長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

福島正則 ~デジタル思考のサディスト~

2013年07月31日 | 戦国逸話
福島正則。


見るからに豪傑、という感じ。

豊臣秀吉の数少ない股肱の臣で、加藤清正と並び称されることが多く、清正が関羽で正則が張飛に例えられることも多い。
とにかく猛将で知られております。なんせ、13歳くらいで人殺しをしてしまい、一旦逃げます。その後豊臣秀吉に召抱えられて、賤ヶ岳の七本鑓の筆頭となってから数々の戦で活躍し、豊臣家思いながらも石田三成と折り合いが悪く、三成と結託していた淀殿と対立する秀吉の正妻おね(北政所)派だったことから、関ヶ原の戦いでは東軍についてしまいます。

上杉討伐で小山まで進出していた家康軍でしたが、石田三成の挙兵で率いていた軍の内部に秀吉子飼い部隊が多かったことから動揺します。
その動揺を鎮め、一挙に徳川陣営に皆が走るきっかけを作ったのが、この正則です。

「秀頼公が軍勢を集めろと言ったらしいが、まだ八歳。そんなことを自分で考え付くだろうか。これは、石田三成の仕業に違いない。奴が天下が欲しいから秀頼公を唆したのだ。皆がどう思おうと、儂は家康公の味方として奴らを中罰してくれるわぁ!」

と、啖呵をきったことから一斉に皆が「そうだ、そうだ。」となって、三成と戦うことになります。

で、関ヶ原の前哨戦で岐阜城を攻略します。
このとき、岐阜城主は織田信長の直系の孫、秀信。
清須会議で秀吉が擁立した三法師がこの人です。

ちなみに、その昔、私達が歴史の講演会を聞きにいき、本能寺の変のあたりの話が主題だったのですが、最後の質問時間で、やおら老人が立ち上がり「三法師はどういう名前だったんですか?この三法師はその後どうなったんですか?」と、講演の本筋と全く違う質問をしつこく繰り返して、我々が呆れたことがありました。そして、我々の間では長く伝説の質問として語り継がれているのです。

ああいう講演会って、定年後の人がほぼ9割を占めるが、なぜ、いつもいつも筋違いの質問をしたり、自分の知識の披露がしたいだけで散々会場に居る皆が知っていることを、さぞ自分だけが知っているかのように誇らしげに語った挙句、それでは質問になってないことに最後に気づいて「で、どうでしょう?」で締めて講師を困らせてばかりいるのだろうね、と、私の城仲間達と話しております。そういう老人にはならないようにしよう、と、皆で誓っております。

いや、そんなことはどうでもいいのです。


で、この正則。
三成が嫌いすぎて、その感情に従ってしまい、豊臣家にとって本当に危険な存在に手を貸してしまうことをやってしまったのです。

そして関ヶ原の戦いでは、強情すぎておかしくなります。

○敵に後ろを見せず
 関ヶ原の戦いで、西軍(三成方)がことごとく敗れて、皆伊吹山中に逃げ込んだにもかかわらず、島津義弘だけは勝ちに誇る東軍(家康方)数万のど真ん中を突破しようとして、無二無三に突入してきた。このとき、東軍の先手はなんとなく色めき立ったが、正則は「儂一人でも島津と戦う!」と言い出して馬を進ませようとしたので、周りの家来達が必死に押し留めた。
 正則は余計に猛り、
「お前らは知らんのか!侍の墓は戦場にあるんだ!」と駆け出そうとするので、
周りの家来は
「私達は臆病なのでは無いのです。攻めるときは攻め、引くときは引く。進退応変が良い武将です。これほど勝った戦いで、死を覚悟して突入してきた死兵相手に命を捨てても意味が無いではないですか!」
と、無理やり正則を退かせた。

「くっそーーーーーーーー!」
と歯軋りしながら引き戻されたが、それでも

「敵に後ろを見せられるか!」

と、叫んで、馬上で体をねじって後ろ向きに座って退きのいた。

まぁ、彼なりのプライドと言うか美学で敵に後ろを見せない、というのがあったのでしょう。

三成が嫌いだから反三成側に付いた。
敵に後ろを見せるのが嫌だから馬に反対側に座った。 

同じ思考回路上にあると言ってよいでしょう。
0か100か。
きわめてデジタルな思考の持ち主です。

関ヶ原で活躍して調子に乗ったのか、もともとの粗暴さに拍車がかかります。

○報恩の茶坊主
 正則の近習の某が、ちょっとしたミスをしたので、広島城の櫓に押し込めて食べ物を与えず餓死させようとした。
 しかし、この近習に昔恩義を受けた茶坊主は、恩人がささいなことでこんな酷い目に遭っていることに心を痛め、こっそりと焼き飯を持っていった。
 近習は
「私は罪があるからこうなったのです。あなたの好意は嬉しいが、こんなことをすると殿に聞かれたら、あなたも無事ではすみませんよ。あなたの方が罪がおもくなってしまう。飯を食べたところで命が助かるわけでも無し。早く帰れ。」
と、言ったが、茶坊主は
「私は先に殺されるところを、あなたに助けられたのです。恩を受けて返さないのは人ではない。弱気になって私の志を無にされるのは残念です。」
と、言ったので、近習は喜んで、では、と、焼き飯を食べた。

この後、茶坊主は飯を毎晩届けた。

しばらくしてから、
「そろそろ死んだか。」
と、正則が櫓にいってみると、全く顔色が変わらず衰えても居ない。

正則は
「誰がこいつに飯をやったんだ!」
と、怒ると、茶坊主がやってきて「私です。」という。

正則は、はったと睨み、
「貴様、なぜこんなことをしたぁっ!真っ二つに頭を斬ってくれるわ!」
と、斬ろうとすると、茶坊主は少しも騒がず、
「私は昔罪を得て水責めにされて殺されそうになりましたが、近習の方が申し開きをしてくださったお陰で今まで生きていました。その恩を返すため、毎晩密かに飯を運んでおりました。」
と、言う。

正則、怒った目に涙を流し、
「お前の気持ちはよくわかった。そうでなくてはいかん。近習も許そう。」
と、いって、櫓の扉を開けて罪を許し、茶坊主も大変褒められた。

とのことです。

なんか、良い話っぽくしてるんですけど、よくよく考えても見れば、ささいなことで立腹して、水責めにして殺そうとしたり、餓死させようとしたり、かなり無茶苦茶なことをやってます。頭真っ二つにしたる、とか言ってますし。
単に首を刎ねるのではなく、苦しませてから殺そうとするあたり、かなりのサディストの傾向があります。

あらくれ気質に時代が拍車をかけてしまった、という感じです。
さしずめ、今ならブラック企業でブラック度がどんどん増していく経営者みたいなもんです。

でも、酷い目にあわせておきながら、突然の涙。
0か100か。
ここでもデジタル正則の面目躍如と言ったところか。

まぁ、往々にして、こういう人は、一面で親分肌で信奉者も居るわけでして、こんなエピソードもあります。

○江戸へ訴えた百姓
 正則の部下の領地で課税が重い、と、広島の百姓六人が江戸へ来て正則に直訴した。
 正則は之を聞いて、台所役人に「遠くからわざわざやってきたのだ。ご馳走してやれ。」という。
 百姓達は大喜びしたが、部下は固唾を飲んで見守っていた。
 4~5日過ぎた頃、百姓を白洲に呼び出して、全員の首を刎ねた。
 正則が言うには、
 「たかが銀500目だか600目のことで、ワシのために妻子を捨てて従っている部下どもへ迷惑を掛けようなど、ありえん。むかつく百姓共だわ。」
と、言ったので、部下は皆涙を流した。

これまた、評価に困る話が・・・。
部下からすれば感涙するような話かもしれませんが、百姓にすれば取立ての酷い武士にたまりかねて申し出たら、首を刎ねられた、という話です。
「たかが銀500目だか600目で」と、言ってますが、この金を捻出するのに、どれほど百姓が苦労するか、という点は全く考慮されていません。
部下の視点で見るのか、百姓の視点で見るのかで、大きく評価が異なる話です。

まぁ、いきなり首を刎ね、なおかつ捨て台詞。
ここまでダークだと、ある種の爽快感すら感じますが、ひきます。

こんな統治や考え方なので、結果的に徳川家に取り潰されてしまいます。
ただ、福祉負けの家臣達は、諸藩が争って召抱えて一人も残らなかった、といいますから、福島家中ならば強かろう、という評価はあったのでしょう。

ひょっとすると、
「福島家並のブラック度に耐えられる人材だから、うちでもよく働くだろう。」
と、思ったのかもしれませんが。。。

古瀬間城 ~山城街道301に連なる城~

2013年07月28日 | 落城戦記
山城街道301、というのは私が今勝手に名前を付けてみました。
国道301号って、ものすごい城が多いんですよね。それも比較的保存状態が良い城が。

昔、奥三河山城デジタルスタンプラリーを実施した際、本当は301号を含んだ全体でやれると面白いな、と、思ったんです。まぁ、諸々の事情により奥三河の7城に絞らざるを得ませんでしたが。

この301号は私が惚れ込んで新城市へ移住する(残念ながら現在は仕事の都合で尾張名古屋に戻っていますが。)きっかけになった古宮城も301号上にあります。

この街道、主な城を上げるだけでも、大給城、松平城山城、松平城、大沼城、賽之神城、古宮城、亀山城。いずれ劣らぬ名城ばかり。城としての技巧が凝らされているので見ていて楽しい城ばかりです。

と、この301号は、東海環状自動車道をくぐって、248号と153号とぶつかるんです。
153号に行けば足助へ行きますし、248号を行けば岡崎経由で蒲郡の海まで出られます。

で、301号の大給城には大給松平という有力一族がいますが、この一族が後の徳川将軍家となる松平宗家とは微妙な関係にあった感じでして、今川の討伐を受けていたりします。

この大給松平氏、その先にいる三宅氏、鈴木氏、さらには東濃の遠山氏は、資料の残りがよくないので不明な点が多いのですが、私が拘って調べている奥平氏とともに反今川蜂起を弘治年間にしたりしてまして、私にとっては想像がかき立てられる地域なのです。

元はと言えば、私が資料を読んでいると弘治年間の反今川蜂起は織田信長の策謀によるもの、ということが書いてあって「なんだとう!そんなこと、信長公記のどこにも書いてないじゃん!ええ、そんなんすごすぎぃ!」と思って、様々に調べていくと「?」という部分が多いんで困ってしまったことが、大給松平や三宅、鈴木、遠山と遡らざるを得なくなった原因なのです。

この弘治年間の直前、天文後半頃から織田家というのは旗色が悪い。
織田信長の父親、信秀は、天文17年(1548年)に小豆坂合戦で太原崇孚に撃破され、翌年18年、安城進行を受けて信長の異母兄とも言われる三郎五郎信広が生け捕りにされてしまいます。で、その翌19年後奈良天皇が織田今川に和睦の斡旋を命じます。さらに稲生の堤防が切れて尾張領内がえらいことになった記録もこの年にあります。稲生と言うのは、私の生まれ育った場所から結構近くて、ここが切れる、ということは、尾張の平野部に甚大な被害が出たことが想定されます。
さらに翌20年足利義藤(義輝)が織田今川の斡旋に乗り出てきて今川から織田に対して和睦条件が示されます。そして、翌21年、織田信秀は死去したと言われます。(信秀の死去年数については異説がある。)
で、そこから織田信長は弟信勝(信行)と結構ゴタゴタしたり、守山領有を巡って叔父信光が謎の死を遂げたりと、正直、「ほんとに今川に関ってるような余裕があったのか?」という感じなんですよね。さらに、肝心の弘治2年。この年は織田信長にとっての強力な同盟者斉藤道三が嫡子の義龍に滅ぼされてしまいます。要は、西濃は反織田。尾張の東側は弟信勝の勢力が強い状況なのです。
遠交近攻策の一環として西濃の背後の東濃、尾張東部の背後の三河となんらかの手を結ぶことも策として考えられなくもないこと、後の桶狭間の戦いの印象が強いので、織田信長陰謀説が出てきたのだと思いますが、西三河が仮にそうだからとしても、東三河までそうだと言えるのか、というのは疑問です。

で、色々と調べていくと、岡崎市史や豊田市史が推測で地域豪族が織田の影響を受けた、と、書いてあるから、東三河方面の郷土史も「じゃあ、うちも。」的な感じで書いてしまっているように見受けられます。

まぁ、今川と言う巨大な勢力を前にこの地域が独力で対抗することなどありえない、と、ハナから思い込んでいる、というのもありますが、最近では東濃の遠山、伊保三宅、足助の鈴木の連合軍と奥平・菅沼の一部が組んだのではないか、という説も出ています。私としては、当時の状況からそちらの可能性の方が高いと見ています。

実際、東濃の遠山が天文16年に大樹寺宝樹院に下地を寄進した記録の中に奥平氏の所領である宮崎や阿知波の地名が出てきます。それで「おや?何コレ?」と思ったんですね。

ただ、その年に今川義元から奥平氏に豊田市の高橋地区に医王山砦の関係で所領安堵の書状が出ていたりと、まぁ、私的には、まだ全く整理が付いてない状況なんで、ただ、本に書いてあることのみを列挙している状況です。

で、豊田の高橋地区ねぇ、と、気になっていたら、今年は仕事の関係で豊田市の高橋地区に行くことになりました。

で、その途中、ナビが発見した城が、今回のテーマ古瀬間城です。
(前置きが長すぎる。)



立派な山門!


そしてこんな冠木門が。


門の入口近くでスズメバチだかアシナガバチだかの巣があるようで、危ない!と思う。
湿気と暑さで汗が垂れるわ、それで蚊が寄ってくるわ。

だから夏の登城はだめなんだよねぇ、と改めて認識する。
まぁ、所要の途中で城向きの格好をしていない、というのもいかんのですが。
常なら完全フル装備で肌の露出はほとんど無く、蚊よけも散々にスプレーしていきますから。

結構整備されていました。
縄張図はこんな感じ。

※現地案内看板より。

案内看板が麓と頂上付近では言ってることが少々違います。麓の方はお寺の方が立てられたのかな?という感じで、頂上付近の方がなんとなく詳しい感じがします。それによりますと、
「松平氏が高橋荘攻略の拠点として永正3年(1506年)に松平宗忠(長沢松平家)に築城させたと言われています。」とのこと。
高橋荘攻略の拠点、ということは、一体、この時点で高橋荘の主は誰なんだ、というのが疑問。
永正の頃だと中条氏あたりが、まだ、力をそこそこ持ってたんじゃないのか?確か。
で、松平氏が勢力を伸ばして中条被官の三宅や鈴木と諍い出したのか?

実は永正三年は今川氏親が謎の三河侵攻をしてるんですね。
斯波氏領国の遠江攻略の関係で背後の三河まで影響力を及ぼそうとしたといわれています。

ま、なんかあっても不思議じゃない年。それが永正三年。
ちなみに、長篠付近で言えば、野田菅沼氏がこの年に成立します。

と、なると、今まで野田菅沼氏の成立が家臣団の謎の分裂から誕生した経緯を一度書きましたが、今川侵攻に伴う勢力変化で親今川派が勝った、ということも考えられますね。

などと、偶然見つけた城から、あれこれ考え出して混乱しております。

能書きはいいので、この城ですが整備されていますので、階段を登るとこんな感じで本丸に続くような感じです。


そこから続く本丸と思しき部分には立派な展望台が作られていまして、眺めは最高です。


個人的には、階段から登った部分から本丸に入ると言うよりは、その下をぐるりと回りこませて、虎口的なものをくぐらせて侵入させたんじゃないのか、と、見ましたが、はたしてどうでしょうかね?。


まぁ、時間の無い中で見たものですから何ともいえませんが・・・。

その裏には墓とかありまして、城よりも標高が高いのです。


城よりも標高が高い部分がそのまま残ってるのも面妖な、と、思い見ていますと林業作業用に作られた道なのか、でも、なんとなく「城?」とか思ってしまう部分もある。


まぁ、しっかりみてないので気のせいかもしれません。

なんにせよ謎が多かった、というのが感想です。
でも、長年「高橋地区」というのが地図や文書でしか見てなかったのですが、実際に意識して訪問したことで、少し意識が変わりました。

そういう意味では、ありがとう、古瀬間城、という感じです。


これで、最近頓挫していた奥平関係の書類をもう少し読む気が起きてきました。
さて、整理しなおすか・・・。

参院選

2013年07月22日 | 奥三河
参院選が昨日ありました。

新城市から引っ越して半年経っていないため、新城市ちさと館で投票できます、との案内が。。。

「なんだとぅ!」

と、叫ぶ。

「これじゃあ、新城市に行かないといけないねぇ。」
と、妻と話し、新城市へ。

新城市へ行く口実ができたと喜ぶ。

なにせ国民の権利であり、大人の責務。
果たさねばなりません。

新城着くなり投票を済まし、よく行ってた店で昼飯を食い子どもを遊ばせることに。

一度川遊びをさせたかったので、県民の森へ行ってきました。

昼も結構すぎていたので、水へ入ると冷たい。
娘は楽しさのあまり寒さを忘れて遊んでいますが、唇が紫色。
よくみると震えながらも遊んでいるので強制終了。

しかし、帰るのは嫌だとわめくため、しばらく休憩後、川遊び再開。

また、唇が紫になって終了しました。

新城に居る時分は子どもが小さくて川遊びは難しかったのですが、やはり連れて行くと喜んでいます。
川遊びしにまた行かねば・・・。

子供乗せ自転車

2013年07月15日 | 日記
三連休。

家族サービスもせねばなりません。

で、名城公園のレンタル自転車が前から気になっていたので申し込む。
自分が娘くらいの年のときには1回2百円くらいで借りていたような記憶があるのですが、今は6ヶ月500円で刈り放題だそうです。

最近、幼稚園にやってくる子供乗せ自転車で気になるものがありました。
自転車の後ろに人力車のようなものを接続して子どもを乗せるタイプの奴です。

運転は難しそうだが、乗り心地はよさそう。

と、思っていたら、なんと、それがレンタルしてるじゃないですか!

※現物写真。

30分がレンタル限度。
丁度3周するといいらしいです。

その結果は。


爆睡。

聞けば「楽しい。」と言っておりましたので、乗り心地も悪くないようです。
道行く人も珍しそうに見てますし、子どもが「あれ乗りたーい」と指差しているのも聞こえる。

運転はやはり横幅があるのと長くなるのとで、気をつけないといけないですが、まぁ、大きな通りを選んで走っている分には大丈夫そうです。

前と後ろに篭が付いているタイプよりは、あきらかに安定性があります。
ま、買う気はありませんが、リースとかがあったら、便利かも。
自分のMTBのほうにも取り付けられそうですからね。

どっかの市町村で子育て支援の一環として3人乗り自転車のレンタルやってた気がしますが、これレンタルしてくれたら嬉しいですね。

古宮城の整備活動。今回は東。

2013年07月07日 | 古宮城
7月6日(土)に古宮城の整備活動が行われました。

昨年度新城青年会議所さんの企画で「地域の宝物みがき」として古宮城の整備活動を行ってくださいました。
この時は、西側の整備で終わりました。終わってみると今まで見ることのできなかった地形が判るようになり、
「なるほど、ここはこういう機能だったのか。」
と、よくわかりました。

※堀の形状がよくわかるようになりました!

と、大変好評(城好きに)だったので、折角地権者の方の了解を得て実施できたのに1回限りでは勿体無い、と、青年会議所の企画者さんと作手山城案内人の原田純一氏等と話をしてました。
「折角だから手弁当で継続に協力を呼びかけようか。」
と、なり、今回の実施に至ったわけです。

ただ、組織でもなく、何かの看板を使ってやるわけでもない活動にどれだけの賛同が得られるのか。
駐車場は、暑さは、雨天時の連絡は、準備は、保険は・・・、と、考えていくと、心配の種は尽きません。

「まぁ、今年は初めの年だから、完全手弁当で趣旨に賛同してもらえる人達で小さくやろう。で、まずは3年程度継続してみて様子を見よう。」という原田氏の意見は至極妥当な結論であり、今年度はその方向で実施することとしました。

実際、ほとんど告知せずにどこまでできるのか。
やはり地元の人に理解してもらわないと、ということで、どこまでくるのかわかりませんでしたが、皆さん徐々に集まっていただけ、地元の方が草刈り機持参で10名ほど。


地域外の応援勢も、色々と都合をつけてくださり徐々に集まっていただくことができて6名程度。
お陰さまで15名程度で作業することができました!

中には、わざわざ名古屋から電車とタクシーを乗り継いで参加、という方も。

ほんと、ありがたい限りです。ありがたや、ありがたや。

さて、今回は城の東側に取り掛かることとしました。

※指の部分。左側は昨年度実施。植林により陽が入らず、雑草もさほど伸びてないので今回はパス。

まず、神社から登っていくと右手に出てくる三日月堀の作業前。

わかりにくいので、もう少し引いてみると、こんな感じ。


作業後はかなりはっきりと堀の形状がわかるようになりました。


ここを東郭の東虎口上記写真の奥になる)から見ると、綺麗に土橋が現れています。そして、堀の全面にある帯郭が、なんとなく関東でよく見た馬出的な感じにも見えてくるから不思議。

こういうものは、縄張図を自分で書くようなセミプロならともかく、見て回っている人達からすると、草ぼうぼうだとわかりにくいのです。これが、草が無くて見えるようになると、いろんな見方ができるのが素敵です。

古宮城最大の見所、両袖枡形虎口を通過して入る東郭部分は、作業前こんな感じ。

作業後の写真を撮り忘れましたが、現在、かなり歩きやすい状況になっています。

東郭の東側にある虎口部分は、作業前は何だかわかりません。

しかし、作業後はこう!

完全に虎口の形状が現れました。この写真の方向ではわからないのですけど、この虎口もかなり大きな枡形のような感じになっています。

そこから下に下りる馬場の作業前。

作業後は、

こんな感じになって、白鳥神社境内から難なく歩いていけるようになりました。

実際の作業風景は、自分も作業していたので枚数が少ないのですが、草刈機を持ってみえる方達は草刈部隊として広範囲に下草を刈っていきました。
後、チェーンソーを持っている方はこんな感じで倒木を切り分けていきます。


そして、私のような名古屋で特に下草を刈るなどの技術が無い人間は、切り分けた木を1箇所に集めたり、刈った草を脇へ寄せ歩ける道をつけるなどを行います。
そして、鳥獣害対策で埋めた鹿を狐が掘り出して食べるもんですから、結構骨が落ちてますので、それを回収して深く埋める。(今回は拾ってしまいました。)

回収部隊。ゴミも多いのです。決して怪しげな宗教集団ではありません。


作業時間は2時間。うち休憩を挟むので実質1時間半。
午後の1時30分から始めて、3時30分に終了しました。

心配された暑さですが、さすが作手。標高500mあるので涼しい。下の新城と4度ほど違い、蒸してはいましたが熱中症を心配するような暑さではありませんでした。元々日陰が多いですし。7月でもあの気温。さすが八月以外はコタツがいるという作手の話は伊達ではありません。

地元や近隣からの応援の方々は「綺麗にするまで刈る。」という拘りがあるので、作業を止めましょう、と、呼びかけないといつまでも作業をしてしまうような状況でした。
皆さん「きりがない。」と言ってましたが、途中で止めることは通常の作業ではされないので、無念そうだったのが印象的でした。

遠くから来た皆さんは、古宮城を見るのは初めて、こんな自然の中で作業するのも初めて、という方もいまして、結構、今までの草刈作業の概念とのギャップがあったようです。ただ、やれる範囲内でやっていただければ、それで十分ですし、草を除けたり、踏むと跳ね上がって怪我の原因となる木の枝を除けたりと道を作ってくださり大変ありがたかったです。

さて、この後、40分かけて原田純一氏による古宮城無料ガイドがありました。
40分あると、古宮城を全てぐるりと回ることができます。原田氏のガイドは城の機能的な部分を詳しく説明しつつ、素人にもわかりやすく説明すると評判です。

草を刈ったことで、行き止まり郭がわかりやすくなったり、出入り口が特に無い謎の郭部分も見やすくなりました。

今後、年に1度のペースでこうした活動を続けていけたら、と、考えています。
本ブログをお読みで、作手地域外で古宮城が好きな方。
せっかくですので、一汗掻いてボランティアしながら、好きな古宮城をじっくり見る、というのはいかがでしょうか?次年度以降は、もう少し地域外へ告知・募集を広げることも考えています。

車でお越しの方ならば、湯谷温泉も近くにありますので一風呂浴びて汗を流したり、泊まって翌日のんびりと長篠城とか設楽原決戦場も見ていくことも可能です。

それはそれとして、古宮城に行くなら、今がお勧めです。
ぜひどうぞ。

新城市観光協会を通じて、原田氏にガイドを依頼することも可能です(有料になります。)。
こちらもご利用ください。
(城整備時の原田氏のガイドは無料ですよ!)

7月6日。古宮城の整備活動やります。

2013年07月05日 | 古宮城
今言うな、と、言われそうですが、一応告知を。

明日7月6日(土)に、作手の古宮城で1時半から整備活動を行います。

完全手弁当のボランティアで、来れる人が各自やれることをやって、城を見やすくする、というもの。
刈払い機と燃料費自腹でご参加いただく方もいます。
刈払い機は危険、という方(私もですが)は、軍手を持参して刈った草を脇へ集めて見所は見やすくしたり、木の枝を拾って歩きやすくしたり、という活動に従事します。

御賛同いただける方は、ぜひ1時半までに作手の古宮城にある白鳥神社境内へご集合ください。
その際、虫、蛇などの心配がありますので、必ず長袖・長ズボン、帽子着用でお願いします。できれば黒系の格好は蜂などに狙われやすいので避けたほうが良いです。

明日は暑そうですので、タオルや飲み物は持参必須です。

これは、昨年度新城JCさんがやられた活動なんですが、折角地権者の同意を得られて実施したのに1回限りでは勿体無い、ということで、今年も継続してやってみよう、という話から始まっています。
今年が第1回目なので、あまり大々的にやっても勝手がわからないから小さくやろう、ということで、事前告知は特にしていませんでした。

まぁ、この期に及んで参加しよう!という意欲がある方は、むしろご参加いただいたほうがいいのでは無いかと思いましての告知です。

ちなみに、1時半から2時間程度整備活動を行い、その後30分程度、作手山城案内人の原田純一氏によるボランティアガイドもあります。

都合の付く時間帯だけ参加いただくことも大歓迎です。

ただし、ボランティア保険等にも加入していませんので、怪我や事故なども自己責任となりますので、それでも参加しよう、という猛者をお待ちしております。

今年の状況を見て、次年度以降のやり方を練っていこうと考えておりますので、次年度以降の方が、より参加しやすくなると思います。

さて、何人集まることやら。

20人くらい集まるといいんですけどねぇ。。。