長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

バックヤードツアー

2012年05月27日 | 奥三河
山城デジタルスタンプラリーの全城制覇者様感謝企画。抽選で当たった方に『設楽原歴史資料館湯浅主任学芸員とゆくバックヤードツアー』第1回目が開催されました。
私もボランティア運転手として参加させていただきました。
素晴らしい好天に恵まれ、午前中は湯浅氏による館内案内。
スペシャルコースだけあって、普段は説明だけなのにケースを開けて実物が触れるという特典がついてました。

※小さいのですが重い火矢に驚く参加者
館内の火縄銃を専門家でなければわからない違いを解説してくださるので、歴史に興味のある方ならばもちろんのこと、ちょっと大人の旅がしたいな、という方であれば充分に楽しめる内容となっていました。
館内説明の後は、火縄銃の解体ショー。

あっという間にばらして、あっという間に組みあがる。
この面白さは実際のショーを見られることをお勧めします。(ショーって言っていいのかな?)
午後は湯浅氏と市内各地の旧跡を巡るというもの。
野田城ではやぶ蚊の大群に襲われましたが、湯浅氏が市外からの来訪者から問い合わせが多いものの、実際に説明した後行けているのか疑問な場所へ連れて行っていただきました。
まずは織田信長本陣跡(茶臼山)

ここは現在新東名新城PAの建設が裏手で進んでおり、新旧の『本陣』が見られるという面白さ。
そして信長本陣から家康本陣跡(弾正山)

湯浅氏の解説を聞きながら、というのは贅沢です。ちなみに、弾正山から見た茶臼山信長本陣、なんてのは私は初体験でした。
その後、鉄砲の有効射程距離や各種文献などの研究成果に基づいた馬防柵から見た現地解説。

これも現在の最新の研究成果を基に説明してくださるので、面白い。
最後は私も何度か探して見つからなかった、武田勝頼観戦地。設楽原で武田勝頼が敗戦を見つめた場所はものすごくわかりにく場所にありまして、ようやくわかりました。よく聞かれるそうですが、説明しても本当にいけたか湯浅氏も疑問なことが多いとか。また、行っても視界が悪くてお勧めではない、ということもあるそうですが、リクエストは多い場所だそうです。笑。


こういう面白い企画が今後も続くといいですね。

続・井伊直政 ~やさぐれひこにゃん烈伝2~

2012年05月22日 | 戦国逸話
さて、前回は、ひこにゃんゆかりの人物、井伊直政はひこにゃんの愛らしさとは無縁の、火縄銃で自分の指を吹っ飛ばしてしまうほどのやさぐれ野郎だったことを暴露したわけです。

そして、結果的にこの体を全く労らない戦いぶりが彼の寿命を縮めます。
関ヶ原の戦いの時に島津軍の放った鉄砲に当たり、その後養生すればいいものを無理をしたため敗血症になって1年後に亡くなったのです。その話についてこんな感想を彼自身は述べています。

『無用の負傷』
 関ヶ原の戦いで直政は島津勢が退却するのを見て「あれは敵ではないか?」と部下に聞いた。
 部下は「敵みたいです。」というので、直政はいざ勝負と追いかけたところ、島津勢が鉄砲を放ち直政は手を撃たれた。
 このことについて直政は、「今回は無駄な怪我をしてしまった。なんでかというと、『あれは敵ではないか?』と聞いた時、部下が戦上手ならば、既に合戦に勝っているので特段逃げるに任せればよい敵であれば『敵ではないです。』と答えるものだ。
 逃がしていかん敵ならば、『敵です。』というより先に敵に攻めかかるのが筋である。
 そうすれば儂は怪我などしなくてすんだ。
 『敵みたいです。』と言われて、黙っている訳にはいかんじゃないか。そういう意味では、松倉はすぐ敵に向かって駆けだしていったから大したもんだ。」
 といった。

 部下の状況判断が甘かったことを責めています。
 勝ち戦なんだから無用な傷を負いたくなければ敵ではないと言え。
 逃がしてはいけない敵ならば主君に聞かれる前に倒しに行け。
 聞かれた部下の心得として「敵じゃありません。」というのが正解だった、と言う訳です。

 なら初めから聞くなよ、という気もしますが。。。
 
 実は、井伊直政は結構パワハラ上司だったという証言も多数残されています。
 あんまり厳しいので井伊直政の部下から外して欲しいと家康に頼んで駄目だ、といわれた人がいたり、部下が連名でライバルの本多忠勝を見習え、と意見したり、と、結構部下から嫌がられていた、という逸話が残っているのです。
 さらには、当初徳川家三奉行といわれた鬼作左こと本多重次が「あんな奴を殿(家康)は見込むとは・・・。」と若い頃の直政に言ったことを根に持ち、後に彦根18万石を拝領して徳川家臣団筆頭の立場になったとき「あんた昔、俺に見込みがないといったよな。お前の見込みと殿の見込みとどっちが無かったんだ?ああ?」と言った、という逸話も残っています。

 私が様々な逸話から彼の性格を考えてみると、結構根性悪いように思われます。

 まぁ、それくらいの激しさがないと名将になれないのかもしれません。

 でも、いつも三角巾で腕吊って、傷だらけでやさぐれているひこにゃんだけは勘弁してほしいものです。(了) 

金環日食

2012年05月21日 | 奥三河

無事に長篠でも金環日食を見ることができました。朝は一部では雨も降っていたようで、6時台は厚い雲に空が覆われており諦めかけましたが、丁度日食が始まる頃から雲が途切れて見ることができました!

いやー、良かったです。
昔であれば、こうした現象は天文の凶兆として扱われることが多かったかもしれませんが、原因の解き明かされた今となっては、むしろ珍しい天体ショーとして楽しむことができます。本日の中日新聞夕刊に寄れば、1183年の金環日食では源平の戦いで平家が源氏を破った水島の戦いがあったそうです。日食を源氏が知らずに混乱したのが原因とか。そうなると、金環日食は平家の落武者との伝説を持つ我が家としては幸運を呼ぶものとなってくれるのかな?と、思います。

ところで、この日食。
大変珍しいのかとおもっていたら、名古屋では29年後に見られるそうです。

で、妻が
「私は見られると思うけどね。」
とのこと。

お、夫は・・・?

井伊直政 ~やさぐれひこにゃん~

2012年05月14日 | 戦国逸話
夜の打ち合わせなどが最近多く、ブログを書く時間がない上に、ネタの仕込ができません。なので、気がつけば、1週間近くブログを放置した状況となってしまっていました。
そこで登場願うのが、過去の遺産。出でよ過去コラム。

と、言うわけで、本日はゆるきゃらNo.1ひこにゃんゆかりの人物です。ひこにゃんは彦根藩主第二代井伊直孝を救った猫がモデルですが、その直孝の父親が直政。

井伊家は代々勤皇の家として知られます。南朝方として活躍したことが知られます。三ケ日の辺りに「井伊谷(いいのや)」という場所がありますが、その辺りが源流。井伊直政の親は今川家に謀殺されてしまい、直政は苦難の幼少期を歩むこととなってしまいます。ところが、徳川家康に見出されて一挙に家臣団筆頭まで躍り出る出世を見せることになります。さて、そんな井伊直政。一体どんな人だったのでしょうか?

小牧長久手の合戦では、
『直政の赤旗、赤幟が朝日の光に輝いて山より敵に立ち向かい、縦横に駆破り、敵を遂には倒して大将も数多く討ち取ったので、武士達だけでなく、この時から都の者まで直政を赤鬼と名付けた』
という活躍をしています。
 
徳川家康が恐怖した武田家。その特攻隊長山県昌景が全て部下を赤の甲冑で固めていたことにあやかって、旧武田家臣団を部下に付けられ、徳川家の赤備を担当したのが井伊直政です。だからひこにゃんは赤い兜をかぶってる訳なんですね。ちなみに、山県の赤備えにあやかったのは、あの真田信繁(幸村)も一緒。そういう意味では、山県ってすごい猛将だったってことです。そんな山県最期の地は設楽原古戦場。是非お越しください。

話がそれました。直政に戻りましょう。

直政は、この赤鬼ぶりを小田原城包囲戦の時にも発揮しています。
『小田原城攻めの時、家康は先陣を榊原康政に命じて直政を本陣詰めとした。直政は常に先陣を望むが、この時だけはいつもと違い先陣でなくても文句を言わなかった。小田原で豊臣秀吉がわずかな軍勢を連れて移動しているのを見て「殿、今ならあいつを討てます。」と家康に勧めたが、家康は無視していた。すると、「そんなら先陣にしてください。」と言った。』

いつもなら突撃隊長にしないと納得しない直政だったものの、この日は家康が秀吉を討ち取るつもりだから自分を手元に置いたと勘違いしたんですね。その勘違いに気づき、そんならいつものように突撃隊長にしてくれといった、という話です。当時家康は秀吉陣営。戦国の世の習いとはいえ、いつでも寝首を掻いてやろうという心意気。あの『ぽへっ』としたひこにゃんからは想像もつかない恐ろしさ。家康ですらあえて無視していると言うのに・・・。
ぜんぜんゆるキャラじゃありません。

この特攻隊長。どんな戦いぶりだったか小田原攻めのエピソードに詳細なものがありました。
『直政は先頭に立って敵の曲輪に押し寄せて、みずから鉄砲をとって城中に向かって放った。玉も火薬もぎゅうっと押し込めてから撃ったため、鉄砲の筒が裂けて、左手の指が吹っ飛んだ。しかし、直政これをものともせずに、その左手で鉄の盾を持って「えいとうえい」と進軍のかけ声をしながら攻め入ったので、部下も躊躇せず、城中に乱入してさんざんに戦ったとのことである。』

同じ徳川四天王の一人、本多忠勝は生涯怪我を負わなかったことで有名です。(うんこは踏んでますけど。)忠勝は死ぬ直前に足の爪を切っていたら、その小刀で指を傷つけて死期を悟ったくらいです。対する井伊直政は満身創痍で有名だったようです。こんな無茶苦茶な怪我もしていたんですねぇ。
このエピソードからは、先込式の火縄銃は硬く詰めすぎると暴発することもわかります。物騒なもんですねぇ。

さて、この直政の突撃ぶりは更なるエピソードを産みますが、これは、次回へ。

長篠城址史跡保存館・設楽原歴史資料館 会員証

2012年05月08日 | 奥三河
とうとう入会しました。

前々から入ろう入ろうと思いつつも延び延びになっていましたが、のぼりまつりの日に自転車で設楽原歴史資料館にも寄ったついでに入会。
会員になると研究紀要が送られてくる、というのも魅力の一つ。今年は奥三河山城スタンプラリー全城制覇感状があるので別に無料で入れるのですが、感状をあまり持ち歩きたくもない。1,500円/年を高いと見るか安いと見るかは人によりけりだと思いますけど、なんだかんだで入館することも多い自分は買ったほうがお得かな、と。

ついでに新城地区郷土史研究会にも入会しました。こちらは2,000円/年。
月1回程度に例会があるそうです。なにぶん、この地方の郷土史研究の深さと層の厚さには驚かされており、折角長篠近辺にいる間くらいはなんかに入っておきたいな、と。

やっぱり住んでいる地域の歴史を知っていたほうが、住む楽しさが倍増しますからね。
日本史上に燦然と輝く長篠・設楽原合戦の舞台という、すごい地域に住んでるわけですから、知らなきゃ勿体無いと思います。

なかなか書けない船渡橋

2012年05月07日 | 奥三河
設楽町名倉付近の船渡橋の戦いで奥平信光が戦った相手の遠山氏は織田信長に唆された、という説が一般ですけど、そうじゃないだろうということが、ただ言いたいだけでしたが、ちょっと行き詰った、というのは以前書きました。
※3日分あります。

で、まぁ、この時期の遠山氏の動きなどについて最近積極的な発言を恵那市教委の三宅唯美さんという方がされており、結構私の「織田信長じゃないんじゃない?」的な考え方と合致するので、最後はそれで締めよう、と思っているのですが、その前に遠山氏と東濃を巡る情勢を調べ始めたら、どんどんとさかのぼって行ってしまい、もう当分収拾が付かない状況になっています。ので、それをとりあえずご報告しておきます。

どこまでさかのぼったのかと言うと、応仁の乱です。
美濃には土岐氏という有力守護大名がいましたが、その守護代である斉藤妙春(さいとうみょうちん)という有名な家臣がいます。この人、美濃勢をまとめて相当勢力があり、応仁の乱の情勢に大きな影響力を持つまでに至ります。
で、現在の岐阜市を中心とした勢力である斉藤妙春を牽制するために、東軍細川氏は信濃の小笠原氏を動かして、岐阜の背後東美濃を襲わせます。そして、小笠原氏は木曽にいた木曽氏と結んで東美濃に進出。しばらく東濃を治めていました。その配下として遠山氏は東濃地方を治め続けていたものの、肝心の小笠原氏が武田信玄の下伊那進駐により崩壊。主がいなくなった国人領主である遠山氏は自立の動きを見せ、東濃地方を征圧したようなのです。
で、東濃地方を経由して飛騨へ攻め入る動きを見せた武田軍の動きに併せて行動していたようなのです。
三宅氏は、織田信長の叔母を妻に貰ったものの特に織田方と同調した動きを見せていない、と、主張されています。

そして、この時期の織田信長は西美濃には斉藤義龍がおり完全に反信長、三河との連絡網である現在の名古屋市守山も弟の織田信勝に封鎖されており、三河への連絡路が遮断されている。敵の背後を突く意味で遠山氏に同盟を持ちかけたとしても、遠山氏を配下のように扱える状況にはない、というのが私の推論です。それを裏付けるように遠山氏は武田氏配下としての行動を見せている、という研究結果もある。

どうしても岩村遠山氏と言うと女城主の織田信長の叔母のイメージから、「遠山っちゃ
織田信長の関係だろう。」という印象が強いようですが、そうではなくて、遠山は武田か独自の勢力に近い、ということと、そうなった場合の山家三方衆の置かれた立場、というものを見直してみたい、と、考えているわけです。

しかし、奥平家は今川に従っていた、という歴史もある訳でして(三岳城代を勤めている)、そうなると今川氏親、氏輝、義元、そして今川家と武田家、北条家の外交関係なども検討していかないと、山家三方衆の立ち位置が自分なりに理解・解釈できない。

で、奥三河の小さな戦いを調べていたはずなのに、応仁の乱の東軍細川勝元と西軍山名持豊(宗全)の同盟関係から、美濃守護代斉藤家、斉藤家の尾張への影響、斉藤道三の美濃簒奪、そして今川家から武田、北条、と、奥三河じゃない周辺地域のことを調べ始めてしまいました。
 現在、各種資料を読んで年表などに整理し、それぞれの相関関係を洗っているのですが、仕事と育児に追われてなかなか読み込めないのと、本業で夜も拘束されることが多くなってきて、遅々として進んでおりません。
 もっとも、こうしてたまにブログに書くことで、自分の中の整理にもつながります。

 ま、素人の趣味の域を出ませんが、意外と調べていると楽しいものです。

長篠のぼりまつり

2012年05月05日 | 奥三河
毎年5月5日は長篠のぼりまつりの日。

※娘連れだったため良い写真が取れず。

設楽原鉄砲隊の演武のみならず、米沢から鉄砲隊もやってきます。米沢の鉄砲隊は雷銃だとかの大口径銃がぶっぱなされるため、とてつもない音量です。そもそも演武が行われる長篠城本丸は土塁や木々で四方が囲まれ音が反響しやすい。一昨年に初めて聞いたときには驚いて座っていた斜面から滑り落ちそうになったほどです。

本日は娘を自転車に乗せ、ママチャリで疾走。
どうせ娘はすぐに怖がって帰ることになるだろうと思っていたら、五平餅を食べている最中に発砲音が聞こえ「何!聴きたい!」と行って大慌てで本丸へ向かいました。
意外にも娘は肩車で火縄銃演武を楽しんでおりました。

が、途中で「ママのところへ帰る。」と肩車している私の頭をバンバン叩きだしたので、そこでリタイア。そのまま眠くなりわがまま放題になりました。その後、自転車の後ろで寝ていました。

ちなみに、娘は日焼け止め塗りましたが、私は塗り忘れ、今、腕がヒリヒリです。

畑仕事

2012年05月04日 | 日記
昨年から家の近所の土地を借りて畑をやっております。
サツマイモの収穫体験を娘にさせてやれれば良い経験になるだろう、と、思って始めたのが動機です。なので、そこそこ遊べればよい、という程度だったのですが、畑を借りるのにあたってご近所さんと一緒に土地を借りた(1軒に付き年間2千円!要は使用貸借です。民法で習いましたが都会育ちの自分には土地の使用貸借など存在するのか、と、思ってましたが実在するんですね。笑。)ことから、皆さん色々と教えてくださる。種や苗も頂くので、いつのまにやら品目が増大。
今年は欲が出て、あれやこれやと画策してます。

よく歳を取ると農業に走る人が多いですが、なんとなくわかります。
草むしりしてますと、ぼけっとできますし、たまに仕事のことを考えたりなど結構よい気分転換になります。妻は妻でしょっちゅう子どもにまとわりつかれているのを、子どもの面倒を私が見ている間に畑仕事に精を出して体力なども使ってスッキリしているようです。まぁ、旅行などはしにくくなりますが、逆に金を使わずに楽しめる。

お隣さんには「本業よりそちらの方が似合ってる。」ともいわれました。
大学時代は考古学研究会で発掘作業をしてたので、そこそこ土掘りはやれるんですよね。農家が大変なのはよくわかるのですが、隣の芝生は青いじゃないですが、羨ましく感じる今日この頃です。

ちなみに、今日は深めの穴を掘って、乾かしていた雑草どもを葬り去りました。仕事上のイライラも一緒に埋められたのか、少しスッキリしています。