報告を受ければ「う、こやつ臭い。」と思ったことでしょう。ひょっとすると「こいつ、冷静な顔して敵情を報告しているが、ただ単に、うんこ踏んだ言い訳してんじゃないか?」とか思ったかもしれません。
 ちなみにうんこと言えば忠勝の主である家康も負けてはいません。
 三方ヶ原の戦いで負けた家康は、ほうほうの体で浜松城へ生還したとき、恐怖で脱糞していた、というエピソードを持っています。

 やっぱり天下統一するような主従には、ウンが付いているんですね。

(付けたり)
 今年の5月5日に行われる長篠のぼり祭では、Fさんが本多忠勝役を引き当てたそうです。当然、踏んでから参加していただけるものだと期待しております。

江戸のブロガー 松浦鎮信 ~石田三成熱愛発覚!~

2012年04月15日 | 戦国逸話
 『武功雑記』なる書物があります。肥前平戸第四代藩主松浦鎮信なる方が書いたものです。うわさ話的なものが書いてあるので、面白い。本当か嘘かはわかりませんが、そんな話が昔あったんだね、という感じです。
 この資料を読んでおりましたところ、石田三成にとんでもない疑惑が!

『石田三成と大谷刑部』
 大谷刑部少輔吉隆は、たびたび石田三成を叱り、あまつさえ頭を叩くことさえあった。
 実は石田は大谷に恋慕し、成就した仲となっていたのだ。それからは頭を叩かれても「忝ない」というようにすらなっていたとか。(武功雑記巻12)

 ええええええ!
 炸裂する戦国ゴシップ!
 『石田三成熱愛発覚! 深夜大坂城からのお持ち帰りデート!!』
 と、いう感じです。

 先日さる方から「最近、落武者日記の品位が下がってられるような気がします。『いいね!』ボタンを押すのを躊躇ってしまいます。」という意見を頂戴しましたが、どうしても意外な戦国史、というものの発掘を狙うと、こっち系が多くなってしまいます。念のために申し上げておきますが、私は至って普通の嗜好ですので、そちらの世界には関心がございませんので、悪しからず。。。

 真面目な話をさせていただくとするならば、当時の武士たちの間では、こうした「文化」があり、抵抗無くきわめてノーマル扱いされていた、ということがあるようです。こうした部分を理解しないと、案外歴史の真実が掴めないことがあるのではないか、そんな感じがします。
 ひょっとすると本能寺の変は痴情のもつれから、明智光秀が関係の清算を図った、とかだったのかも。
 
 ちなみに茶会の席でお茶を回し飲みするとき、大谷の鼻水(一説によるとハンセン氏病に罹患していた大谷の膿)が茶に落ちてしまい一堂が凍りついた状況になったとき、石田がそれを飲み干したため大谷は恩義を感じただの、大谷は関ヶ原の戦いに味方する時、散々石田三成の悪いところを言い立てて、でも、負けを覚悟で石田方に参加しただのの逸話があり、なんとなく「なんか怪しげな・・・。」と睨んでいたところ、江戸時代からそんな話が既にあったわけです。
 三成の上司、豊臣秀吉はそちらの趣味がなかったようですが、これは下賎の身から出発している豊臣秀吉は上流階級のたしなみである衆道文化に触れることが無かったためだといわれています。その分、女性に対する意欲は尋常ではなく、大量の側室を抱えていました。石田三成は小さい頃寺に入っており、そこで三杯のお茶を豊臣秀吉に出したことから出世につながっていることからわかるように、衆道文化に触れる環境にあったといえます。ならば、深い仲になる男性がいてもおかしくはない訳です。

 しっかし今回の話、江戸時代に私のようなどうでも良いことに興味を持つ人(松浦鎮信)が書きとめたものを、平成になって同じようにどうでも良いことに興味を持つ人間(私)がブログに改めて書いた逸話な訳です。

 いつの時代も、私のようなヒマ人がいるんですね。

亀甲積

2012年04月12日 | 奥三河
新城市は歴史の宝庫で普通の顔してすごいものがなにげにあったりします。
まぁ、なんとはなしに通過するこんな場所がありました。

こんな感じで、

詳しくはこんな感じ。

現在、更地で売り出されている場所なんですが、古い石積みでかさ上げされていまして土地に入る場合に邪魔になるねぇ、と、思ったことはありました。
しかし、こうしたブログをやっていると様々に情報提供してくださる奇特な方がおりまして、
「うらにわさん知ってますか?あの石垣貴重なもんらしくて、昔道路工事やった際、崩すときに番号つけて、わざわざもう一度同じように積み直したもんなんですよ。」
との情報を頂く。

えええ!と驚き、すっ飛んで写真撮りに行ったのが上記の写真です。
よくみりゃ亀甲積じゃんか!、と、ひとりごちる。(←近くに人がいれば嫌がられることでしょう。)

どうせ最近のコンクリでそれっぽく外観整えて、貼っつけたモンだろうと頭から決めこんでましたので全く気がつきませんでした。なるほどこれは石垣じゃん、と納得。
まだまだ私も青い、と反省した次第です。
そんなものがゴロゴロしている新城ってすごい!と、改めて思いました。

ちなみに亀甲積とは、一般的な城郭に利用されているものではなく変則的な積み方の一種で「・・・石を六角形に整形して積む亀甲積である。しかし、城郭においては、亀甲積は江戸時代後期の比較的低い石垣に・・・わずかに見られるだけである。・・・」(参照『城のつくり方辞典』三浦正幸著 小学館)
石を整形する積み方は一般に切込ハギという技法が有名ですが(隙間なくぴっちりとつんである奴です。名古屋城とか江戸城とかにあります。)亀甲積もその亜流みたいな感じでひっそりと分類されるもののようです。
現在石垣を積む技術と言うのは失われているそうでして、文化財保護などの目的で積み直しをする場合は、石の一つ一つに番号を振って図面に写し取り、同じように再現する積み方しかないとは聞いていましたが、そうしたレベルのものがこんなところに使われていたとは。

実は、石垣一つとっても積み方、素材、化粧方法、反りなど奥が深いのです。もっともこんな話を喜ぶのは私らヲタでありまして、城好き以外には「はぁ?!亀甲?縛り方?」とか言われて終わりでしょう、きっと。

レアもの

2012年04月11日 | 奥三河
本日は嬉しすぎるものを入手いたしました。

写真がうまく取れてなくてすいません。
なんと、古宮城手拭です!
しかもこの古宮城。聞いて驚くなかれ。

城界の巨人、千田嘉博先生作図というプレミア付きなのです!
奥三河山城ツアーで講師をお願いした高橋延年氏からの推薦で千田氏の図を使う話に進んだそうでして、千田氏からも了承をいただき利用させていただいたものだそうです。

講演会で高橋氏が披露された話ですが、千田氏が中学生の頃に高橋氏と同じ城郭愛好会に入られたそうでして、奥三河の城を巡るときに、千田氏のご自宅名古屋から高橋氏のご自宅豊橋まで自転車でやってきたとか。しかも朝7時の出発に間に合うように・・・。そして奥三河の城を見た後、また、自転車を漕いで名古屋まで帰っていかれたそうです。高橋氏曰く「大学教授になるような人は昔から違ったなぁ。」とのことでした。
そんな縁から千田氏の作図を利用したと言う経緯があったとか。

この手拭、山城ツアーボランティアスタッフに対する褒美の品として奥三河ビジョンフォーラムさんのご好意でいただいてしまいました。
売ってくれればいくらでも買いたいところですが、印刷ロットが少ないために原価が高いそうです。

もし売り出されたら、皆様も日頃お世話になったあの方へのご贈答品にいかがでしょうか。きっと先様はあなたのことを忘れないと思います。

どういう意味で忘れないかは保証しかねますが。。。

歯磨き鬼

2012年04月10日 | 日記
最近くたびれておりまして、なかなか更新できません。
なので簡単に育児のことを。

娘が歯磨きを嫌がります。なので、「歯磨きをしないと鬼が来る」という設定で廊下に出ては襲われた、と、叫んで逃げてくる親を演じておりましたが、こないだ書棚にある本を見つけて、娘に「これが歯磨き鬼だ!」と見せました。

怖すぎました。

娘は本気で嫌がってます。
背表紙で飾っているのでいいのですが、こんな表紙を部屋に飾っていたら変なものがやってきそうです。

市のカエル

2012年04月08日 | 奥三河
死のカエル、というとサスペンスですが、違います。
「市長死す」という刺激的なタイトルのドラマが先日放送されましたが、そのロケ地は実は鳳来の湯谷温泉街だった訳です。見慣れた景色がちょろちょろと登場していました。

さて、死の、いや、市のカエルについて。


長篠の属する新城市では、合併5周年を記に一昨年度に一風変わったものを制定しています。市の木(山桜)、市の花(ササユリ)、市の鳥(コノハズク)。このあたりは「ふむふむ。」そして市の石(松脂岩)。「石?」と思うのですが、トドメが「市のカエル」。
「森と水の豊かな新城市を象徴する生きもの」として制定されたそうです。。。
嘘だと思う人はこちらのHPを。

で、いまさらながらこの話題をするのはなんでか、ということですが、たまたま『新城町誌』(新城町誌編集委員会 昭和31年8月20日発行)を例によりコピーして読んでいたところ、江戸時代の文人太田白雪が書いた『新城聞書』の中の記事が記載されていました。

「寛永14年(1637)4月から5月の間、矢部村の田に遠近の村里の蛙が集まって軍をした。新城からも見物する人が市をなした。十月にはこのために島原の乱が起こったと云われる。」

矢部は新城東高校の北側のあたりで、島原の乱の少し前にカエルが大量に集まってきて、いくさをした、ということが記録として残っている訳です。見物客も多かった上に、わざわざ記事として残すくらいですから相当インパクトがあったんでしょう。
しかも、島原の乱を誘発したという蛙の戦争ですからねぇ。笑。

こうした歴史的経緯(?)をも実は踏まえて制定されたのかも。?