長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

長篠落武者日記

2013年03月27日 | 日記
長篠落武者日記というタイトルをつけております。

長篠周辺から様々に情報を、と、いうことで始めたのですが、仕事の都合で長篠周辺から落居せざるを得ない状況になってしまいました。

あの長篠設楽原合戦の舞台。
あの古宮城のある町。

と、いうことで昔から「一度で良いから住んでみたい。」と思っていたところ、たまたまタイミングよく席が空いたため希望したところ運よく転勤することに成功したのですが、当初から期間限定だったため、今回、期間満了に伴い尾張藩へ転封となってしまいました。

手筒花火を上げたり、


山城デジタルスタンプラリーの企画に参加したり、


筍掘ったり、


長男が誕生したり、


トレイルランやったり、


畑を借りて大規模な家庭菜園をやったり、娘が幼稚園入園したり、本業ではなんとか成果が出せたり、太ったり、と、やりたいことは一通りやりきった感がありますが、(太りたくは無かったですが。)人も優しく、気候風土も穏やかなこの地域が大変気に入って永く住みたいと、心の底から思っておりました。

まぁ、期間限定だったので当初からわかっていたことなのですが、基本的に人ごみが苦手な身としては、都会はどうにも性にあわない。
が、諸般の事情から、今回は尾張名古屋へ戻らざるを得ないので、なんともなりません。

宝くじでもあたれば、仕事をすぐに辞めてこの地に永住するつもりだったのですが、1等まで146番違い、2等まで91番違い、ということもあったのですが、結果的に10枚ごとに戻る300円で終わってしまいました。

と、いうことで、現在、引越し作業を行っているため、日記の更新が疎かになっている次第です。

まだまだ過去を懐かしんでいるような歳でもありませんので、次の仕事も頑張ろうと思います。

そんなわけで、来月以降、タイトルの意味合いが「長篠周辺に住む落武者の日記」から「長篠からの落武者の日記」に代わることとなりますが、この地域に居る間に溜め込んだ膨大な資料群もありますので、

それらを紐解きながら、内容は変わることなく続けてまいりますので、このブログをお読みいただいている皆様方には今後ともご贔屓を賜りたいと思います。


なお。


まだ、調整段階ですが、古宮城に関しては、今後も関っていくこととなりそうですので、その際には、情報提供などをしていきたいと思っております。

と、いうことは「長篠周辺に出没する落武者の日記」という意味合いの方が似合うのか?

そんなこんなで、今後ともよろしくお願いします。

しだれ梅と田峯城

2013年03月17日 | 奥三河
奥三河の城をしっかり見ておこう、と、城仲間と前々から約束をしておりまして3月17日に設定していました。

前日はトレイルラン

「いや、どうせトレイルランって言っても、翌日にゃ、ちょっとへろへろな状態だけど無理すりゃいいや。」と軽く考えていたのが大きな間違い。

16日の夜には布団に入ると悪寒で震えが止まらない。
疲労と膝痛で熱が出てしまいました。
しかも、寝返りがうてないくらい膝が痛い。少し動かすだけで激痛。膝の骨が折れたのかと思うほど。実際熱の出方も骨折したときと同じような感じだったのでびっくりしました。
とりあえずロキソニン入り湿布貼って寝ました。

朝になって目が覚めると、少し良くなっていました。

が、とても山城登るのは無理。

「当方、昨日のトレイルランのため膝をゆわしました。よって、温泉と食事メインの旅にしていただくことを希望。」
と、仲間にごめんなさいメールを朝送りました。

昼頃友人たちが新城に到着。
一応田峯城を目標にしているもののその他の城を落とすことも考えていたようでしたが、私の歩き方を見た瞬間に、皆、他の城は諦めたようです。

新城市内でソースカツ丼を食った後、田峯城へ向かう。

その途中、玖老勢を過ぎ海老へ向かうところで、素晴らしいものを見つけました。

「しだれ梅」です。

個人の方が一般に開放されている梅園でした。


あまりの見事さに、つい車を止めて見入る人多数。
まさに今日が満開と言ったところ。







「すごい。」
こういう場面を見たときに「すごい。」という言葉しか出てこない語彙力の少なさを恥じるばかり。
梅の香り漂う中、様々な色がおりなす光景。枝ぶりとあいまって、まさに桃源郷。(梅ですけど。)

我々が「素晴らしい。この花の綺麗なこと。今まさに盛りではないか。」と言っていると、「そう。今日が最高の見ごろだよ。」と、おっしゃる方が。どうも、この園のオーナーの方と思しき方でした。数日後に雨の予報だけに、まさに今日が最高の見ごろだろう、とのこと。

偶然とはいえこうした光景を見ることができたのは運が良いといえます。

周囲の山々とあいまって、遠近感が感じられ、人もそんなに多くは無く見事としか言う他ありません。

その後、とりあえず田峯城へ向かうのですが、田峯観音も見てみたいということだったので田峯観音へ向かう。
厄除けに素晴らしい効果があると聞いております。また、検査が無事に終了することを祈願するにも最適とか。実際、私も本業で難関案件を抱えていた時に、ここをお参りしたところ見事に成功しました。




落ち着いた雰囲気が好きです。

で、その後、田峯城を見学して帰ってきました。
軽い運動をした効果か、田峯観音のお陰か。
膝の痛みはだいぶ和らいでいました。

さて、田峯観音ではおみくじを引きました。
昔、春日大社で「凶」を引いた後に東海豪雨に被災したことがあり、それ以来、めったなことではおみくじを引かないのですが、なんとなく引いてみたくなりまして。

すると、出た結果は「吉」


「今までのやり方を変えるか場所を変える時期です。最初は苦労するけどうまくいきます。」
と、いう内容でした。

観音様は全てお見通しのようです。

愛知県 ブログランキングへ

OSJ 新城トレイル 11K を走る。

2013年03月16日 | 奥三河
トレイルランニング。

山の中を走り回る、という競技です。

長篠のある新城市は登山ルートが豊富で岩場も多いことから、様々なスポーツに向いています。

ロッククライミング。
軽登山。

そしてこのトレイルランもその一つ。

城旅で山の中を歩くのに慣れているとはいえ、そんな走り回るような競技に出るなんてありえん、と、常々思っていたのですが、会社の20~30半ば位の人達に誘われたことで興味を持つ。

「11kmを4時間で走れば完走です。」
と、言う。

『なんだ、時速3kmで走れば完走できるじゃん。』
自分は平地ですが、約9kmを1時間15分で歩いておりました。

『山場なので丁度その半分ならば、俺いけるじゃん。』
そう、思ってしまったのです。
なぜか、その時、そう思ってしまったのです。

城でとんでもないところを歩いていたし、足に錘つけて負荷かけて生活しているし。
そんな私ならば、完走くらいできるんじゃないか。

そう簡単に考えてしまいました。

しかも、こんな感じの写真があって


「ああ、なんと素敵な」
と、引き込まれてしまいました。

そして本日。

大阪とか北陸とか遠来の客も多い中、地元の利で朝普通に起きて職場の皆で乗り合わせて向かう。

そのときまで私は、
「まぁ、歩いていけばなんとなるし。」
と、思っていたのです。

ところが、スタートするとマラソン大会のように走り出し、歩いている人はいない。
「えー・・・。」
と、思って仕方なしに走る。
そりゃそうだ。トレイル『ラン』なんだから。

15分ほど走ったところで、息切れする。
何もやってないアラフォーで最近太ったおっさんが、走ること自体危険なことです。

諦めて早歩きしていると、突然渋滞発生。


細い山道に入るところで自然渋滞が発生するのです。
だから皆早めに行って高順位を狙おうとしていたので、マラソン大会並みのスピードで皆が走っていたわけなことが判明しました。

私自身は「完走」が目的なので、急いでおりません。なので、別に渋滞でも構わない。

そして登っていくのですが、城と違ってとてつもなくキツイ上り坂。

『人生には三つの坂があると言います。上り坂、上り坂、上り坂。』
と、いう言葉が頭を駆け巡る。

しかも、延々と続く上に、皆記録や順位があるのでペースが速い。

そして、最近育児で長距離を歩いておらず、体が鈍っている。足が上がらない。脂肪と言う錘も相当付いている。

「これは、ヤバイな。。。」
と、気が付いてももう遅い。いまさら引き換えすたって結構な距離。進むしかない。

壁を登るような場所も多く、足が前にでない。
本当に完走できるのか。
疑念が頭をよぎる。

とにかく平坦地もなければ下りもたまに有る程度。岩場や木の根で足場の悪いところをひたすら歩いていく。抜かされるがしょうがない。何のトレーニングもしてないので当たり前と言えば当たりまえ。流石に軽はずみなことをしたことに気が付くが、いまさら引くも地獄、進むも地獄。体が動かないので何とももどかしい。

『これが歳を取ると言うことか!』
と、思う。

とにかく上を目指し続けて2時間。
やっとエイドステーションに到着する。

水をがぶ飲みして、ようやく一息つく。

ここからは下りがメイン。
登りに比べて下りは何故か早く走れる。自分の筋肉のうち、下る筋肉はまだ少しマシだったようです。

でも、膝が痛くなってくる。
「♪ぐるぐるぐるぐるグルコサミン」
グルコサミンのCMの音楽が頭に鳴り響くが進むしかない。

ほうほうの体で走り続けると、こんな光景もあったりする。


そこそこ景色を楽しみながらも、下りでは結構人を追い抜きました。
上りの時に私を抜いていった方たちですけど・・・。

膝の痛みも限界を超えて訳のわからない状態に。
「頭が真っ白に・・・。」と船場吉兆のおかみがささやくような状況の中、気が付くとゴール地点が近づいてくる。

無事に完走することができました。

※これが完走証明書!

しかし、一緒に走っていた人達と1時間遅れ。
何とも情けない。が、完走できただけでもよしとしましょう。

ゴール後は体が疲労しすぎて寝込みそうでしたが、帰りに湯の風HAZUさんの温泉に入ったあと、いえやすで焼肉食べましてなんとか復活しました。

が、膝はとんでもない状況になってしまいまして、今、ロボットのような動きしかできなくなっております。
それこそ「膝が痛い!」というCMの人と同じです。

新城市を堪能した訳なんですが、次やるかといわれると・・・。

まずは体力づくりからですね。

愛知県 ブログランキングへ

謎の文書 奥平貞勝と貞能親子の微妙な関係?

2013年03月12日 | 日本史
前から奥平の歴史を資料から探っているのですが、ずーっと疑問に思っている一つの文書があります。


※奥平家家紋 軍配団扇

それは、愛知県史資料編10の天文16年(1547年)に採録されている1627の文書です。

8月25日 今川義元、奥平仙千代・同貞友に、三河国山中の新知行を安堵する。

一六二七 今川義元判物写 松平奥平家古文書写

参河国山中新知行之事
右、医王山取出割(刻カ)、就可抽忠節、以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、彼地之事、永不可有相違也、弥可専勲功状如件、
 天文十六             
  八月廿五日            今川義元也 治部大輔 判
    作手仙千代殿(奥平定能)
    藤河久兵衛殿(奥平貞友)

私は詳しくは判りませんが、どうやら
『医王山砦を攻撃した際、忠節をぬきんでるならば(たので?)、先の約束どおり、なんかあっても、あの土地のことについては、永く間違いなく保障するので、もっと手柄を立ててくれよ』
と、言っている様子。

そこで、私が参考にさせていただいている上に、このブログにコメントをつけてくださる『歴探』高村様のHPを拝見すると、

『三河国山中新知行のこと。右は、医王山砦の際、忠節にぬきんでるべきことについて、先の判形をもって給与の上、当国は東西の紛争で時によって変化があるとはいえ、あの地のことは永く相違ないように。ますます勲功を専らにするように。』
とのことです。

「就可抽忠節」の部分ですが、既にぬきんでたのか、これからぬきんでるのか、が、素人の私にはよくわからないところなんですが、歴探様の解釈では「可」があることから「ぬきんでるべき」となるため「これから」っぽいと解釈してよいのかな?と、思います。

ちなみにこの文書、奥平貞能(定能)が11歳のときくらいの文書になります。
さらに、不可解なことに、この翌年、奥平貞友は今川に叛乱を起こし、奥平貞能は父の貞勝によって今川家の人質にされています。(愛知県史資料編10 1654文書)

実はこのブログを書くまで、私は「ぬきんでた」と解釈してたので、既に勲功を貞能・貞友が挙げたのだ、と、考えていました。しかし、ブログ書いてる最中に、「いや待てよ。ひょっとしてこの文書っちゃ、約束手形なのか?」と気づいたわけです。要は今川義元に「砦落としたら山中の地をくれるよね?」と確認したところ、「ああ、落としたらね。」と保証してもらった文書の可能性もある、と気づいたわけです。

ちなみに、この文書で疑問なのが

①奥平貞能の年齢
②奥平貞勝と貞能親子の関係
③奥平貞友の立ち位置

の三点です。

①ですが、奥平貞能は11歳のときの文書になります。
当時の元服は15歳前後らしいですので、10~11歳で活躍することも考えられなくも無い。
でも、現在の年齢で言えば9~10歳の子どもが・・・?と、いうのが疑問です。これは、この文書を「既に砦を落とした」と解釈していたので、そんな若い子どもが既に兵を率いて活躍したの?と、考えたことが発端です。

②ですが、この後、今川義元は奥平貞勝宛に文書を発給しています。しかも出家前の『奥平監物』名義あてで。この時点で当主が貞勝だとすると、何故貞能あてに領地安堵の文書が発給されたのかが疑問です。
同じような疑問を持ったのでしょう。この文書を旧作手村史(補記:『中津藩史』を参照にしていると思われる。)では貞勝宛てと解釈しています。しかし、その後の義元⇒貞勝宛文書の愛知県史資料編10 1654文書で「千々代為人質出置」という文言が出てきており、「仙千代を人質として出し置き」と読めるので、1年前に出された文書の『仙千代』とは『千々代』と考えて間違いはないと思えます。そうなると県史の解釈が正しいことになります。

③ですが、なぜ仙千代と貞友宛なのか。
実は、翌年、今川家に貞友が叛き、仙千代は今川家の人質となります。そして貞友の裏切りに対して素早く貞勝が人質を出して忠誠を誓ったことに対しての、今川義元発奥平貞勝宛の礼状が1654文書なのです。
そして、後に貞友貞友の兄彦九郎(3/12に貞友が射殺されたと誤記していましたので訂正します。)は貞勝に騙されて射殺されます。そして、貞勝はそのことも今川義元に褒められています。

この愛知県史資料編10の1627文書は、時系列で奥平家の文書を並べると宛名が非常に異質なのです。
それで、ひときわ目立つので気になってしょうがない。

その理由を1年半くらい、ずーっと考えていたのでした。
で、解明されたらブログに書こう、と、思っていたのですが、これが、全く解明できない。

仕方なしにマンガなどを思いついたので書いたりしていたのです。

私は、3年前に奥平家の歴史を読んでいて、一つ思いついたことがあります。
それは『奥平貞勝、貞能親子は仲が悪かったのではないか?』と、いうことです。

なぜかと言うと、今川家滅亡後は徳川家に臣従した奥平家ですが、武田家の奥三河侵攻に伴い武田家に臣従を余儀無くされます。
その際、隠居していた筈の奥平貞勝が突然発言して武田家臣従を決めてしまっています。
貞勝次男で貞能の弟、常勝はそのかなり前に奥平家を出奔して武田家に仕えますし、奥平家の筆頭重臣和田家が突然武田家に出奔するなど、奥平家内部ではゴタゴタしているイメージがありました。
また、武田家を裏切って徳川家に再度臣従する際、貞勝は武田家、貞能・貞昌親子は徳川家へと主君が別れてしまいます。この時のエピソードを読んでいると、明らかに貞勝と貞能は意思疎通を欠いています。
この辺りを真田家の昌幸・信繁(幸村)と信之のように家を残すため、苦渋の選択をした、との伝承を取っているものもありますが、これは、明らかに後世の作り話でしょう。最終的に貞昌が長篠合戦で籠城して徳川家康の長女亀姫を貰い徳川家の一員となったので、奥平家の不都合な部分を画すためだと思います。

そんな観点で愛知県史資料編を読んでいくと、後に奥平家が今川に叛いた際、貞能は高野山に追放され、貞勝は谷に引きこもって今川家に許しを請うている文書が出てきます。これは貞勝が今川家に許しを請うており、貞能のせいにしているように見えます。


一体、なんでこの文書を今川義元は奥平仙千代、貞友の連名に与えたのか。
その前後の文書でこの連名が見当たらないのは何故か。
貞勝が貞能や貞友に対して冷たいのは何故か。
今川家は貞友の叛乱を奥平家全体の問題とは捉えていないのは何故か。

と、ここまで考えたとき、一つの仮説が思い浮かびました。

それは、幼少の仙千代を担いで貞友が奥平家を乗っ取ろうとし、それを貞勝は防いだのではないか。
だから、仙千代・貞友という連名の文書が突然発給され、その後は貞勝宛の文書しかなく、仙千代(貞能)は貞勝の強い影響力の基に置かれているのではないか。
今川義元が貞友討伐について貞勝を褒めていることも奥平家の当主として一族間の紛争を抑えた当主として認めたことを意味しているのではないか。

と、いうことです。

もっとも、ならば貞能を廃嫡して常勝などに継がせればよかったのに、という疑問もありますので、あくまで一つの推論にすぎませんが、この文書が意味する私の謎はかなりこの推論で解決されます。

さぁて、どうなんでしょうねぇ???


日本史 ブログランキングへ

戦国マンガ道場 悪の華 ~松永久秀~

2013年03月11日 | 戦国マンガ道場


 ちなみにもう一つは東大寺の大仏を燃やしたことです。
 なお、信長自身も尾張守護斯波氏追放、将軍足利義昭追放、比叡山放火とか、結構松永弾正と近いことはやってたりします。
 「儂は追放で殺しておらん!」
 と、信長様は怒りそうですが。。。

歴史漫画 ブログランキングへ

戦国BL劇場 日根野織部と鈴木大學 ~憎しみが愛に変わるとき~

2013年03月04日 | 戦国逸話
 今回、「これ、このまま小説になりそう。」という文字通り”逸話”を発見したのでご報告します。

○戦国BL劇場 「憎しみが愛に変わるとき」

 和泉国出身の日根野備中守は、美濃の斉藤道三に仕え、その後小田原の後北条家へ仕えた。
 備中守の弟は弥次右衛門、備中守の子は織部、弥次右衛門の子は□□(欠字)という。

※日根野一族が開発されたとされる日根野頭形(ひねのずなり)兜
 出典:ウィキペディア

 織部は美童だった。


 後北条家の家中には、鈴木大學という武功のある者がおり、
「今度上方からやってきたと言う新参者の日根野とかいう奴。武功があるとか言ってやがるが、我が北条家で武功を上げるなどと言うことは簡単にはできまい。何かのついでに恥を掻かせてやる。」
と、常々言っていた。

 日根野もそれを知っていて、外出する際には「今日鈴木と会ったならば討ち果たすこともある。」と妻子に言い含めており、鈴木は鈴木で「日根野に会ったら最期。。。」と言っていた。

 ところが。
 
 あろうことか、日根野織部を見た鈴木大學は、その美しさに心を奪われてしまい、気持ちが抑えきれなくなった鈴木大學は、日根野織部に恋文を送ってしまいます。

 日根野織部は鈴木大學からの恋文を見て、
「これは我々を油断させようとする鈴木の罠だ。なんと卑劣な漢だ。必ず討ち果たしてくれるわ。果たし状ならそれとして送れば良いものを!」
と、引き破って捨ててしまいました。

 しかし、鈴木大學の恋心は、いっそう募るばかり・・・。
 燃え上がる情熱は二人の間の誤解の壁を乗り越え、とうとう二人は結ばれます。

 その後、武田信玄が小田原城を攻め、本丸まで押し寄せたとき、日根野親子4名は門外へ出て、門が中から開かないようにして決死の覚悟を決めていた。
 すると、鈴木大學が
「日根野家の4人はどこにいる!」
 と人々に尋ねると門外にいて決死の覚悟をしており、門は中から開かないように仕掛けがしてあることが判った。

 それを聞いた鈴木大學は塀を乗り越え、門外に出て日根野家4名と合流。
 日根野4名が鑓で活躍し、鈴木大學は弓で応戦した。(了)


 転校生が現れ、クラス中の興味を引いていることに我知らず嫉妬し、思わず「嫌い!」と言ってしまう。
 しかし、嫉妬の感情は歪んだ愛の形であり、自分の本心に気づいたとき、混乱したものの、自分の気持ちに素直になり必死のアプローチの末、二人の間にあった誤解も解け、魂で結ばれる。


 と、説明すると一昔前の少女マンガにでもありそうなストーリーそのもの。
 これが、男性同士のやりとり、っていうところが、いかにも戦国時代です。
  
 まぁ、愛の形は様々ですので、なんとも申し上げられませんが、この逸話が採録されている『武功雑記』という江戸時代の松浦鎮信という大名が書いた逸話集には、なぜかこの手の話が多い。
 
 松浦鎮信自体にそうした趣味があってもおかしくは無い時代ですが、どちらかというと、そっちの趣味は無く、「え~~~!そ、そぉなのぉぉぉ!」と驚愕したからこそ載せたのではないかと私は見ています。

 ブログにわざわざ書いている私も松浦公と一緒だな、と、納得した次第。


日本史 ブログランキングへ