長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

ドストエフスキー

2014年11月21日 | 日記
本業の関係でドストエフスキーに関する本をいただきました。

ドストエフスキー。

大学時代、なんかドストエフスキーが話題となり、罪と罰かカラマーゾフの兄弟かどちらかを読んでみようと思い立ち、罪と罰(文庫本。当然日本語訳)を買ってきて読み始めました。

が、これほど読みにくい本があるのか!と、驚きました。
そして、このとき、自分は「カタカナ」の名前が頭に入ってこない人間だ、と、認識したのです。

とにかくこの小説に出てくる人の名前が覚えられない。
なので、一体、今、誰の話をしているのかを一々戻って確認しないといけない。

そのため、全く前に進まないのです。
ラスリーニコフ、と、勝手に今まで記憶していましたが、正確には「ラスコーリニコフ」だったんですね。

漢字だとすぐに覚えるのですよ。
だから、日本史は覚えやすい。
そして、世界史でも東洋史でなおかつ漢字文化圏は覚えるのですが、チンギスハーンあたりから苦しくなってきて、ヨーロッパになると興味が湧かなくなる。

これは、自分がカタカナ名前に弱いことに原因があったのか、と、ドストエフスキーにより気づかされる。

結果的に、「罪と罰」は、私が人生で始めて『買ったけど最後まで読まなかった本』として長く記憶されることになったのです。

それ以来、ずっと敬遠してきたのです。

が、今回頂いた本は、ドストエフスキー解説本なので、読みやすい。
カタカナ名に弱いといいながらも、塩野七海の「ローマ人の物語」は全巻ハードカバーで買って読んでおり、その際にカタカナ名でもなんとか対応できたのです。
日本人が書く文章ならば対応できるのかもしれません。

それにしても、ドストエフスキーの書いてる小説の中身の暗いこと暗いこと。あまりの陰惨さに罪と罰を読んでみたくなりますが、以前挫折しているだけに、もう一度読むのもなぁ・・・、と、躊躇しています。
いっそ、名前を「螺須狐狸尼国府」とかにしてもらえると、私は読みやすくなると思うんですが。

解説本とはいえ、ある意味、自分が全く知らない分野の話が次々と出てくるので、これはこれで大変に面白い。この歳になってくると、完全に知らない分野に手を出すのは億劫になってくるので、こういうきっかけでもないと、手を出すことが無い。そういう意味では大変感謝をしております。

と、いう事情と本業が多忙、ということで、ブログの更新が途切れ気味です。
ちなみに、ブログの更新は当然のことながら、ネタがまず必要。ネタが無い場合でも、自分の気持ちがある程度余裕があればネタをひねり出すのですが、仕事が忙しくなると、仕事一色の生活になってしまい、まずネタが切れる。仕事のことを考えているので気持ちに余裕がなくなる上に、どうも頭が仕事モードで固くなってしまい、ネタがひねり出せなくなる。そのため、多忙になってから一月後れでブログの更新に影響がでてくる傾向が明らかになってきました。しばらくネタがあるうちは、多忙でも更新ができるので。

こんな心理状況のときにドストエフスキー関連本。
こんなもの読んで、大丈夫なのだろうか、私。

名古屋城西北隅櫓

2014年11月15日 | 
クイズです。
以下の写真は、何が珍しいでしょうか?


以前、通りかかった際、
「おお!これは!」
と、思わず写真撮ってしまいました。

「?」と、言う方にヒント。
こちらが通常バージョン。


正解は、

「最初の写真は窓が開いている。」

です。

そんなことに喜びを感じる私です。

北西隅櫓は別名「清須櫓」。
清須城の天守を移築して造ったといわれており、名古屋城の数ある櫓の中で、徳川系の櫓とは違うつくりをしています。

実際、中に入ってみると、この櫓だけ障子を入れるための敷居があったりと、建物として使える作りになっています。

この清須櫓は年に1回くらい一般開放されます。私が通りがかった日がたまたま一般開放の日だったんでしょう。それで、窓が開いた状態だったのだと思われます。

が、窓が開いた状況をじっくりと外から見たことがなく、
「おお!」
と、思わず驚いた、と、いうご報告です。

清須櫓は他の城の天守よりも大きく、名古屋城天守は燃えてしまいましたが清須櫓は焼け残ったものだけに、常時開放するだけでも名古屋城を見る価値は大きく上がると思うんですけどねぇ。

まーちゃん

2014年11月12日 | 日記
息子(2歳半)の心の友に「まーちゃん」がいます。
熊のぬいぐるみ。
でかけるときにも持っていくので、いつも一緒。
その昔、タリーズで見かけて買い与えたものです。当時は息子よりでかかった。

娘の心の友は「チロ」。こちらは、うさぎのぬいぐるみ。
娘は眠くなるとチロの毛をむしる癖があるので、チロの下半身は禿げています・・・。

まーちゃんは、というと、息子が鼻や耳に噛み付いたりするので、くさい
息子は「まーちゃんのにおい。」と特に気にする風も無く妻に匂いをかがせたところ、妻が「くさっ!」と反射的に反応してしまい、「まーちゃん、くたい・・・。」と、若干、悲しそうにしていたようです。

そのため洗われることになったのですが、いつもは息子が保育所に出かけた後に洗うのです。
しかし、今回は曇り空のためなるべく長く干せるようにと息子がいるときから洗い始める。

ぼんやりとテレビを見ていた息子はまーちゃんの不在に気が付いて、「まーちゃんは?」と、探し始めたそうです。
妻は「え・・・、まーちゃんはお風呂・・・。」とお風呂の扉越しに応えると、「まーちゃんは?まーちゃんは?」と、息子はまーちゃんの安否を確認すべく騒ぐので、仕方なく妻は扉を開けたそうです。

すると、そこには、バケツに沈められてふやけてびしゃびしゃのまーちゃんが・・・。
しかも、隣の浴槽には溺死体のように浮かぶチロ。。。

息子にとっては凄惨な光景が繰り広げられていたようで、パニック状態に。

「やめて、やめて!」

と、息子は懇願したそうですが、洗い始めの途中で止めるわけにはいかない。
そのため、妻は「まーちゃんはお風呂だから大丈夫だよ。」と言うと「ぼくもはいる。」と言い出す。「冷たいからだめ。」というと「まーちゃん、かわいそう。」と泣きそうな顔して見ていたそうです。

バケツに沈められて水を含んだまーちゃんは、濡れてびちゃびちゃになっており、見た目、かなり可愛そうな感じだったとか。

そして、ようやく洗い終えると、
「まーちゃん、かえして!」
と、息子が言う。

「こんなびちゃびちゃの状態では無理だよ。」
と、洗濯機の中にチロとまーちゃんが入れられる。

息子はやめてやめてと阻止しようとしていたようですが、びちゃびちゃのままのぬいぐるみなど恐ろしいことになるので、妻は脱水を開始する。
すると、息子は踏み台を持ってきて、洗濯機を心配そうに覗き込んでいたそうです。

きっと、その目には、猛烈なスピードでぐるぐると回る、まーちゃんとチロがいたことでしょう。

脱水が終わると息子は
「まーちゃんちょうだい!」
と、きっぱりと言うので、一瞬渡すとしっとりと湿気を含んでいるので、
「たおるでふいて!」
と、風呂上りの自分を連想したのか、タオルで拭けば元に戻ると思って発言したそうです。

妻は
「まーちゃん、タオルでは乾かない。ひなたぼっこさせよう。」
と、曇天のベランダに、チロとマーちゃんを洗濯ばさみで固定して吊るす。

息子は大変悲しんだようで、いつもならぐずらず保育所に行くのだそうですが、悲しみのあまり怒ってぐずっていたそうです。

妻が迎えに行くと「まーちゃんは?」と開口一番聞いてきたとか。
そして、家で無事に乾いたまーちゃんと再会して嬉しそうだったそうです。

ちなみに、翌朝、妻に「まーちゃん、ばけついやいや。」と、まーちゃんの気持ちを代弁していたとか。

最近は、だいぶまーちゃんを手放すことが増えていたので大丈夫だと思っていたのですが、まだまだだったようです。脱水している洗濯機を心配そうに覗く息子の姿を想像して、笑えて仕方が無い。

ま、あと10年もすれば声変わりをして、見た目おっさんになって、まーちゃんなど見向きもされないのでしょうが、今は心の友を大事にしてもらいたいものです。

長篠合戦と武田勝頼

2014年11月11日 | 日本史
長篠合戦を巡る論争に新たな展開が!

※『敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館 2,600円+税)

長篠合戦を巡る論争と言えば、

1.教科書的通説
『織田信長は鉄砲三千丁を揃え、鉄砲の撃ち手を三段に並べて一斉射撃を繰り返し、武田勝頼の誇る日本最強の騎馬隊を粉砕し、天下統一へ大きく前進した。』
 
 から、 

2.長篠合戦ディスり説
『織田信長は鉄砲を三千丁も揃えておらず一千丁は確実である。三段撃ちは練度が低く不可能。また、火縄銃は不発も多く、轟音の響く戦場で拡声器も無い時代に一斉射撃は不可能。馬が小さく騎上に耐えず、下馬戦闘が主流の筈である当時の日本には騎馬隊など存在しない。よって、長篠合戦には嘘が多く、そんな大層な合戦ではなかったのではないか。』

 が、最近の有力説でした。
 そこへ、

3.今回の平山説
『織田信長の三千丁の可能性もやはり高い。新説は三段撃ちは『三段』の解釈を間違えている。交替射撃はやっていた可能性が高い。武田に騎馬隊は存在した。』

 と、いう新説が登場したわけです!

 学者でなく、長篠落武者日記なるタイトルを付ける人間からすると、2説に関しては、

「何、長篠合戦ディスってんだよ。」

と、いう感情論が無きにしも非ず。(笑)。

 そういう意味で、今回の平山説は
「よくぞ、言ってくれた!」
と、いう感情むき出しの応援をしたくなります。

今回の平山説にせよ、前回の2説にせよ、基になる史料の信憑性の解釈の違いが大きく影響していることが、『長篠合戦と武田勝頼』からよくわかります。
特に大きな影響を与えているのは『甲陽軍鑑』の取り扱い。

「甲陽軍鑑は、長坂長閑斎が武田勝頼に織田・徳川連合軍への突撃を進言しているシーンがあるが、長篠合戦時に勝頼が遠く離れた長閑斎に文書を出しているので、長閑斎が進言したシーンなどありえない。だから、甲陽軍鑑は話を盛りすぎて信用できない。」

と、いうことで甲陽軍鑑は『使えない』というところから出発して、太田牛一の『信長記』とルイス・フロイスの『日本史』を参考に説を構築したのが2説といえます。

ところが、この平山氏は
「長閑あての文書は『釣閑斎』となっている。これは、『今福釣閑斎』のことであり、長坂長閑斎あての文書ではない。だから、長閑が長篠合戦にいなかった、という証明にならない。」
ということを発見した人です。
平山氏は武田の研究者の方なので、武田関連の史料研究には信頼性が高いといえます。

昔の人達は文字が適当なので、似た音を当てて文書を書くため、「ちょうかん」と読める「長閑」も「釣閑」も同一人物と考えられていたのですが、平山氏は「長閑」と「釣閑」は別人、ということを文書を分析して結論付けたのです。と、いうことは

「長坂長閑斎は長篠合戦にいなかったから甲陽軍鑑は信頼できない。」
と、いう説に対して、
「長坂長閑斎はいなかったとはいえないから、甲陽軍鑑は信頼できないと片付けてはいけない。」
と、いうことになる訳です。

・・・。

否定の否定の否定みたいで訳分からんですけど、要は、記載が全部信用できないとばっさりやってたのは乱暴で、完全に信頼できない部分もあるが、他の史料と付き合わせることで信頼性がある部分もあるから、ばっさり切り捨てるのはやめよう、と、いう話です。

本を読んでいただければわかりますが、大変説得力があります。

ルイス・フロイスの日本史や日欧文化比較などで「日本人は下馬して戦闘する」との記載があるが、彼らは西国の戦闘状況しか見ていない。東国は馬がやっぱり盛んなので各種史料みると騎馬戦闘はありうる。とか、『三段』というのは『縦並び』ではなく『横並び』を差しており、姉川の『十三段の陣』というのも横に並んでた可能性がある、とか、もう、これは、

すごい

の一言につきる本です。
ま、長篠好きの素人からすると

「長篠合戦を否定する説を否定してくれて嬉しいぜ!」

と、いうことに尽きます。
当然、こうした平山説に対して、2説派の反論や新説が登場して、今後、長篠合戦に対する研究が深まっていくことが一番期待されることです。

やっぱり、長篠合戦は面白いですねぇ。

鬼の霍乱

2014年11月05日 | 日記
月曜日の夕方のことでした。

「ああ!ひだる神が取り付いた!」
と、叫ぶ。

とにかくだるい。動けない。きっとひだる神が取り付いたと嘆いた昔の人達の感じがよくわかる。

※ひだる神 山道を歩いていると取り憑かれて疲れて仕方がなくなり、下手をすると死ぬ。しかし、飯を食べるとどっかに行くとされている妖怪。

しかし、この感覚は最近経験がある。
夏に高熱を出して倒れた時と同じ。
やっぱり、子育てしてると休みの日が休みではなく疲労が溜まるのでしょう。そして、咳喘息で喉を痛めていたので熱が高くなる傾向が。

熱を測って高いと気が弱るので測定はしない。が、徐々にひだる神から発熱モードに切り替わっていく。とにかく高熱でふーふー言ってました。寝ないと治らないと思って寝ようとして寝られない。熱が高くて眠れないのです。で、気絶するように1時間位寝ては目が覚めてを繰り返し朝を迎える。
少し体が楽になったと思って熱をはかったら、38度3分。。。

一体昨晩どんだけ熱だしとったんだ、と、あらためて身の毛がよだつ。
3連休明けで混み合うだろうから、と、昼のぎりぎりに医者へ行き測定すると、38度8分。こりゃ体がえらいはずだ。
実際、足腰の悪い老人のような歩き方しかできず、それこそ、前屈みでよろよろとふーふー言いながら歩いてました。

医者ではインフルも疑われて鼻の粘膜を摂取される。これ、めっちゃくちゃ痛いですね。結果的にインフルではなかったのですが、大人にしては熱が高く、白血球の数値が尋常じゃなく高いので、前回と同じように細菌感染している様子。

抗生物質を点滴に混ぜたせいか、夕方には37度7分まで下がる。
38度切ると体が楽に。
ただ、体調コントロールがうまくいかないせいか、変に汗をかいたり寒気がしたり、と、風邪の典型症状のようになる。

やっと。笑。

結果的に本日も休まざるをえず、意図せず5連休に。そして、今朝、息子がやたらぐずるので熱を測ったら、やっぱり発熱してまして、今日も医者へ行く。

医者には「ああ、お父さんと同じで喉が腫れて高熱、という感じですねぇ。」と、診断してもらう。

まぁ、私が風邪引きながらも会社休んでいたので息子を世話できました。まぁ、昼間に死んだように一緒に寝てただけですけど。

私は今は平常時に戻りました。
息子の方が治りが早いようで、すでに元気になりつつあります。

インフルも一部では猛威を振るっているそうです。皆さんもお気をつけを。

室城

2014年11月03日 | 落城戦記
以前、野田菅沼氏の前の領主、富永氏に関する話を書きました。

その富永氏の有力家臣富永半五郎勝光が頼った先が、吉良義昭。
吉良義昭が徳川家康と対決姿勢を示した際、善明堤の戦いで松平好景を敗死させますが、藤波畷の戦いで家康勢に破れ流浪したようです。
その吉良義昭の家老として武勲を讃えられたのが富永伴五郎忠元。勝光さんとは違うようです。
享年25歳と大変に若い忠元さんは、大久保彦左衛門が書いたことで有名な『三河物語』で、敵・味方もともに「伴五郎が死んだら、(吉良の)落城は近い」と記して忠元を褒めたたえています。

ウィキペディアには「富永氏は伴氏の後裔で設楽郡富永荘の領主。東条吉良氏の譜代の家臣であり、代々室城主を務める。」とあり、やっぱり野田の富永氏とは何らかの血族関係があったんだと思われます。足利家の一族として勢力を振るった吉良に近い富永一族は服属せざるを得なかったのではないかと想像されます。

野田の富永氏関係での最後の華ともいえる室城を一度見たいと思っておりました。

ので、見に行ってきました。

※ 遠景

現在は神社になっている部分が浅野家の「諸国古城之図」では蔵屋敷と呼ばれる場所のようです。


立派な神社です。


『愛知の山城ベスト50』(サンライズ出版)の「室城」の項には、
「大手門の外にあるきおとでは、籠城用の米蔵というよりは、恐らく地域の年貢米を収納するセンターなどの場所であったと思われる。」
とのことです。

もっとも、この神社は相当な高台にありまして、

※神社から南を望むとこの高低差。

結構な防御力があったのではないかとも思われます。

さて、神社の東側には駐車場がありました。神社か地域の倉庫として使われているものも。


しかし、古城之図を見ると、ここも結構複雑な曲輪として構築されていたようです。
が、今では道も通ってしまい相当削平されており城っぽさはない。

さて、ここから階段がありまして、上に登ることができます。


ここを登っていくと、おお、曲輪を改変したんだ、ということがわかります。


そして、階段が90度折れ曲がり上に到達する前に、土橋っぽく道を細くしている部分らしきものが見られる。


階段を登るとそこには墓場が。
お城の主郭が地域の墓場になっている例は多く、ここもそうなのでしょう。
土塁と思しき高まりが見られました。

※とてつもない蚊に襲われる。デング熱の恐怖に怯える。

この曲輪は相当厳しく切岸を切り立てていました。
古城之図では馬出のようにも見える曲輪ですが、実際の形状を見てみると、馬出というよりは連郭式の城で曲輪を土橋で繋いだ城に思えます。

周りは深田に囲まれていたようですから、ぽっかりと水の上に浮かぶ城のように見えたことでしょう。

※旧道っぽい道。

防御力は相当高い城ではなかったかと思います。

富永保の領主として三河に勢力を誇った富永氏の最期の華ともいえる忠元の居城。
一見の価値がありました。